サンチョパンサの憂鬱

何も足さない、何も引かない自分は結構ツオイ……

結局……人間交流の肝となるのは男の度胸、女の愛嬌なんかじゃないのである。
殊更な作為によって演じられる度胸だの愛嬌だのは……邪魔になるだけで事の本質を複雑に縺れさせるだけなのである。

大切なのは、無意識、無作為に晒け出される
人の本質って奴が勝負を決めるのである。
在るがままに在らしめた人格ほど人に訴求する力を持つものはない。

ありのまま……構えないピュアはどんな作為的度胸より腹は据わってるしどんなに作為的な媚よりも愛くるしいものなのである。

そして何より複雑に縺れた状況の中から極めてシンプルな正解を見付けるのもピュアなのである。

人多く……『努力してピュアを損なう』モノである。
何故なら自分のピュアを信じるにはピュアな心を必要とするからだ……。
それ故……人は小賢しく努力なんぞしてしまうのである。

自分を信じる?そんな大上段の議論なんぞ必要ない。
信じようが信じまいが初めから終わりまで自分を使って生きて行かねばならぬと決まっているのだから……。

自分の心の疑心暗鬼なんぞに絡め取られるから自分より先ず他者を頼もうとする。
天上天下唯我独尊……小細工を弄する事なく状況に在るがままに立つ事……それがピュアなのである。

数少ない『我ながらよくぞ!』のシーンでは必ず……僕は震え怯えながらも自分をその場に剥き身で立たせていた。
惨めだから惨めに、不細工だから不細工に事を正視した時……不思議と事は成就したのだった。

仕事なんてどうでもいいけれど……男と女の勝負所では……正面から自分に向かわせる事。
なーんて体よくマトメに入ったけれど、これは嘘じゃない。

勝負所では何かをする事よりも、自分に不必要な小賢しい企みや策謀を一切止めて何もさせないことだ……。

出来うる限り……自分を在るがままに在らしめなさい……。
それこそが自然流、自分流の最強の使い手の自分となる方法である。

作為は結局……自分を迷わせる。簡単な真っ直ぐな道を迷路に変えてしまうのである……。


昨今の男と女の事情なんて漠然としたテーマは結局……論理化する様なものじゃなく体感していく以外に学ぶ方法なんて無いのだと思った。
その中で余りにもマニュアルにすがろうとする人達の多い事に気付いた。

人と自分は違う……それが全ての事の出発点となるキーワードでしょうね……。
その認識なく進めば……『自分にとっての最適』はドンドン霞んでいくばかりでしょう。
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