【アジアおよび日本におけるキリスト教】
キリスト教が中央アジアを通って東アジアに来た最初はネストリウス派――中国での景教――によってであり (7 世紀前半),その後 13,14 世紀にはフランシスコ会,ドミニコ会によるインド伝道があったと伝えられる。 16 世紀になるとアジア伝道が本格化して, 1542 年にイエズス会士ザビエルがインド西海岸のゴアに上陸し,その後 10 年以内に日本をふくむ東アジア一帯をカトリックの布教範囲に入れた。しかしザビエルは中国上陸を前にして没し,イエズス会の衰退があって,17 世紀にはその伝道の跡はほとんど消え,わずかにフィリピンでのみ続いた。他方プロテスタントは 17 世紀に入ってからヨーロッパの外へと伝道を始め,それがいちじるしく活発になったのはバプティストによってである。 ケアリーWilliam Carey (1761‐1834) は 1793 年ベンガルに上陸し,のちカルカッタに来てベンガル語聖書を完成した。このバプティストの間でも伝道協会が設立されたが,その後 95 年に設立されたロンドン宣教会の活躍はめざましく, J.R.モリソン,W.ミルン,ギュツラフを派遣して中国伝道を行った。ギュツラフは漢訳聖書で知られ,日本にも来たが上陸できなかった。
19 世紀に入るとさらに多くの伝道団体が設立されて,アジア全域にキリスト教が伝わるようになった。アメリカの長老派,バプティスト,メソディストの宣教師がもっとも多く,こんにち韓国や台湾で活動している多くはこれらの教派である。もちろん大英聖書協会 (1804 設立) のように超教派的伝道をめざすものも多い。 1865 年に J.H.テーラーによって始められた中国内地伝道会の活動は,アジア伝道史のうちもっとも記念すべきものといえよう。それは文化革命によって追放されるまでとどまっていた。その間本国イギリスからの資金援助は少なかったにもかかわらず,学校・病院その他の事業に手を出さず,教会を立てることすら目的でなく,ただ信仰のみによる福音の宣教が目的であったという。
日本では,景教徒が奈良時代に来た可能性は皆無とはいえないものの,その足跡は明らかでない。 1549 年にイエズス会のザビエルが来日し,その後も数名の宣教師が来て九州,中国,近畿地方に布教を行った。織田信長はこれを歓迎したが,豊臣秀吉は 1587 年追放令 (伴天連 (ばてれん) 追放令) を発した。その 5 年前,大村純忠らによって派遣された天正遣欧使節はローマに赴いて教皇グレゴリウス 13 世に謁している。禁教にもかかわらず,フランシスコ会士は 1593 年に初来日し,宣教師の一人ソテロは仙台へ行き,伊達政宗に迎えられた。江戸幕府は禁教令をきびしくし,オランダとのみ通商を認めたが,長崎の出島を離れることを許さなかった。しかし島原の乱 (1637‐38) 以後断たれたはずの信者も〈隠れ切支丹 (キリシタン) 〉として多数残存し,また平田篤胤や新井白石はひそかに禁書を読み,あるいは潜入宣教師に会うなどして蘭学研究の道を開くことができた。 ⇒キリシタン
キリシタン禁制が解けたのは 1873 年であるが,それ以前にペリーの浦賀上陸 (1853) とプロテスタント宣教師の来日 (1859),ロシア正教会司祭ニコライの来日 (1861) があり, 1865 年にはカトリックの宣教師プティジャンが〈隠れ切支丹〉に会った。 72 年に横浜に最初のプロテスタント教会が建てられるまでに受洗した者はわずか 5 名であったが,その教会は無教派たるべしとして日本基督公会と呼ばれ,日本におけるキリスト教の特徴を真っ先に示した。その後長老派教会といっしょになって日本基督一致教会と称した時期があったが,関西において新島襄らの指導する組合教会の参加がえられず, 日本基督教会と称するようになった (1890)。初期の宣教師として S.R.ブラウン,J.H.バラ,フルベッキ,L.L.ジェーンズ,C.M.ウィリアムズらの名があげられる。彼らが聖書の日本語訳と教育につくし,多くの人材を育てた功績は大きい。 1889 年発布の憲法は信教の自由を認めたが,同時に明治政府の体制強化は,それまで欧化主義に支えられて順調に伸びてきたキリスト教を抑えることとなった。教育勅語発布に際して 91 年初めの内村鑑三の不敬事件, 〈教育と宗教の衝突〉事件が起こった。これを契機に内村は宣教師からも離れて,日本人独自の信仰を求める無教会主義を唱えるに至った。やがて明治政府の国家主義と,急速な産業化のもたらす害悪が人々に自覚されるに至り,安部磯雄,片山潜らが社会民主党を起こしたが (1901),彼らは活動的なキリスト教徒であった。 1912 年,鈴木文治が東京のユニテリアン教会ではじめた友愛会は日本労働総同盟へと発展した。賀川豊彦と杉山元治郎は 1922 年に日本農民組合をはじめた。
昭和期に入ると宗教団体法が布かれてこのような運動はすべて抑えられ, 1941 年には教会合同が命ぜられ,それに従わない団体は教会活動が不可能になったほか, ホーリネス教会のようにはげしい弾圧を受けたものがある。合同によって成立した日本基督教団は,第 2 次大戦後に離脱した教派が多かったとはいえ,こんにちの日本の教会の主流をなしているといえる。もちろん戦後は,カトリックをはじめとして他の教会・教派が多数入ってきたので,信徒数の上では以下のように多様性が見られる。 1983 年版の《宗教年鑑》によると,キリスト者人口は約 104.6 万,うちカトリック中央協議会 37.8 万,日本ハリストス正教会 9000,日本基督教団 13.7 万,日本聖公会 5.5 万,日本バプテスト連盟 2.6 万,日本福音ルーテル教会 2 万,救世軍 8000,日本基督改革派教会 7000,イエス之御霊教会 22.7 万,末日聖徒イエス・キリスト (モルモン) 教会 6.9 万,その他となっている。
このような多様性をもつ日本のキリスト教にただちに固有性と一貫性を求めることは困難であるが,それでも神学においては植村正久が,聖書研究においては内村鑑三が,また社会的実践の領域では賀川豊彦がそれぞれ何ほどかの伝統をつくったとみられる。第 2 次大戦後にキリスト教と仏教との対話が深まっていることも,日本のキリスト教の特徴といえる。
泉 治典
キリスト教が中央アジアを通って東アジアに来た最初はネストリウス派――中国での景教――によってであり (7 世紀前半),その後 13,14 世紀にはフランシスコ会,ドミニコ会によるインド伝道があったと伝えられる。 16 世紀になるとアジア伝道が本格化して, 1542 年にイエズス会士ザビエルがインド西海岸のゴアに上陸し,その後 10 年以内に日本をふくむ東アジア一帯をカトリックの布教範囲に入れた。しかしザビエルは中国上陸を前にして没し,イエズス会の衰退があって,17 世紀にはその伝道の跡はほとんど消え,わずかにフィリピンでのみ続いた。他方プロテスタントは 17 世紀に入ってからヨーロッパの外へと伝道を始め,それがいちじるしく活発になったのはバプティストによってである。 ケアリーWilliam Carey (1761‐1834) は 1793 年ベンガルに上陸し,のちカルカッタに来てベンガル語聖書を完成した。このバプティストの間でも伝道協会が設立されたが,その後 95 年に設立されたロンドン宣教会の活躍はめざましく, J.R.モリソン,W.ミルン,ギュツラフを派遣して中国伝道を行った。ギュツラフは漢訳聖書で知られ,日本にも来たが上陸できなかった。
19 世紀に入るとさらに多くの伝道団体が設立されて,アジア全域にキリスト教が伝わるようになった。アメリカの長老派,バプティスト,メソディストの宣教師がもっとも多く,こんにち韓国や台湾で活動している多くはこれらの教派である。もちろん大英聖書協会 (1804 設立) のように超教派的伝道をめざすものも多い。 1865 年に J.H.テーラーによって始められた中国内地伝道会の活動は,アジア伝道史のうちもっとも記念すべきものといえよう。それは文化革命によって追放されるまでとどまっていた。その間本国イギリスからの資金援助は少なかったにもかかわらず,学校・病院その他の事業に手を出さず,教会を立てることすら目的でなく,ただ信仰のみによる福音の宣教が目的であったという。
日本では,景教徒が奈良時代に来た可能性は皆無とはいえないものの,その足跡は明らかでない。 1549 年にイエズス会のザビエルが来日し,その後も数名の宣教師が来て九州,中国,近畿地方に布教を行った。織田信長はこれを歓迎したが,豊臣秀吉は 1587 年追放令 (伴天連 (ばてれん) 追放令) を発した。その 5 年前,大村純忠らによって派遣された天正遣欧使節はローマに赴いて教皇グレゴリウス 13 世に謁している。禁教にもかかわらず,フランシスコ会士は 1593 年に初来日し,宣教師の一人ソテロは仙台へ行き,伊達政宗に迎えられた。江戸幕府は禁教令をきびしくし,オランダとのみ通商を認めたが,長崎の出島を離れることを許さなかった。しかし島原の乱 (1637‐38) 以後断たれたはずの信者も〈隠れ切支丹 (キリシタン) 〉として多数残存し,また平田篤胤や新井白石はひそかに禁書を読み,あるいは潜入宣教師に会うなどして蘭学研究の道を開くことができた。 ⇒キリシタン
キリシタン禁制が解けたのは 1873 年であるが,それ以前にペリーの浦賀上陸 (1853) とプロテスタント宣教師の来日 (1859),ロシア正教会司祭ニコライの来日 (1861) があり, 1865 年にはカトリックの宣教師プティジャンが〈隠れ切支丹〉に会った。 72 年に横浜に最初のプロテスタント教会が建てられるまでに受洗した者はわずか 5 名であったが,その教会は無教派たるべしとして日本基督公会と呼ばれ,日本におけるキリスト教の特徴を真っ先に示した。その後長老派教会といっしょになって日本基督一致教会と称した時期があったが,関西において新島襄らの指導する組合教会の参加がえられず, 日本基督教会と称するようになった (1890)。初期の宣教師として S.R.ブラウン,J.H.バラ,フルベッキ,L.L.ジェーンズ,C.M.ウィリアムズらの名があげられる。彼らが聖書の日本語訳と教育につくし,多くの人材を育てた功績は大きい。 1889 年発布の憲法は信教の自由を認めたが,同時に明治政府の体制強化は,それまで欧化主義に支えられて順調に伸びてきたキリスト教を抑えることとなった。教育勅語発布に際して 91 年初めの内村鑑三の不敬事件, 〈教育と宗教の衝突〉事件が起こった。これを契機に内村は宣教師からも離れて,日本人独自の信仰を求める無教会主義を唱えるに至った。やがて明治政府の国家主義と,急速な産業化のもたらす害悪が人々に自覚されるに至り,安部磯雄,片山潜らが社会民主党を起こしたが (1901),彼らは活動的なキリスト教徒であった。 1912 年,鈴木文治が東京のユニテリアン教会ではじめた友愛会は日本労働総同盟へと発展した。賀川豊彦と杉山元治郎は 1922 年に日本農民組合をはじめた。
昭和期に入ると宗教団体法が布かれてこのような運動はすべて抑えられ, 1941 年には教会合同が命ぜられ,それに従わない団体は教会活動が不可能になったほか, ホーリネス教会のようにはげしい弾圧を受けたものがある。合同によって成立した日本基督教団は,第 2 次大戦後に離脱した教派が多かったとはいえ,こんにちの日本の教会の主流をなしているといえる。もちろん戦後は,カトリックをはじめとして他の教会・教派が多数入ってきたので,信徒数の上では以下のように多様性が見られる。 1983 年版の《宗教年鑑》によると,キリスト者人口は約 104.6 万,うちカトリック中央協議会 37.8 万,日本ハリストス正教会 9000,日本基督教団 13.7 万,日本聖公会 5.5 万,日本バプテスト連盟 2.6 万,日本福音ルーテル教会 2 万,救世軍 8000,日本基督改革派教会 7000,イエス之御霊教会 22.7 万,末日聖徒イエス・キリスト (モルモン) 教会 6.9 万,その他となっている。
このような多様性をもつ日本のキリスト教にただちに固有性と一貫性を求めることは困難であるが,それでも神学においては植村正久が,聖書研究においては内村鑑三が,また社会的実践の領域では賀川豊彦がそれぞれ何ほどかの伝統をつくったとみられる。第 2 次大戦後にキリスト教と仏教との対話が深まっていることも,日本のキリスト教の特徴といえる。
泉 治典