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とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

近代カトリック教会 12

2006年12月07日 10時06分33秒 | 宗教・哲学・イズム
【近代カトリック教会】
 宗教改革が進行するにつれてヨーロッパは大きな混乱に陥った。ドイツ領主間の争い,ユグノー戦争, 三十年戦争があいつぎ,ウェストファリア条約 (1648) に至るまでの 1 世紀間,新旧両派の争いが絶えなかった。結果的にはユグノー戦争はフランスに人民主権の思想を起こし,三十年戦争は神聖ローマ帝国を消滅に導いたので,その間のカトリック側の〈反宗教改革〉と,これを支えた広範な再生運動とは,みずからの意図と,異なる方向へ進んだといってよい。その再生運動は中世におけると同じように,まず修道院に起こった。スペインは長い間イスラム教徒の侵入に悩まされていたが, 1492 年に国家は教会と一体となってこれを追放し,アメリカ大陸発見もあって,一時ヨーロッパの最強国となった。このころ静寂主義と呼ばれる神秘主義が盛んになり,アビラのテレサや十字架のヨハネがその先頭に立った。この運動はイタリアに伝播して〈オラトリオ運動〉 (オラトリウムは祈りの家で,ここではミサは行われない) を起こし, オラトリオ会,サレジオ会などを創設した。これらは厳格な会則をもつ修道会ではなく,社会的活動をめざす共同体である。
 反宗教改革のにない手となったイエズス会は, イグナティウス・デ・ロヨラが起こしたもので (1540 認可),これは〈戦闘部隊〉という意味でカンパニアと称された。 1558 年の会憲によれば,総会長の上に教皇が絶対の首長となり,会士はその命令に絶対に服従しなければならない。また特別な神学的訓練と徹底した霊操 (心霊修行) が要求された。イエズス会は各地でプロテスタントに対抗しただけでなく, 〈神の栄光のために〉の一念をもって海外に多くの布教師を送り,この点ではプロテスタントに一歩先んじた。日本伝道のザビエル,中国伝道のマテオ・リッチ,インド伝道のノビリRoberto de Nobili (1577‐1656) などが著名である。反宗教改革としていま一つ重要なのは, 1545 年 12 月に開かれて,63 年 12 月まで 3 期にわたってつづいたトリエント公会議である。イエズス会は,これに多数の有名なメンバーを派遣した。この公会議は古代の信条を確認し,《ウルガタ》 (ラテン語訳聖書) を決定し,サクラメントの扱いを厳格にし,さらに会議主義 (コンシリアズム) を排して教皇権を回復し,カトリック教会がプロテスタントによって少しも動じないとの姿勢を示した。
 しかしフランスでは,中世初期のガリア教会の伝統をつぐガリカニスムによって教会と国家は一体であるとの考えがあり,これにもとづいてユグノーを圧迫してきたが,ウェストファリア条約ではローマ教皇を支持しないとの態度を強く表明した。絶対王政を代表するルイ 14 世は〈太陽王〉と呼ばれ,みずからも〈神の代理者〉と称してユグノーを弾圧し,さらに恩恵と自由意志の問題でイエズス会と争ったジャンセニスト (ジャンセニスム) を弾圧したが,そのガリカニスムは教皇をも抑え,イエズス会の教会中心主義とも対立することになった。教皇クレメンス 14 世は 1773 年にイエズス会に解散を命じたが,それは教会が政治に干渉することの無益を知ったからにほかならない。先にトリエント公会議は教皇権を回復させたが, 1861 年にイタリア王国がローマを首都としたため教会領は失われ,教皇は政治から自由な者となったということがある。中世以来国家の独立と発展に伴って起こった教権と王権の対立はここに終止符をうち,同時にカトリック教会はプロテスタント教会と並ぶ教派的存在となったといえる。
【近代プロテスタント諸教派】
 ルターは《現世の主権について》 (1523) のなかで 2 国論を論じつつ,教会の非政治化の方向をさしていた。実際ドイツのルター派は,熱狂派や再洗礼派とはするどく一線を画して地方教会として自己を形成したが,これは教会が,自己の自由を制限しながらこの世の権力からの自由を求めるという生き方であって,これにより近代プロテスタンティズムは,中世における教権と王権,教会と修道院,正統と異端の並行と対立を原理的に克服する手段を得た。近代化に関してルター派と改革派が歩んだその後の経過は同じでないが,今や教会は世俗との対立をばねに変わっていくのではなく,むしろ世俗を開放し,それゆえ教会の改革は教会自身でなされる (〈教会はつねに改革されねばならぬ〉という標語) こととなったのである。ここに信教の自由や社会倫理の形成をもたらす近代キリスト教の〈世俗化〉があり,カトリック教会もまたこれを追っていくが,これをもって教会史の第 3 の段階とみなすことができる。
 宗教改革は時代的制約からくるあらゆる不徹底さにもかかわらず,この点で中世とは非連続の種を宿していたといわねばならない。ドイツのルター派教会は,1 世紀にわたる激動ののちに, 敬虔主義 (ピエティスムス) によって近代化への道を歩み出した。シュペーナー,フランケ,ツィンツェンドルフに代表される 3 代の歩みは,啓蒙の進展と重なっている。敬虔主義は,超自然的理性でもって組織される正統主義の教義学を排し,聖書と説教を重んじ,内的敬虔の豊かな信徒の共同体をつくり,社会的実践にも積極的に取り組んだ。 ディアコニッセと呼ばれる社会事業が始まったのは 19 世紀に入ってからであるが,その精神は敬虔主義に根ざしている。 ドイツ神秘主義,フランスのキエティスム, ピューリタンの禁欲などにつらなる所があり,その点で敬虔主義は孤立した運動ではなかったが, 〈教会内の小教会〉を標榜しつつも教派とならなかったことはピューリタンと異なっている。 ツィンツェンドルフはチェコ兄弟団とも協力してヘルンフート兄弟団をつくり,アイスランド,アメリカ新大陸,東インドへの伝道を行った。 シュライエルマハーはこの兄弟団に育てられ,やがて近代主義の神学を形成した。それは形式的な教義学や信条から離れた信仰論,宗教論であって,〈絶対的依存感情〉としての敬虔の体験を記述することが神学の課題となった。敬虔主義は啓蒙と結びついて聖書の歴史的,批評的研究を進めてきたが,それがこの自由主義神学と一体になって 19 世紀はかつてない学問の世紀となり,それだけキリスト教の世俗化が進行したと見られる。
 イギリスにおいてルター,カルバンの改革思想をうけつぎ,国教会の不徹底な改革を徹底させて近代化の道を開いたのはピューリタン (清教徒) である。 R.ブラウン,グリーンウッドJohn Greenwood (?‐1593), バローHenry Barrow (1550 ころ‐93) らは国教会から出て独立派independents となり,会議制的な長老派をも退けて個々の教会の自主性をたっとび,教職・平信徒の区別のない〈万人祭司〉を実現しようとした。これが会衆派教会(コングリゲーショナル・チャーチ) の基となった。ピューリタンの思想の基礎は,オランダ改革派の神学者コッツェーユスJohannes Coccejus (1603‐69) の契約神学である。これは選びと契約による共同体の成立を救済史の目標とし,この目標に向けて実践的禁欲を重視する。 O.クロムウェルは王政と貴族院を廃して共和政を立て (ピューリタン革命,1649),この理想の実現をはかったが,その後の混乱のなかでピューリタンはしだいに政権をうばわれ,名誉革命 (1688) 以後はもっぱら教派として活動するに至った。それは中世にみられる分派 (セクト) と異なり,国家権力を離れることによってかえって教会独自の力を回復し,世俗化を積極的にうけとめるものであった。 1620 年にアメリカに移住したピルグリム・ファーザーズ (〈巡礼の先祖たち〉の意) につづいて多くのピューリタンがニューイングランドに植民地をもうけ,神政制を緩和して教会を中心とする民主的なタウン・コミュニティを建設した。教派は伝統的教会から別れるが,教会本来の課題に積極的にとり組むという点で,教会と本質を異にするのではない。しかし教派が自由に発達したアメリカでは,逆に世俗社会の多様な要求に従って立てられる分派なり非歴史的集団としてのデノミネーションも多数生じた。
 近代の重要な教派としては,すでにあげた長老派と会衆派のほか, バプティスト,クエーカー (基督 (キリスト) 友会), メソディストがあげられる。バプティストとクエーカーはそれぞれに内的神秘的生命を重んじ (再洗礼派とバプティストとの連関は否めない),制度をきらって教会の外に出て,積極的に伝道を行うほか,良心の自由と平和を社会的にも実現しようと努めた。初期のバプティストとして J.バニヤンが有名である。他方 18 世紀半ばにウェスリー兄弟によって始まったメソディズム運動は,少なくとも最初は独立の教派をつくろうとせず,信徒各自の内的覚醒や兄弟団的活動を進めることによって国教会を改革し,新しい市民社会と産業社会に適合する道を求めた,という特徴をもっている。 メソディストとは,創始者の杓子定規的な生活方法 (メソッド) のゆえにつけられたあだ名である。しかしメソディストもアメリカでは教派として成長し,バプティストとならぶ二大教派となって奴隷解放に力をつくし,積極的に海外伝道を行った。イギリス本国内にとどまって国教会を改善し,社会問題や労働問題にかかわっていったものとしては, 19 世紀半ばの広教会派があげられる。
【現代のキリスト教】
[カトリック教会]
 カトリック教会は 19 世紀に入って神聖ローマ帝国の終りを見,ついでイタリア王国建立とともに教会領を失い,さらに 1929 年のラテラノ協定によりバチカン市国を得てイタリアの国教となった。こうして 1500 年におよぶ教会国家が終わったことはただちにカトリシズムの衰退を意味せず,かえってこれをとおして現代の宗教へと脱皮したとみられる。 300 年にわたって開かれなかった公会議は, 1869‐70 年にバチカンでもたれ,〈教皇不可呈説〉が新しい教義として立てられた。これは,啓蒙主義と自由主義によるカトリシズムの衰退に抗して教皇至上主義を回復しようとした以前からの運動の成果でもあった。その運動に〈ウルトラモンタニズム〉があり,またイエズス会の復興 (1814) がある。しかし同時に,教義の決定には公会議の承認が必要であることの先例を開いたもので,これ以後カトリック内部においてカトリックを批判するということが始まったとみられる。その批判は,普遍主義と分立主義,あるいは教皇至上主義と会議主義との対立から起こる従来の政治問題とは異なって,いっそう宗教的なものである。 〈古カトリック主義〉運動はウルトラモンタニズムやネオ・トミズム (新トマス主義) のような保守的なものを退けて, 8 世紀以前の伝統に帰ることを主張したもので,各国語での礼拝や教会合同への参加など,こんにち活用されるに至った提言をもっていた。
 フランスの近代主義者ロアジーは大学からの追放や破門に屈せず,プロテスタントの聖書批評学をとり入れて大胆な学説を発表した。 H.S.デニフレ,H.von バルタザール,K.ラーナー, H.キュンクら,現代のカトリック神学者の多くが,宗教改革の研究,プロテスタント神学との対話,信仰の実存論的解釈などを行っている。第 2バチカン公会議は 1962‐65 年に開かれ,出席者 2800 名におよぶ史上最大のものとなり,プロテスタント側のオブザーバーもこれに加わった。その間,教皇パウルス 6 世がエルサレムでユダヤ人を前に説教したこと,また会期の終りに,かつて東方正教会に投げた破門状を破棄したことは,象徴的とはいえ歴史に記録されるできごとであった。会議は 4 期に分かれ,信仰の内的刷新,典礼の画一化の訂正,教会一致運動の推進,戦争回避のための国際協力などに関する宣言,教令が採択された。この会議を経てカトリック教会は,非政治的手段でもって平和と正義を訴える信仰団体に変わりつつある。
泉 治典
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