出雲大社 いずもたいしゃ
島根県簸川 (ひかわ) 郡大社町に鎮座。大国主 (おおくにぬし) 神をまつる。 《延喜式》では名神大社。旧官幣大社。 杵築 (きづき) 大社,杵築社,杵築宮ともいう。古代の出雲では熊野,杵築,佐太,能義の各社が〈大神〉とされていたが,中でも,出雲国造の本拠地である意宇 (おう) 平野の熊野大社と簸川平野の北西の杵築大社とが,厚い尊信をうけていた。しかし,ヤマト朝廷の出雲制圧は,出雲西部からすすんだので,杵築大社がとくに重視されるようになった。すなわち,初めは,簸川平野をおさえて成長した豪族神門 (かんど) 氏が,その配下の人々を日置部・海部・鳥取部・神奴部等に編成して,杵築大神の祭料をととのえさせた。神門郡の山間部についても,吉栗山は〈大神の宮材を造る山〉,宇比多岐山は〈大神の御屋〉などとすべて杵築大神の神料を調備するところであり,大神の依代 (よりしろ) とされた。さらに 7 世紀半ば過ぎの斉明朝に,対新羅・唐関係の緊迫したころ,朝廷から修築の命令が出されたが,これは杵築宮の大きな転機となったとみられる。こうした経緯の後に,中央の史局で《古事記》《日本書紀》の編纂がすすむと,その出雲国譲り神話で,この社の起源を語るようになったらしい。すなわち,《古事記》では,国譲りした大国主命のために多芸志 (たぎし) の小浜に立派な宮をつくり, 侯八玉 (くしやたま) 命が膳夫となって神饌を供えたとし, 《日本書紀》ではこの宮を天日隅宮 (あめのひすみのみや) と呼び天穂日 (あめのほひ) 命を遣わして司祭者とした,と記している。こうした神話と習合しながらもやや異相を記すのが《出雲国風土記》で,天日栖宮 (あめのひすみのみや) は〈天の下造らしし大神 (大己貴 (おおなむち) 神) 〉のために出雲の神々が集まって,天津神の構えにのっとって作ったものであり,このとき天御鳥 (あめのみとり) 命が天下って神宝の盾を作った,と述べている。
律令制下では,山陰道で最大の出雲大社の造営には造出雲社使が派遣されたが,その本殿の建築様式の特異さが出雲大社の名を高めた。それは床下の柱がきわめて長大なもので, 970 年 (天禄 1) の《口遊 (くちずさみ) 》の大屋の誦に〈雲太,和二,京三〉として,出雲大社の神殿は, 〈和二〉の大和東大寺大仏殿や,〈京三〉の京の大極殿の高さ 12 丈 (36m余) あるいは 15 丈よりも大きいといわれた。しかし,のち出雲大社の造営には,出雲国司が国内の社寺権門の荘園に平均に造営料を課すようになったが, 1248 年 (宝治 2) の造営時から神殿の規模が縮小された。一方,出雲大社の神主としての国造家が管領する社領の郷村のほか,荘園が幕府や国司から寄進された社領や国造家領も成立したが,鎌倉時代末から室町時代には日御碕 (ひのみさき) 社と社領争いをくりかえし,国造家も千家・北島両家に分かれて対立した。しかし,この間にも出雲信仰はひろく全国に及んでいった。近世には,社殿の造営は 1609 年 (慶長 14) に豊臣秀頼により, 67 年 (寛文 7) には将軍徳川家綱によって行われたが,現在の社殿はその次の 1744 年 (延享 1) の造営によるもので,いわゆる大社造の代表的な様式を示しており,国宝に指定されている。 ⇒出雲信仰∥出雲神話∥出雲国造
門脇 禎二
[建築]
島根県簸川 (ひかわ) 郡大社町に鎮座。大国主 (おおくにぬし) 神をまつる。 《延喜式》では名神大社。旧官幣大社。 杵築 (きづき) 大社,杵築社,杵築宮ともいう。古代の出雲では熊野,杵築,佐太,能義の各社が〈大神〉とされていたが,中でも,出雲国造の本拠地である意宇 (おう) 平野の熊野大社と簸川平野の北西の杵築大社とが,厚い尊信をうけていた。しかし,ヤマト朝廷の出雲制圧は,出雲西部からすすんだので,杵築大社がとくに重視されるようになった。すなわち,初めは,簸川平野をおさえて成長した豪族神門 (かんど) 氏が,その配下の人々を日置部・海部・鳥取部・神奴部等に編成して,杵築大神の祭料をととのえさせた。神門郡の山間部についても,吉栗山は〈大神の宮材を造る山〉,宇比多岐山は〈大神の御屋〉などとすべて杵築大神の神料を調備するところであり,大神の依代 (よりしろ) とされた。さらに 7 世紀半ば過ぎの斉明朝に,対新羅・唐関係の緊迫したころ,朝廷から修築の命令が出されたが,これは杵築宮の大きな転機となったとみられる。こうした経緯の後に,中央の史局で《古事記》《日本書紀》の編纂がすすむと,その出雲国譲り神話で,この社の起源を語るようになったらしい。すなわち,《古事記》では,国譲りした大国主命のために多芸志 (たぎし) の小浜に立派な宮をつくり, 侯八玉 (くしやたま) 命が膳夫となって神饌を供えたとし, 《日本書紀》ではこの宮を天日隅宮 (あめのひすみのみや) と呼び天穂日 (あめのほひ) 命を遣わして司祭者とした,と記している。こうした神話と習合しながらもやや異相を記すのが《出雲国風土記》で,天日栖宮 (あめのひすみのみや) は〈天の下造らしし大神 (大己貴 (おおなむち) 神) 〉のために出雲の神々が集まって,天津神の構えにのっとって作ったものであり,このとき天御鳥 (あめのみとり) 命が天下って神宝の盾を作った,と述べている。
律令制下では,山陰道で最大の出雲大社の造営には造出雲社使が派遣されたが,その本殿の建築様式の特異さが出雲大社の名を高めた。それは床下の柱がきわめて長大なもので, 970 年 (天禄 1) の《口遊 (くちずさみ) 》の大屋の誦に〈雲太,和二,京三〉として,出雲大社の神殿は, 〈和二〉の大和東大寺大仏殿や,〈京三〉の京の大極殿の高さ 12 丈 (36m余) あるいは 15 丈よりも大きいといわれた。しかし,のち出雲大社の造営には,出雲国司が国内の社寺権門の荘園に平均に造営料を課すようになったが, 1248 年 (宝治 2) の造営時から神殿の規模が縮小された。一方,出雲大社の神主としての国造家が管領する社領の郷村のほか,荘園が幕府や国司から寄進された社領や国造家領も成立したが,鎌倉時代末から室町時代には日御碕 (ひのみさき) 社と社領争いをくりかえし,国造家も千家・北島両家に分かれて対立した。しかし,この間にも出雲信仰はひろく全国に及んでいった。近世には,社殿の造営は 1609 年 (慶長 14) に豊臣秀頼により, 67 年 (寛文 7) には将軍徳川家綱によって行われたが,現在の社殿はその次の 1744 年 (延享 1) の造営によるもので,いわゆる大社造の代表的な様式を示しており,国宝に指定されている。 ⇒出雲信仰∥出雲神話∥出雲国造
門脇 禎二
[建築]