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天皇三代の素顔を知る側近が、「大正天皇」を最も評価していた理由  現代ビジネス  10/22(月) 13:00配信

2018年10月22日 13時59分50秒 | 時事問題(日本)

3ページにわたる記事を読みやすいように1ページにまとめました。

天皇三代の素顔を知る側近が、「大正天皇」を最も評価していた理由

10/22(月) 13:00配信

現代ビジネス

 まもなく平成が終わる。その節目の年に、元宮中側近の坊城俊良による手記『宮中五十年』が復刊された。

 明治・大正・昭和三代の天皇の人柄に間近で触れた彼の述懐は、自らの意思で「おことば」を発し生前退位を決めた今上天皇の心中、そして今まさに大きく変わろうとしている「天皇制」を考えるための、重要なヒントとなる。

 古今の「皇后」から、天皇制の本質に迫った大著『皇后考』でも知られる原武史氏が、本書に込められた坊城の想いを読み解いた。

なるべく外出しなかった明治天皇

 本書が、著者の坊城俊良と付き合いの深かった元慶應義塾塾長・小泉信三の「序」、新聞伊勢春秋主筆・角田時雄の「あとがき」を付して明徳出版社から刊行されたのは、皇太子明仁と皇太子妃美智子が結婚した翌年の1960(昭和35)年。2016年に講談社学術文庫として再刊された山川三千子『女官(じょかん)』が実業之日本社から刊行されたのと同じ年であった。

 どちらも、元宮中側近が知られざる「お濠の内側」の世界を生々しく語った回想録である。

 山川三千子は、数え18歳だった1909(明治42)年に皇后宮職の女官となり、大正になっても引き続き明治天皇の皇后だった美子(はるこ、昭憲皇太后)に仕えて14(大正3)年に退官したから、宮中で暮らしたのはわずか5年にすぎない。

 一方、坊城俊良は、数え10歳で侍従職出仕として明治天皇に仕え始めた1902(明治35)年から、皇太后宮大夫として仕えた皇太后節子(貞明皇后。節子は「さだこ」と読む。77頁に「貞子」とあるが、「節子」が正しい)が死去する51(昭和26)年までの半世紀にわたって宮中側近をつとめた。

 内容もきわめて対照的である。講談社学術文庫版『女官』の「解説」で記したように、山川三千子はいたずらに天皇や皇后を礼賛することはせず、大正天皇や貞明皇后に対する複雑な感情を隠そうとしなかったのに対して、本書で坊城は、直接仕えた明治天皇や大正天皇や皇太后節子はもとより、皇后美子や昭和天皇の弟、秩父宮についても、ひたすら褒め上げることに終始している。

 山川と比べて宮中生活が長かったがゆえの自然の振る舞いのように見えなくもないが、このことが直ちに本書の学術的価値を貶めているわけではない。

 むしろ、本書の記述からは、2016年8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(以下、「おことば」)で天皇明仁が定義づけた現代の象徴天皇制を見直す上で貴重な証言を見いだすことができる。

 まずは、少年期に仕えた明治天皇の振る舞いについて語る文章に注目したい。坊城は、明治天皇が御用邸を一度も利用しなかったことに触れるとともに、天皇が外出を極力控えた理由をこう述べている。

 〈それは、御質素・御経済のお考えばかりでなく、お出かけになった場合の、官吏や一般国民の迷惑、大騒ぎさせることの無駄を、気の毒がっておられたのであった。
陸軍の大演習、海軍の観艦式・進水式、または学校などには公務としてお出かけになった。一度大阪の内国勧業博覧会に御奨励のためお出かけになり、お留守になったことがあったが、その他には全くお出かけにならなかった〉(27頁)

 坊城が仕えたころの明治天皇は、必要最小限の行幸しかしなかった。それは天皇がひとたび外出するや、大がかりな警備や規制がしかれ、国民生活に重大な影響が及ぶことをわかっていたからだと言うのである。

行幸に力を入れた今上天皇

 これを「おことば」と比較してみよう。

 「おことば」で天皇明仁は、「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅」を「天皇の象徴的行為」に位置付けている。ほぼ全国を旅することで、「国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々」がいることを認識させられたと言うのだ。

 「国民を思い、国民のために祈るという務め」は、頻繁に行幸を行い、人々に直接会うことによって初めて果たされるという考え方がここにはある。

 明治天皇の考え方は、これとは全く対照的である。

 大日本帝国憲法下の明治時代と日本国憲法下の現在では、行幸に伴う警備や規制の規模が違うではないかという異論があるかもしれないが、そうではない。

 例えば2017年11月の天皇皇后の鹿児島県行幸啓に同行した日本経済新聞社編集委員の井上亮(まこと)は、「屋久島から沖永良部島のホテルに着くまで、異様に感じたのは警察の尋常でない警備態勢だ。地方行幸啓ではつきものの『過剰警備』だが、今回は『こんな小さな島で、これほどの人数が必要なのか』と思えるほど警官の姿が目立った」と述べている(『象徴天皇の旅――平成に築かれた国民との絆』、平凡社新書、2018年)。

 こうした警備や規制が、昭和から平成にかけてずっと行啓や行幸啓のたびに繰り返されてきたのである。しかし「おことば」には、自分たちが外出することで警備が過剰になり、国民生活に影響が及ぶことに対する自覚的な言及はない。

 私たちの多くは、頻繁に地方を訪れ、人々と言葉を交わす天皇や皇后の姿に半ば慣れてしまっているから、「おことば」に対してもさほど違和感をもたなくなっている。しかし本書を読むと、行幸を控えることが、かえって国民を深く思うことにつながるという考え方もあることがわかる。

最も「人間的」だった大正天皇

 大正天皇についてのエピソードも興味深い。

 大正天皇は明治天皇とは異なり、自らが周囲に影響を与える立場にいることを極力打ち消そうとした。本書では、皇太子時代に沼津御用邸から自転車に乗って近くの家を突然訪れたり、天皇になっても青山御所から宮城への道筋をわざと変更したりしたことが語られている。

 拙著『大正天皇』(朝日文庫、2015年)で詳しく触れたように、その人間性は皇太子時代の度重なる地方への行啓でいかんなく発揮された。あらかじめスケジュールの決まった平成の行幸啓ではあり得ない自由な振る舞いを繰り返し、新聞に大きく報道されたのだ。

 坊城は明治天皇とは異なる大正天皇の性格を非難するどころか、温かい眼差しを注いでいる。そして天皇になってから「大正流」を貫くことができず、体調を崩したことに心からの同情を寄せている。

 〈終戦後、占領政策の要請とかで、わざわざ“人間天皇”の御宣言があったが、私たちからいわせると、不思議でもあれば不可解でもある。大正天皇のごときは、もっとも人間的な、しかも温情あふるる親切な天皇であられた〉(78頁)

 「“人間天皇”の御宣言」というのは、1946(昭和21)年1月1日に昭和天皇が発した「新日本建設ニ関スル詔書」のことだ。この詔書で天皇は、自らを「現御神(アキツミカミ)」(=現人神)とする考え方を「架空ナル観念」として否定した。これを「第一の人間宣言」とし、天皇明仁が退位の意思を強くにじませた「おことば」を「第二の人間宣言」と位置付ける有識者も少なくなかった。

 しかし坊城の文章は、こうした見方を一蹴する。

 坊城に言わせれば、大正天皇こそが最も人間的な天皇であり、逆にわざわざ「“人間天皇”の御宣言」をしなければならない天皇というのは一体何なのかという思いがあった。

 確かに大正天皇に比べれば、昭和天皇は「神」であり、前述したような行幸啓での過剰な警備や規制を見る限り、天皇明仁といえどもまだ「人間」になりきれていない。

 「天皇が人間ならば、もっと、つつましさがなければならぬ。天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすすめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい」と坂口安吾が「天皇陛下にささぐる言葉」(『坂口安吾全集』15、ちくま文庫、一九九一年所収)で言うところの「人間」には、まだなっていないのである(この点については、拙稿「デモクラシーと『国体』は両立するか? ――戦後日本のデモクラシーと天皇制」、水島治郎・君塚直隆編『現代世界の陛下たち――デモクラシーと王室・皇室』、ミネルヴァ書房、2018年所収を参照)。

 

昭和天皇については、語らなかった

 

 坊城が宮中生活の最後に当たる占領期に仕えたのが皇太后節子(貞明皇后)であった。貞明皇后は、1926(大正15)年12月に大正天皇が死去してから51年5月に急死するまで、約25年間にわたって「大宮様」と呼ばれる皇太后の地位にあった。

 〈この間に処して大宮様は胸中たえざる傷心を抱かれながら、ただ黙々としてこの苦難のうちを歩まれた。そして常に一切の華美と娯楽を遠ざけられ、さながら終身の喪に服していられるかのような、おいたわしい日常を送られた。

 そうかといって、全くの世捨人のごとく世の中とかけ離れた生活を送られたのではなかった。ただ表に立って公式に活動されなかっただけで、皇后時代とは比較にならないほどの自由さで、ひそかに御自身のお志によって国民にも接触された。しかし、日常においても、また一年間に見ても――終戦前後の明け暮れは概して単調で、それが長い間、静かにくり返されていたのである〉(132~133頁)

 自らが仕えなかった時期の皇太后節子につき、坊城は右のように語っている。

 だが、宮内公文書館所蔵の「貞明皇后実録」をはじめ、『高松宮日記』第八巻(中央公論社、1997年)や『続・現代史資料4 陸軍 畑俊六日誌』(みすず書房、1983年)など、本書が刊行されてから公開ないし刊行された第一級の史料や資料は、いずれも「ただ黙々としてこの苦難のうちを歩まれた」「終戦前後の明け暮れは概して単調で、それが長い間、静かにくり返されていた」とする坊城の回想を見事なほど裏切っている。

 なぜなら、戦中期の皇太后節子は戦勝を最後まで祈り続ける一方、昭和天皇に対抗して戦地から帰還したおびただしい数の軍人と大宮御所で面会し、激励の言葉をかけていたからだ(拙稿「戦中期の天皇裕仁と皇太后節子」、御厨貴編『天皇の近代――明治150年・平成30年』、千倉書房、2018年に所収)。

 占領期の皇太后は、そうした過去をいっさい封印したまま、あたかも戦争とは一切関わりがなかったかのように振る舞っていたのである。

 皇太后節子の四人の子供(昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)のうち、彼女が最も愛情を注いだのが、誕生日が同じ6月25日の秩父宮だったと言われている。本書には、秩父宮が結核のため静養していた静岡県の御殿場を、晩年の皇太后がしばしば訪れたことが記されている。

 皇太后節子を慕っていた坊城は、秩父宮の態度もまた高く評価している。他方で昭和天皇については、明治から大正にかけて、後の秩父宮や高松宮と一緒にいたときの回想(80~83頁)や、1946(昭和21)年6月に訪れた静岡県の沼津で皇后、皇太后と顔をそろえた場面(100~103頁)を除いて記されていない。

 その背景には、皇太后節子や秩父宮とは異なり、本書の刊行当時、昭和天皇がまだ生きていたという事情があっただろう。ただ「“人間天皇”の御宣言」に対する批判的な記述から察するに、評価は大正天皇ほど高くはなかったのではないか。

 坊城が明治天皇に仕え始めた前年に生まれたこの天皇への言及を周到に避けていることで、ますますその印象は強まるのである。

 

原 武史

 


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