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音楽大好き男の徒然なる日記

3・11から12年 影をこそ伝えたい(東京新聞 社説)

2023-03-14 | 日記
この新聞記事は2021年3月当時のものですが、
自分が伝えたい趣旨はまったく変わっていませんので、
あえてこのまま再掲載いたします。

(ブログ初出:2022年3月15日付)

東京新聞 2021年3月11日付社説
「3・11から10年 影をこそ伝えたい」
 https://www.tokyo-np.co.jp/article/90767?rct=editorial



窓越しに遠く、水平線が見渡せます。
10年前、東京電力福島第一原発に襲いかかったあの海です。

福島県双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」。
原発から北へ四キロの海辺に広がる「福島県復興祈念公園」の一角に、昨秋開館したばかり。
ガラス張りの外観が印象的な、それ自体がアートのような建物です。

総事業費は約53億円。
国の復興予算を使って福島県が建設し
「公益財団法人・福島イノベーション・コースト構想推進機構」という団体が運営しています。


◆教訓を伝えているか
来館者はまず円形のシアターに通されて、
壁いっぱいに映し出される原発事故や津波の模様を記録した映像作品を鑑賞します。

<光もあれば影もあります。
事故のこと、復興のこと。
この場所で皆さんと一緒に考えることができたなら>

福島県出身の俳優西田敏行さんの語りに導かれ、螺旋状(らせんじょう)の回廊を展示室へと進むのですが―。

県が収集、保管する約24万点の震災資料のうち、
実物展示されたのは、突然の避難を強いられて置き去りにされたランドセルやカメラなど、170点足らず。
映像や展示パネルにも、
安全神話を形成し、原発誘致を主導した国や県、東電の責任などへの言及は、ほとんどありませんでした。


「教訓が伝わらない」
「光ばかりで影がない」…。

被災者からも多くの批判が寄せられて、
開館して半年もたたないうちに、大規模な展示替えが進んでいます。

例えば「原子力 明るい未来の エネルギー」という標語を掲げた長さ16メートルの大看板。
かつては町の中心に、まるで凱旋門(がいせんもん)のように飾られていたものの、
震災後「老朽化」を理由に撤去され、
役場の片隅に死蔵されていた実物が、今あるパネル写真に替えて展示されることになりました。
震災後「負の遺産」と呼ばれるようになった看板です。


◆暗転した「明るい未来」
双葉町に生まれ、今は茨城県古河市で太陽光発電事業を営む大沼勇治さん(45)が看板の標語を作ったのは、
小学6年生の時。
町からの募集に伴う学校の宿題でした。

「原発のおかげで、町は仙台のように大きくなって、新幹線もやって来る。
そんな21世紀を本気で思い描いていたんです」と、勇治さんは振り返る。
全国の原発立地に共通の“夢”でした。

10年前の今日、「明るい未来」は突然、文字通り暗転します。

双葉町にいた発災時、妻のせりなさん(45)は妊娠7カ月。
できるだけ安心安全な場所で出産をと、親類を頼って夫婦は愛知県安城市に避難しました。

その年7月、
勇治さんは防護服に身を包み、町が仕立てたバスで、避難後初めて双葉町に立ち入った。
ひとけの全くない町をダチョウや牛がわが物顔でのし歩く。
懐かしいはずのふるさとに、恐怖を感じる自分に気が付きます―。

「原子力 破滅を招く エネルギー」。
その時、大沼さんは心の中で看板を書き換えました。
そして
「この町の過去と未来を記録し続けよう。看板の言葉とともに次の世代に伝えていこう」と決めました。

看板の撤去にあらがい、撤去後は伝承館への実物展示を訴え続けてきたのも、そのためです。

せりなさんは、同じ県内でも原発からは距離のある会津若松市の出身ですが、
勇治さんに深く共感し、ともに活動しています。

「原発のこと、原発事故のこと、
やっぱり子どもたちに伝えてあげたいと思うんです。
この町でこういう悲惨なことがあったんだよって。
看板を展示できれば、あれを見て、みんな、いろいろ考えてくれるんじゃないかしら。
事実を知って、考えて、
本当に『明るい未来』を、それぞれに築いてほしい」


安城で生まれた長男の勇誠君は6月、10歳の誕生日を迎えます。
勇治さんは背負い続けた看板に、せりなさんは子どもたちの成長に、10年の重みを感じています。


◆遠い道のりだからこそ
「もう10年? まだ10年? やっと10年?」などと言われます。
しかしやっぱり「まだまだ10年」なんでしょう。

「まだ」と言えば廃炉におよそ40年。
核のごみを無害化するには10万年。
まだ、まだ、まだ、まだ…。


<原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか>
せりなさんと話をしながら、ふと思い浮かべた言葉。
大江健三郎さんの「ヒロシマ・ノート」に引用された、中国新聞論説委員の問いかけです。

原発は威力として知られたか。
人間的悲惨として知られたか。
私たちは何を伝えていくべきなのか―。

3・11から10年の一里塚。
私たちも自らに、あらためて問いかけなければなりません。 


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「東日本大震災から12年。
 何度3.11を過ごしても、
 あの時の衝撃、恐怖、絶望は、昨日のことのように鮮明なまま意識を支配している。
 
 犠牲になられた全ての尊い命に心から哀悼の意を捧げます。
 そして未だに故郷へ戻れていない方々の安堵の生活を心から祈ります。
 ずっと魂を寄り添い、行動を共にしたい。」

「災害大国日本ではあのような大震災は必ずまた起きる。
 この地で生き抜いていくための防災意識、
 命を守る行動のスキルを更に育み、皆で共有していこう。
 
 そして、この国での原発はもう卒業するべきだ。
 2度とあのような惨事が起きないよう、
 持続可能エネルギーの実現に向けて全力で舵を切るべきだ。
  SGZ」

  SUGIZO@SUGIZOofficial さん(LUNA SEA、ex. X Japan、The Last Rockers )のツイート。


No Nukes !

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