川上弘美さんの作品に「東京日記」があります。
現在「卵一個ぶんのお祝い。」「ほかに踊りを知らない。」「ナマズの幸運。」「不良になりました。」の4冊が出版され、現在のウェッブ上で書き継がれています。
川上さんはこの「東京日記」について「卵一個ぶんのお祝い。」のあとがきで次のように書いています。
「『東京日記』という題は、(中略)敬愛する内田百閒の同題の作品にも。とはいえ、百閒先生と並んでしまってはおこがましい気がして、表紙には『東京日記』という字は、小さく印刷しました。」
内田百閒の「東京日記」は今も岩波文庫から出ていると思います。
また、川上さんは同じくあとがきで次のように書いています。
「以前『椰子・椰子』という、嘘日記の本をだしたことがありました。本書は、本当日記です。少なくとも、五分の四くらいは、ほんとうです。普通に生活していても、けっこう妙なことがおこるものだなあと、読み返しながら、なつかしく思いだしております。」
また「此処彼処」の後書きには
「具体的な場所の名を示す、ということは、つまり、私個人のことをはっきりと書くことなのだということを、この仕事によって教わった。そしてまた、私個人のことを書いたつもりでも、結局は何も書けていないのだ、ということも。」
百閒にしろ川上さんにしろその作品の舞台は大都市東京です。
人工的なものが広がり、多くの人々がひしめき合う大都市。
その中に自分という人間が人工的なものと多くの人々のはざまで生息している。毎日の生活があります。
幻想的でもあり不思議な妙なことは大都市であるからこそ日常に現れてくるのかもしれません。自然が織りなす不思議なことではなくて、人が織りなす不思議なこと。。。。
日記は個人のことを書くわけですが、その個人は多くの人々の言動の中で流されている。何が個人(自分)だかわからないようにもなりますが、川上さんは時々自分がずれていると感じるそうです。この人々に流されている中で自分がずれていると感じる時、個人が現れるのではないでしょうか。するとそのずれている自分を通して人々の流れの中に奇妙なものが見えるのかもしれません。
ということで、僕も恥ずかしながら東京日記を書いています。
古い物は一時ブログをやめてすべて消えてしまいました。毎日の妙なものは消えてしまいます。
現在「卵一個ぶんのお祝い。」「ほかに踊りを知らない。」「ナマズの幸運。」「不良になりました。」の4冊が出版され、現在のウェッブ上で書き継がれています。
川上さんはこの「東京日記」について「卵一個ぶんのお祝い。」のあとがきで次のように書いています。
「『東京日記』という題は、(中略)敬愛する内田百閒の同題の作品にも。とはいえ、百閒先生と並んでしまってはおこがましい気がして、表紙には『東京日記』という字は、小さく印刷しました。」
内田百閒の「東京日記」は今も岩波文庫から出ていると思います。
また、川上さんは同じくあとがきで次のように書いています。
「以前『椰子・椰子』という、嘘日記の本をだしたことがありました。本書は、本当日記です。少なくとも、五分の四くらいは、ほんとうです。普通に生活していても、けっこう妙なことがおこるものだなあと、読み返しながら、なつかしく思いだしております。」
また「此処彼処」の後書きには
「具体的な場所の名を示す、ということは、つまり、私個人のことをはっきりと書くことなのだということを、この仕事によって教わった。そしてまた、私個人のことを書いたつもりでも、結局は何も書けていないのだ、ということも。」
百閒にしろ川上さんにしろその作品の舞台は大都市東京です。
人工的なものが広がり、多くの人々がひしめき合う大都市。
その中に自分という人間が人工的なものと多くの人々のはざまで生息している。毎日の生活があります。
幻想的でもあり不思議な妙なことは大都市であるからこそ日常に現れてくるのかもしれません。自然が織りなす不思議なことではなくて、人が織りなす不思議なこと。。。。
日記は個人のことを書くわけですが、その個人は多くの人々の言動の中で流されている。何が個人(自分)だかわからないようにもなりますが、川上さんは時々自分がずれていると感じるそうです。この人々に流されている中で自分がずれていると感じる時、個人が現れるのではないでしょうか。するとそのずれている自分を通して人々の流れの中に奇妙なものが見えるのかもしれません。
ということで、僕も恥ずかしながら東京日記を書いています。
古い物は一時ブログをやめてすべて消えてしまいました。毎日の妙なものは消えてしまいます。
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