JDさんのブログ

頑張りたくても自律神経の乱れであまり無理はできず…。日々の発見や不安について書いてます!

過去の私も最近の私もいろいろありました

2024-03-06 21:21:28 | 日記
こんばんは!とてもとてもとても久しぶりの更新になってしまいました。
いろいろ見てはいたのですが、なかなか書くまでには至らず…気付けばもう数え切れないほどの時が経っていたようです。
この間に私は就職、離職、転職を経験しております。
あっという間の転職でしたが、自分を守るためには必要なことだったのだと、今はそう思っています。

いろいろありすぎて、もろもろ書き切れないのですが笑
とりあえず誕生日の一人旅の話を中心に、思い出した順に備忘録がわりに書いておこうと思います。

ではまず一人旅の話から。
私の誕生日は2月中旬で、毎年のように受験シーズンと被っていました。
私が受験する年もちょうど入試シーズンでした。
きちんと勉強しておけばよかったと今となっては思うのですが、中学3年になるかならないかくらいの時期から体調が安定せず、勉強に気持ちが向かなかったのもまた事実です。
結局のところ私は自分の誕生日に不合格を悟りました。
親からも誕生日を祝われるより前に「勉強しなかったあなたが悪いね」という話をされ、落ちるところまで落ちました。
自分の誕生日を親に祝ってもらえない、それどころか責められるようなことを言われるのはもちろんショックですが、今以上にそれが重くのしかかったようです。
「生まれてきたこと自体が間違いだったのだ」と泣きながら二の腕に剃刀を当て、ズキズキと走る痛みを我慢して切りました。
比較的冷静に自傷行為に走ることが多かったので、激情に駆られて腕を切ったのはこの時がほぼ初めてだったと思います。
それでもツーっと血が滴り落ちるのを見て「あ、やばいな。」とティッシュで流れ出る血を拭い、誰にもバレないように絆創膏を貼って何食わぬ顔で過ごしました。
相変わらずカミソリを離した瞬間に痛みが消えていきました。
無痛状態は長続きせず、徐々に痛みが出てきましたが何とか我慢して過ごしたことを覚えています。
次の日も傷跡を見ることができず、この時初めて自分の自傷行為で保健室を頼りました。
さっと処置をしてくれた先生には今も感謝しています。

…とまぁ自分の誕生日にとても悲しいことがあったのです。
その時の傷跡はもちろんしっかりと腕に残っていて、嫌でも思い出さざるを得ないことがあります。
一種トラウマのようなものだと私は思っています。
本来は生まれてきたことを祝われる日であろう誕生日が、今までで一番死にたくなった日だというのはなんとも悲しいことです。
楽しい誕生日もそのあと経験しました。
でも毎年毎年、どこかのタイミングで死にたかった孤独な私に向き合っています。
今年も例外なくそうでした。

でもふと「孤独をいい思い出で上塗りすれば、あの時の孤独も悪いものじゃなかったと思えるのでは?」と思い立ったのです。
家族から離れて一人になってみたいと思ったのもあります。
年に一度しかない誕生日を無駄遣いしたような気もしますが、逆に年に1回しかないからこそ今回がチャンス!と感じました。
思い立ったが吉、さっさと切符とホテルを抑えて、一人で旅に出ました。
誕生日の孤独は誕生日の孤独でしか癒せない、をモットーに出かけたはずが…

まず仕事が押して新幹線に間に合いそうになく焦っていた私にタクシーを手配してくれた先輩。
頑張ってタクシーを飛ばしてくれた運転手さん。
財布のない私が唯一入れたお店でご馳走してくれた店主さんに、同じ旅人の方。
偶然で繋がっていた女性に、隣にいた同業者さん。
店主さんの紹介で出会った様々な背景を持つ人々。

本当にたくさんの人に出会って、たくさんの人にお祝いしてもらいました。
一人でほの暗い過去と向き合う時間にするはずが、朝から晩まで温かな人々に囲まれる時間になったのです。
本来の旅の趣旨とはだいぶずれましたが、生きていてよかったなと心から思える時間になりました。
トラウマはトラウマで、辛い過去であることに違いはありません。
でもそのトラウマを包んで癒してくれるくらいの素敵な誕生日にしてもらえました。

…結局のところ私は今も自分の過去に囚われている節があります。
でもその思い出を数年間かけて上書きできて今はとても充実していると思っています。


これに関連してもう一つ。
いや二つくらいあるかもしれません笑
とりあえず自傷行為のところから話そうかと思います。

私と自傷行為は切っても切り離せない関係になってしまいました。
小6の終わり、12歳になった直後から大学2年生の20歳までおよそ8年間、断続的に自傷行為を繰り返してきました。
特に中学生・高校生の間は感情が大きく揺れ動くことも多く、せっかくやめられたと思ってもまた切る…というのを繰り返していました。
表面上は明るく楽しく見えていたでしょうし、私自身も忙しいながら充実感は持っていました。
でも私の心の奥底、ベースとなる場所には自傷願望や希死念慮が残っていて、ふとした瞬間に自傷行為のことを考えている自分がいました。
最初の頃はリスカをやめて何ヶ月とか、何年になったとか数えていました。
でも今思えばその時点で自傷行為のことを考えていたんですね。
ちなみにコロナ禍以降は一切の自傷行為をしていません。
切りたいと思うことがなかったわけではありませんが、切らずに何日経ったとか、何ヶ月経ったとか、そういうことを考えずに気付けば3年だか4年日々が過ぎていました。
やっと今になって自傷行為の呪縛から解き放たれたのだと思います。
逆にそれまではずっと自傷行為が日常でした。

本当の大元の大元の自傷行為との出会いを考えてみました。
それは多分小学校中学年〜高学年の間にブックオフで出会った2冊の書籍です。
大筋は恋愛ものでしたが、2冊とも絶望のどん底で自傷行為の描写が出てくるものでした。
どうしてその年でそんな内容の本を手に取ったのかですが、意外にも理由はシンプルで装丁が綺麗だと思ったことにあります。
もちろん帯や背表紙、冒頭数ページを読んでその内容にも惹かれたから買ったのですが、でも最初の理由は綺麗な表紙です。
そして読み進めるうちに自傷行為について知るようになった。これが記憶にある限り一番最初の理由です。

ただここで私の中にあった歪みが可視化された部分もあります。
何回も何回も繰り返し同じ本を読んで、心に残ったページに折り目をつけるようになりました。
内容に感動して泣いてしまったシーンが多かったのですが、自傷行為の描写が出てくるシーンのほとんどに折り目をつけていたのです。
当時は自傷行為をする自分のことなんて想像もできませんでしたが、たぶん人よりも早く自傷行為について触れ、刺激されてしまいました。

実際に行動に起こしたのは小学校の卒業式から数日経ったある日、自宅で1人でテレビを見ていた時でした。
理由は多分一つではなくて、複合的なものだったと思いますが、大きいところとしては卒業した喪失感、仲のいい友人と離れてしまう不安、そして中学受験に失敗したこと、が挙げられると思います。
そして何より一番仲の良かった友人が画鋲で手首を傷つける自傷行為をしていたのです。
教室でもその行為をして、私に見せつけてくるような出来事が何回かありました。
それらが重なって、たまたま1人になったときにカッターと針で一本の傷をつけたのです。
本で読んだように血が滴ることはなくて、うっすい浅い傷をつけるのが精一杯でした。
でも1人の時にそんな悪いことをしている背徳感で心拍数が跳ね上がり、なんとも言えない気分になったのを覚えています。
そうやってつけた薄い薄い傷を残したまま私は中学生になりました。

中学生になってすぐの頃、仲のいい友人1人と同じクラスで同じ部活の友人2人と担任に呼び出されました。
私が何をした記憶もなかったのですが、普段は入れない他の学年のフロアにわざわざ呼ばれて、話がしたいと言われたのです。
4人で2人ずつのペアになって話す、という作業を何回か繰り返しました。
そして最後のペアの時、私の前に友人、そして担任がいました。
そこで友人から腕を見せて欲しいと言われ、私は致し方なく自傷行為の傷跡が残る腕を見せました。
きっとこれが聞きたかったんだろうな、とすぐに悟りました。
私の腕を見た友人はその場で大号泣でした。
そしてその場で「いつでも相談に乗るからもう切らないって約束して」と言われました。
そこまでしてくれるなら…と自傷行為をやめる決意をしました。
これが夏前の出来事だったんじゃないかなと思います。

教室での約束からたった2ヶ月ほどで、私は一番心配してくれた友人と絶交状態になりました。
何をしたという心当たりもないのに、コソコソ聞こえるように陰口を言われ、クラスでも部活でもずっと気にしていました。
部活内にも仲のいい人はいましたが、どうしてもパート別に分けると離れてしまったので、当時の私には居場所なんてありませんでした。
そんな生活が続いたある日、先輩とのやりとりで落ち込んだことも相まって、「約束を先に破ったのは向こう(相談に乗るどころか追い詰めるようなことをしてくるという意味で)なのだから、私だって約束を破ってもいいんじゃないか」と思いました。
そして私は半年ぶりにカッターで手首を切りました。
最初にした時の傷に比べればほんの少しだけ深くなりました。
血が滲むかどうかという浅い浅い傷をたくさんつけました。
1回で20〜40回ほど切りました。
約束を破ってしまった後ろめたさのようなものもありましたが、それ以上にやっぱりスッキリしました。
そして私は次の日学校を休みました。

ちょうど体育祭や文化祭の時期で、クラスに居場所がなかった私はそれ以降もちょくちょく体調不良を理由に学校を休みだしました。
月3日、家族が誰もいない日を狙って休みました。
休んだ日は心ゆくまで寝て、なかなか見られない昼間のワイドショーを見ました。
そのうちにテレビにも飽きてきて、自室に戻ったらふと「今日も切ろうかな」と思い立つのです。
別に何か悲しいことがあったとか、辛いことがあったとか、そういうことはありません。
でもなぜか切りたくなって、隠し持っていたカッターでまた浅い傷をつけました。
ある日、ふとカッターじゃなくてカミソリで切ったらどうなるだろうと思い立ちました。
私の中でカミソリというとT字のイメージだったのですが、リストカットにはI字カミソリを用いることを知ったのがこの頃だったのです。
早速興味本位でカミソリで切ってみました。

とにかく痛かった。
ヒリヒリしてズキズキした。
血はいつもよりも出やすかった。
でもやっぱりカッターより痛かった。

あまりにも痛くて、しかも怖くて、一旦はカッターでの自傷行為に戻りました。
でも気持ちがあまりにも落ち込んだ日、カミソリでまた切りました。
力を込める分痛かったけれど、初めて血が滴り落ちるのをみて、今までにない感覚を味わいました。
そしてその時の傷は10年以上経った今でもしっかりと右腕に残っています。
ある程度治ってからも半年近くの間、お風呂上がりに傷がピンク色に変わっていました。
しかも力の込め方が悪く、手首の内側というよりは手の甲側に近いところに傷が残ってしまいました。
どうせならもうちょっと隠しやすいところにやってくれよ、と思った記憶があります。笑

じゃあそんなにボロボロで周りにバレていなかったのか、と思うのですが。
答えはどちらでもあると思います。
普段は絆創膏を貼った上から、怪しまれないように肌色の湿布を貼って過ごしていました。
だから傷が見えることはなかったと思います。
両親からたまにどうしたの?と聞かれることがありましたが、学校を休むたびにサボりサボりと言われ続けていたので、私が追い詰められていたことには気付いていなかったかもしれません。
学校ではサバサバと厳しいところもありつつ、とても優しい英語の先生と、学年主任の数学の先生が様子がおかしいことに気付いてくれていました。
その2人が心配しているということで、担任に話を聞かれました。
その時に色々あることを話しましたが、その後は「自分でなんとかして」と突き放されるばかりでその度に絶望した記憶があります。

同じ時期、私のリストカットは学校でも行われていました。
土日の部活の1人の昼休みに屋上に出たい、この窓が開けばいいのにと思いながら5Fでよく切っていました。
願わくばそのまま飛び降りで死にたいと思いながら、でもそれがうまくできない悲しみで切るのに、薄暗くて寒いところでは痛くてたいして切れなくて、それにまた苛立っていました。
平日もいつもスカートのポケットにカミソリが入っていて、学校のトイレで何回か切りました。
でもたまたま近くの席の子が休みだった数学の授業中、あろうことか授業中に手首を切ったのです。
ノールックで切ったら思ったより深いし、机の上に手を出さないしで血が止まりませんでした。
それからは手が血まみれで授業どころではなく、終了のチャイムと同時にトイレに駆け込み、血のついたワイシャツを誤魔化しながら、またうまく手当てをしました。
誰にも気付かれず無事に終えられたのですが、あまりにもドキドキしたので学校で切ることはやめました。

同じころ、体調不良で訪れた保健室で(保健室のアンケートを集計した結果)要注意リストに入っていたことを契機に話を聞いてもらいました。
そこではしっかり話を聞いてもらえて、最悪辛ければ保健室に行けばいいやという気持ちになることができ、欠席日数が少なくなりました。
かといって保健室に行くことはそんなに多くなく、年間で2〜3回だったと記憶しています。

また部活の先輩たちがあからさまにハブられている私をみかねて、声をかけてくれました。
ずっと辛かったことを涙ながらに話すことができ、あろうことか引退間際だからと2年の先輩に根回しまでしてくれたのです。
その1歳上の先輩とは今も遊びに行く仲なのですが、それも全て根回ししてくれた先輩のおかげです。
その感謝を十分にできなかったことに対して憤っている先輩もいたと聞いたのですが、一番話を聞いてくれた先輩は「今が楽しいならそれでいいよ」と言ってくださったようなのです。
今思えば本当に本当に大人の対応をしてくださって、いまだに感謝しています。

保健室と先輩。今までになかった頼る先ができて、2年生以降は自傷行為が格段に減りました。
というか2年の5月から3年の1月ごろまではリストカットのことは忘れて過ごしていました。
それ以降はあまり強烈な自傷行為エピソードはありません。
やはり中学1年生が自傷行為のピークでした。
もちろん希死念慮もあって、毎日のようにどうやって死んだら迷惑がかからないかを考えていました。
でもいくら考えたって誰かに迷惑をかけてしまうことに気付きました。
本当に死にたくて、死にたくてたまらないのに死ねない自分にも、死ねないと分かっていてリストカットする自分にも毎日絶望していました。
最終的に迷惑をかけてしまうからという理由で自殺を選ばないように、自殺から逃げていたのかもしれませんが、とにかく死ぬ方法が思いつけませんでした。
もし迷惑をかけない(と判断した)死に方があれば、躊躇なく選択していたと思います。
自分でもどうやって生きていたのかと怖くなるくらい、死に執着する毎日でした。
放っておけば多分死んでいたんじゃないかなと思うくらいには危ない状態だったと自分では思っています。

要所要所で助けてくれる人はいて、そのおかげでなんとか生きながらえてきました。
たくさん話を聞いてもらったことも覚えています。
でも究極的に「死にたい」「リストカットをやめられない」と誰かに告げられたことは一度もありません。
自傷行為をした後に誰かに話したこともたった2回だけ、しかも中1のときにはできませんでした。
いつも死にたいという感情は私の中に留められていて、ずっとずっと孤独に向き合ってきました。
最後の最後、どうしようもなく辛いところは多分誰にも言ったことがないんじゃないかなと思います。
もし死にたい気持ちがあったと知られていたら、きっともう少し大ごとになっていたかもしれないので、気付かれずにいてよかったような気がします。
でも多分、周りに見えている以上に繊細で、生死の境をさまよっていたと思うので、誰か1人にくらいは気付いて欲しかった気もします。
最後の最後は抱え込める強さを持っていた自分を褒めてあげたいなと思います。


もう一つ。
最近自傷行為について触れる機会がありました。
私の自傷行為ではないのですが、経験談を聞くうちに私に突き刺さってくることがあります。
死にたいと思いながら自傷行為をするのは危険な状態であるとか、興味本位ではなかなかできないとか。
心当たりがあまりにも多すぎるからです。
正直なところ、自傷行為は危ないことだと分かっていても、それがかつての私にとっての日常だったので、危機感を持てずにいる部分があります。
だからこそ自傷行為の危険性や、ある種の異常性に関する部分がやや麻痺しているんですね。
もちろんかつての私の状態が非常に悪くて、そうなってはいけないと思う気持ちはあります。
想像がつく分、どれほど辛い状況に置かれているか想像に難くないからです。
でも同じ立場に置かれた経験があって、しかもそれを曲がりなりにも乗り越えてきたので、周りの人からすると少し温度差があるんじゃないかな、と思います。
その温度差が見えてしまわないように何とか振る舞っているのですが、どうしようもない空気感を感じる時はあります。
自分でもうまくリアクションできない時もあります。
そういうときに、自分もあんまり良くなかったな、と思い直す時間が有意義でもあり辛くもあります。
でもそんな経験も全て含めて誰かの役に立てたら嬉しいなと思っています。


ではそろそろ眠くなったから、一旦書き上げたことにします。
多分追加すると思いますが、とりあえず…
これ多分1週間くらいチマチマ編集していました笑
おやすみなさい💤