いつも参考にさせてもらっている「今日は何の日~毎日が記念日~」を見ると、1334年の今日・5月3日、” 後醍醐天皇が借金に苦しむ人々を救う為に徳政令を発布 ”とあった。
「徳政令」(とくせいれい)とは、日本の中世、鎌倉時代から室町時代にかけて朝廷、幕府などが債権や債務の放棄を命じた法令である。
成文法であれ、慣習法であれ、中世の法の中で世に広く流布した通称をもつものは、きわめて珍しい。その珍しいものでも、例えば、「御成敗式目」(以下参考に記載の「御成敗式目 貞永式目 現代語訳全文」の御成敗式目の要点参照)の第八条(「当知行二十ヵ年を経過すれば理非を論ぜず沙汰に及ばず。)に始まったこの条文いわゆる当知行年紀法(とうちぎょうねんきほうほう)が、当時から「年紀御法」とか、「年序の大法」とか呼ばれたようにそれは、法の内容に密着した命名であった。ところが、その中に、たった一つ、その誕生から中世を一貫して独特の通称をもつ法令があり、それが「徳政令」であった。
「徳政(とくせい)」とは、字義通り、「善政(人民に幸福をもたらすよい政治。正しい政治)・仁政(為政者が人々をいたわりいつくしむよい政治。)」の意であることから、「徳政令」は”徳を施すための法令”といったような 曖昧な意味しかもっておらず、具体的な内容を示していないようである。しかし、現実の中世の社会では「徳政御法」といえば、時代や、発布主体によって内容に差があるのは当然としてもその大筋のところでは、中世人の誰にも共通の具体的なイメージが浮かんだようである。ではなぜ、そのようなことがおこりえたのであろうか。
前にこのブログ鎌倉幕府滅亡の日でも書いたように、鎌倉幕府が武家政権を確立した時代、政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的な市が立つようになるなど、急激な商品経済の発展があったのは良いのだが、1274年(文永11年)の文永の役や1281年(弘安2 年)の弘安の役の2 度にわたる元冦があったが、鎌倉幕府はこれを撃退したたものの、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、武士たちの不満を強めた。そして、急激な商品経済の発展はなにより貨幣経済が浸透し、多くの御家人が経済的に没落し、凡下(ぼんげ )と呼ばれる商人階層から借財を重ねた。
1284年(弘安7)年に弘安の徳政(以下参考に記載の「※弘安の徳政」参照)、さらに1297(永仁5)年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図った。
この法令(永仁の徳政令)は、三つの内容を持っていた(徳政令の概要参照)。
①立法以前に売却もしくは、質流れとなっていた御家人所領は、無償で旧来の所有者に返還させる。同時に今後の売買・質入を禁止する。
②債権債務についての訴訟は一切受理しない(債権の不保護を意味する)
③越訴(おっそ)の制度を廃止する。
②③もそれぞれに経済的政治的意図を持つ重要な法令であったが、立法の最大の眼目は①であり、社会的反響も①のみに集中した。売買成立後20年を経たもの、売買質入について幕府から認証を得ているものなど、いくつかの除外規定はあっても、正当に売買されたものを無償で返還させる。これは、一見きわめて強引で乱暴な法に見えるし、たとえ、立法しても、よほど強権がなくては法は実効性はないかのように見える。しかし、事実は違っていたようで、実施にあたって、たとえば現に生育中の作毛をどうするのかといった部分的紛争は避けられなかったものの、現代の私達からみれば全く意外なほど平穏に受け入れられ、立法直後から多くの返還が現実に行われたのだという。その最も大きな背景には、現代人の概念からすると所有者がAからBに所有が移るとそれは、所有者Bの固有名詞上のBのものが当たり前であるが、中世では、AとかBとかの固有名詞とは別の次元の復元力、この場合だといったんBに帰した所領が再び「御家人」Aのものに、つまり、本来あるべき境界に復古するという力が社会通念として潜在的に働いていたというのである。もちろん、こうした境界は、「御家人のもの」だけに通用したのではなく「御家人のもの」という境界は、鎌倉幕府が形成した特殊な政治的領域であって、より、一般的には、「仏のもの」「神のもの」「人のもの」という三区分があり、たとえば、この時代末正和元年(1312年)の神領興行法のように、俗人領に流出した神領を「神のものに戻す」ことは、中世的に合理性のある行為だったのだという。「御家人のものは御家人に戻す」という永仁の徳政の法理はこうした原則を前提とした1つの特殊な適用例とみなすことが出来るのだそうだ。
そして第二の背景には、古代以来、天人相関思想(「天人の辯」参照)に基づき、異常な自然現象たとえば彗星の出現、大地震などに際して、そこから引き起こされる災害を免れるために特別の仁政としての「徳政」が行われるのが常であったが、元寇(げんこう)という未曾有の非常事態に遭遇した公武権力がしいたのが永仁の徳政や公安の「徳政」と言われるものであった(週刊朝日百貨「日本の歴史」徳政令ー中世の法と裁判)。
これらは、代替わり或いは災害などに伴い改元が行われた際に天皇が行う貧民救済活動や神事の興行(神領興行)、訴訟処理などの社会政策であり、「親政」とも呼ばれる。既売却地・質流れ地の無償返付、所領や債権債務についての訴訟(雑訴)の円滑処理などを行うことを通じて、旧体制へ復帰を図る目的があった。しかし、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。
後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。
後醍醐を中心とした勢力による元弘の乱により1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府と北条氏が、滅亡すると、後醍醐は京都へ帰還し、同年6月に「親政」を開始(建武の新政)。精力的に新政府の機構作りに取組んだ。6月15日には旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布され、土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨(りんじ)を必要とすることとした。7月には諸国平均安堵令が発せられ、天皇による土地処分として、朝敵以外の知行(ちぎょう。領地)の安堵を諸国の国司に任せた。政務の中心となる記録所、恩賞問題を扱う恩賞方、9月には雑訴決断所(以下参考に記載の「※雑訴決断所」参照 )がそれぞれ設置される。
そして、12月には足利尊氏の弟の直義が後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。翌・1334年(建武元)年正月には立太子の儀が行われ、恒良親王(母:阿野廉子)が皇太子に定められ、また年号が「建武」と定められた。
後醍醐は1月には新政府の威信を示す為に平安時代のような大内裏造営を企図し、その財源として全国に、二十分の一税(地頭層から年貢の二十分の一を献納させる)などの新税をかけることを決定。また当時流通していた輸入宋銭に代わる新貨幣「楮幣」(ちょへい。「楮」はコウゾ。以下参考に記載の「※コウゾ〔楮〕」参照)とよばれる新紙幣、貨幣の発行も計画され、それによって経済の根本を押さえ、なおかつ天皇の権威を民に示そうと図ったが、全国は戦乱で疲弊し、この頃には新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、都も貧困と強盗が満ちあふれるありさまで、「新政」の問題が早くも露呈。後醍醐の政策も空しいかけ声だけとなった。 そのような世相を「このごろ都にはやるもの、夜討ち・強盗・偽綸旨…」と風刺する長文の落書が二条河原に掲げられ、都の人々の評判となった。
5月には諸国の本家、領家職が廃された。そして、徳政令が発布された。売払った土地は無償で返還され返済が元金の半分を越えているなら質入地・質入物を取戻せると言うもので鎌倉末期の永仁徳政令と室町期徳政を繋ぐものといえる。しかし、ほとんど効果をあげえなかった。また、諸国の一宮・二宮を貴族・大寺社から独立させ寺社を支配下に置くための官社解放令が出されたのは各地の宗教勢力支配のためであろう。そして、恩賞方が設置されたのには、戦時に乱発されていたであろう恩賞の約束を打消し、最終決定者が護良親王でなく後醍醐である事を示す必要があった。しかし、土地が有限である以上、多数の武士全てに満足のいく行賞は困難であり、こうした中で不公平が生まれ大半の武士が不満を抱いたことも大きいだろう。
後醍醐による建武の新政は大きくは、二つの改革をしようとしたものといえる。一つは、国司(こくし)制度の改革であり、国務私領化の否定であり〔以下参考に記載の「※鎌倉後期の知行国制 」参照)、もう一つは、中央官庁の再編成であり、特定氏族の請負経営化の否定(職の体系参照)と独占世襲の否定であった(以下参考に記載の「※Wiki: 家業」も参照)。
しかし、以下参考に記載の「※後醍醐天皇」にも書かれているように、後醍醐は王権の支配力が低下しつつある中、朝廷の権威の回復・自己の系統の正当化を目指し、台頭してきた商業勢力を利用して専制政権を築き上げようとしたが、混乱を乗越えてそれを遂行するには余りに実力基盤がなさ過ぎた。と言うより、基盤であった朝廷自体が中世的体制(「王朝体制」と呼ばれる)の代表で一旦破壊する必要すらあった。また王権の危機ではあったが、元寇のときのように日本の危機と言う訳ではなかったので急激な変化に堪忍んで新政権に協力する必要を人々は認めなかった。・・・のである。
地方の領主層では自立の気風が高まり、足利尊氏は新政に不満をもつ武士を集めて後醍醐への反旗を決意、結局後醍醐の新政は失敗に終わった。そして、世の中はさらに大きく動き、時代は混迷を極める南北朝時代に突入していくのである。
以下参考に記載の「日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道「第13話徳政令の意味 」」にもあるように、徳政の対象は幕府御家人に限定され、債務の強制的破棄によって担保として土倉(鎌倉時代および室町時代の金融業者)に供出された土地を御家人の手許に取り戻すところに狙いがあり、その言葉とは裏腹に、商品経済の進展とともに勃興してきた商業・金融資本による富の蓄積がもたらした封建的な身分制度や土地所有の崩壊を防止しようとした反動的な政策であった。しかし、室町時代に入ると、土倉は当時権勢を誇った延暦寺、八坂神社などの寺社と結託し、神仏を盾にして債権の保全に努める一方で、より強力な取り立てを行ったことから当然のこととして、封建的な身分制の崩壊を促すことになった。これに対し、室町幕府では土倉による取り立てを制限・禁止する令をしばしば出したほか、徳政令の対象を拡大。武士だけでなく、一国単位あるいは全国一律に農民も対象とした大規模な徳政令が発出されるようになった。しかし、幕府権力が弱体化する15世紀半ば以降、惣村の発達により、徳政令を求める農民による一揆(土一揆また徳政一揆と呼ばれる)などが頻発するようになったが、徳政令は、商品経済の進展を阻害するおそれが強かったため、より穏健な徳政禁制が徳政令と交互して出されるようになり、都市の御用商人や惣村の金融業者に対しては、商業振興のため、徳政令の適用免除が出されるようになった。
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この続き → (続)後醍醐天皇が徳政令を発布
「徳政令」(とくせいれい)とは、日本の中世、鎌倉時代から室町時代にかけて朝廷、幕府などが債権や債務の放棄を命じた法令である。
成文法であれ、慣習法であれ、中世の法の中で世に広く流布した通称をもつものは、きわめて珍しい。その珍しいものでも、例えば、「御成敗式目」(以下参考に記載の「御成敗式目 貞永式目 現代語訳全文」の御成敗式目の要点参照)の第八条(「当知行二十ヵ年を経過すれば理非を論ぜず沙汰に及ばず。)に始まったこの条文いわゆる当知行年紀法(とうちぎょうねんきほうほう)が、当時から「年紀御法」とか、「年序の大法」とか呼ばれたようにそれは、法の内容に密着した命名であった。ところが、その中に、たった一つ、その誕生から中世を一貫して独特の通称をもつ法令があり、それが「徳政令」であった。
「徳政(とくせい)」とは、字義通り、「善政(人民に幸福をもたらすよい政治。正しい政治)・仁政(為政者が人々をいたわりいつくしむよい政治。)」の意であることから、「徳政令」は”徳を施すための法令”といったような 曖昧な意味しかもっておらず、具体的な内容を示していないようである。しかし、現実の中世の社会では「徳政御法」といえば、時代や、発布主体によって内容に差があるのは当然としてもその大筋のところでは、中世人の誰にも共通の具体的なイメージが浮かんだようである。ではなぜ、そのようなことがおこりえたのであろうか。
前にこのブログ鎌倉幕府滅亡の日でも書いたように、鎌倉幕府が武家政権を確立した時代、政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的な市が立つようになるなど、急激な商品経済の発展があったのは良いのだが、1274年(文永11年)の文永の役や1281年(弘安2 年)の弘安の役の2 度にわたる元冦があったが、鎌倉幕府はこれを撃退したたものの、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、武士たちの不満を強めた。そして、急激な商品経済の発展はなにより貨幣経済が浸透し、多くの御家人が経済的に没落し、凡下(ぼんげ )と呼ばれる商人階層から借財を重ねた。
1284年(弘安7)年に弘安の徳政(以下参考に記載の「※弘安の徳政」参照)、さらに1297(永仁5)年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図った。
この法令(永仁の徳政令)は、三つの内容を持っていた(徳政令の概要参照)。
①立法以前に売却もしくは、質流れとなっていた御家人所領は、無償で旧来の所有者に返還させる。同時に今後の売買・質入を禁止する。
②債権債務についての訴訟は一切受理しない(債権の不保護を意味する)
③越訴(おっそ)の制度を廃止する。
②③もそれぞれに経済的政治的意図を持つ重要な法令であったが、立法の最大の眼目は①であり、社会的反響も①のみに集中した。売買成立後20年を経たもの、売買質入について幕府から認証を得ているものなど、いくつかの除外規定はあっても、正当に売買されたものを無償で返還させる。これは、一見きわめて強引で乱暴な法に見えるし、たとえ、立法しても、よほど強権がなくては法は実効性はないかのように見える。しかし、事実は違っていたようで、実施にあたって、たとえば現に生育中の作毛をどうするのかといった部分的紛争は避けられなかったものの、現代の私達からみれば全く意外なほど平穏に受け入れられ、立法直後から多くの返還が現実に行われたのだという。その最も大きな背景には、現代人の概念からすると所有者がAからBに所有が移るとそれは、所有者Bの固有名詞上のBのものが当たり前であるが、中世では、AとかBとかの固有名詞とは別の次元の復元力、この場合だといったんBに帰した所領が再び「御家人」Aのものに、つまり、本来あるべき境界に復古するという力が社会通念として潜在的に働いていたというのである。もちろん、こうした境界は、「御家人のもの」だけに通用したのではなく「御家人のもの」という境界は、鎌倉幕府が形成した特殊な政治的領域であって、より、一般的には、「仏のもの」「神のもの」「人のもの」という三区分があり、たとえば、この時代末正和元年(1312年)の神領興行法のように、俗人領に流出した神領を「神のものに戻す」ことは、中世的に合理性のある行為だったのだという。「御家人のものは御家人に戻す」という永仁の徳政の法理はこうした原則を前提とした1つの特殊な適用例とみなすことが出来るのだそうだ。
そして第二の背景には、古代以来、天人相関思想(「天人の辯」参照)に基づき、異常な自然現象たとえば彗星の出現、大地震などに際して、そこから引き起こされる災害を免れるために特別の仁政としての「徳政」が行われるのが常であったが、元寇(げんこう)という未曾有の非常事態に遭遇した公武権力がしいたのが永仁の徳政や公安の「徳政」と言われるものであった(週刊朝日百貨「日本の歴史」徳政令ー中世の法と裁判)。
これらは、代替わり或いは災害などに伴い改元が行われた際に天皇が行う貧民救済活動や神事の興行(神領興行)、訴訟処理などの社会政策であり、「親政」とも呼ばれる。既売却地・質流れ地の無償返付、所領や債権債務についての訴訟(雑訴)の円滑処理などを行うことを通じて、旧体制へ復帰を図る目的があった。しかし、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。
後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。
後醍醐を中心とした勢力による元弘の乱により1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府と北条氏が、滅亡すると、後醍醐は京都へ帰還し、同年6月に「親政」を開始(建武の新政)。精力的に新政府の機構作りに取組んだ。6月15日には旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布され、土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨(りんじ)を必要とすることとした。7月には諸国平均安堵令が発せられ、天皇による土地処分として、朝敵以外の知行(ちぎょう。領地)の安堵を諸国の国司に任せた。政務の中心となる記録所、恩賞問題を扱う恩賞方、9月には雑訴決断所(以下参考に記載の「※雑訴決断所」参照 )がそれぞれ設置される。
そして、12月には足利尊氏の弟の直義が後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。翌・1334年(建武元)年正月には立太子の儀が行われ、恒良親王(母:阿野廉子)が皇太子に定められ、また年号が「建武」と定められた。
後醍醐は1月には新政府の威信を示す為に平安時代のような大内裏造営を企図し、その財源として全国に、二十分の一税(地頭層から年貢の二十分の一を献納させる)などの新税をかけることを決定。また当時流通していた輸入宋銭に代わる新貨幣「楮幣」(ちょへい。「楮」はコウゾ。以下参考に記載の「※コウゾ〔楮〕」参照)とよばれる新紙幣、貨幣の発行も計画され、それによって経済の根本を押さえ、なおかつ天皇の権威を民に示そうと図ったが、全国は戦乱で疲弊し、この頃には新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、都も貧困と強盗が満ちあふれるありさまで、「新政」の問題が早くも露呈。後醍醐の政策も空しいかけ声だけとなった。 そのような世相を「このごろ都にはやるもの、夜討ち・強盗・偽綸旨…」と風刺する長文の落書が二条河原に掲げられ、都の人々の評判となった。
5月には諸国の本家、領家職が廃された。そして、徳政令が発布された。売払った土地は無償で返還され返済が元金の半分を越えているなら質入地・質入物を取戻せると言うもので鎌倉末期の永仁徳政令と室町期徳政を繋ぐものといえる。しかし、ほとんど効果をあげえなかった。また、諸国の一宮・二宮を貴族・大寺社から独立させ寺社を支配下に置くための官社解放令が出されたのは各地の宗教勢力支配のためであろう。そして、恩賞方が設置されたのには、戦時に乱発されていたであろう恩賞の約束を打消し、最終決定者が護良親王でなく後醍醐である事を示す必要があった。しかし、土地が有限である以上、多数の武士全てに満足のいく行賞は困難であり、こうした中で不公平が生まれ大半の武士が不満を抱いたことも大きいだろう。
後醍醐による建武の新政は大きくは、二つの改革をしようとしたものといえる。一つは、国司(こくし)制度の改革であり、国務私領化の否定であり〔以下参考に記載の「※鎌倉後期の知行国制 」参照)、もう一つは、中央官庁の再編成であり、特定氏族の請負経営化の否定(職の体系参照)と独占世襲の否定であった(以下参考に記載の「※Wiki: 家業」も参照)。
しかし、以下参考に記載の「※後醍醐天皇」にも書かれているように、後醍醐は王権の支配力が低下しつつある中、朝廷の権威の回復・自己の系統の正当化を目指し、台頭してきた商業勢力を利用して専制政権を築き上げようとしたが、混乱を乗越えてそれを遂行するには余りに実力基盤がなさ過ぎた。と言うより、基盤であった朝廷自体が中世的体制(「王朝体制」と呼ばれる)の代表で一旦破壊する必要すらあった。また王権の危機ではあったが、元寇のときのように日本の危機と言う訳ではなかったので急激な変化に堪忍んで新政権に協力する必要を人々は認めなかった。・・・のである。
地方の領主層では自立の気風が高まり、足利尊氏は新政に不満をもつ武士を集めて後醍醐への反旗を決意、結局後醍醐の新政は失敗に終わった。そして、世の中はさらに大きく動き、時代は混迷を極める南北朝時代に突入していくのである。
以下参考に記載の「日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道「第13話徳政令の意味 」」にもあるように、徳政の対象は幕府御家人に限定され、債務の強制的破棄によって担保として土倉(鎌倉時代および室町時代の金融業者)に供出された土地を御家人の手許に取り戻すところに狙いがあり、その言葉とは裏腹に、商品経済の進展とともに勃興してきた商業・金融資本による富の蓄積がもたらした封建的な身分制度や土地所有の崩壊を防止しようとした反動的な政策であった。しかし、室町時代に入ると、土倉は当時権勢を誇った延暦寺、八坂神社などの寺社と結託し、神仏を盾にして債権の保全に努める一方で、より強力な取り立てを行ったことから当然のこととして、封建的な身分制の崩壊を促すことになった。これに対し、室町幕府では土倉による取り立てを制限・禁止する令をしばしば出したほか、徳政令の対象を拡大。武士だけでなく、一国単位あるいは全国一律に農民も対象とした大規模な徳政令が発出されるようになった。しかし、幕府権力が弱体化する15世紀半ば以降、惣村の発達により、徳政令を求める農民による一揆(土一揆また徳政一揆と呼ばれる)などが頻発するようになったが、徳政令は、商品経済の進展を阻害するおそれが強かったため、より穏健な徳政禁制が徳政令と交互して出されるようになり、都市の御用商人や惣村の金融業者に対しては、商業振興のため、徳政令の適用免除が出されるようになった。
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この続き → (続)後醍醐天皇が徳政令を発布