コラム・将門怨霊伝説~知られざるエピソード3 山口敏太郎
コラム・将門怨霊伝説~知られざるエピソード3 山口敏太郎
@何度も書いたネタ
なお知られざる将門の祟り伝説について述べてみよう。
「将門の犬屏風」事件というものが伝えられている。江戸初期の寛永年間の事である。十九首の東光寺で将門の宝物の御開帳が行われた。この中に「将門の犬屏風」というものがあった。大層大勢の見物客で賑わったが、ふとした事で宝物が全て盗賊に盗まれてしまう。寺側は大騒ぎしたが、宝物の行方はわからなかった。
一方、宝物を得た盗賊はその後、江戸へ出て某旗本家の家来・喜太郎に宝物を売りさばいた。その後、どういうわけだが喜太郎の精神が錯乱し、大騒ぎになった。しかも、将門の霊がのりうつって
「この犬の絵を八幡宮へ返せ…返せ…」
と大声でわめく始末。これは将門公の祟りだろうと、喜太郎の家族が、盗賊から買い取った宝物を、もとの宮に奉納するとおさまった。この宝物のうち、特に犬の屏風はいつも盗まれても帰ってくると伝えられている。
またこんな話もある。明治維新後、天皇が京都から移る遷都にあたり、江戸(東京)の鎮守である神田明神の主祭神が逆賊・将門ではまずいということになり、将門公は昭和59(1984)年まで主祭神から卸されることになった。これに将門の怨霊が激怒したのであろうか。江戸にやってきた明治天皇が、神田明神の三社祭を見に行くと、にわかに空が黒くかき曇ったという。人々は将門の怨念によるものだと語り合った。
その後、大正期にも祟りは続く。関東大震災のあと11月に、損害受けた将門の首塚の発掘調査が大熊喜邦博士たちによって始まった。程なく、塚の中からは小さな石室が発掘された。その石室自体は1度盗掘された後に、補修された形跡があったが、将門公のものが判別できなった。発掘調査の後に。石室は破壊され、その上に大蔵省が大手町に仮庁舎を建てた。この非礼に対し、将門の祟りが勃発した。時の大蔵大臣早速整爾以下、関係者十名が次々と急死し、武田政務次官・荒川事務官以下多数人間が怪我を負う事件が起こった。しかも、不気味な事に怪我の多くは何故か”足”を負傷していた。昭和2年(1927年)4月27日、等々将門の供養が行われることになった。富田理財局長が中心となり、神田明神・平田宮司が祭主となって、実施され、ようやく祟りは沈静化する。
しかし、祟りはまだ続いた。昭和15年6月の出来事である。大雨の中、突如落雷が大蔵省を襲い、火事になってしまったのだ。しかも、落雷現場が将門の首塚付近であった事から祟りの噂がたちまちのぼり将門公没後千年の壱千年祭が河田大蔵大臣の下に開催された。更に、関東大震災で、焼け破壊されてしまった碑を新しく創り直し、慰霊に勤めたという。
そして戦後も祟りは続く、終戦後、GHQが焼け野原の東京を整地した。当然「首塚」の付近も例外でなく、プールにされそうになったが、首塚を撤去しようとすると、ブルドーザーが横転して日本人作業者に死傷者が出る事件があった。通訳がGHQに
「昔の大酋長の墓だから危険である」
と説明したところ、マッカーサーの了解もあり、工事が中止された。なお、首塚の前には大きな池があったとされているが、この池は埋め立てられたものの、その一部が三井物産ビルの「カルガモ池」に名残を留めている。
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なお知られざる将門の祟り伝説について述べてみよう。
「将門の犬屏風」事件というものが伝えられている。江戸初期の寛永年間の事である。十九首の東光寺で将門の宝物の御開帳が行われた。この中に「将門の犬屏風」というものがあった。大層大勢の見物客で賑わったが、ふとした事で宝物が全て盗賊に盗まれてしまう。寺側は大騒ぎしたが、宝物の行方はわからなかった。
一方、宝物を得た盗賊はその後、江戸へ出て某旗本家の家来・喜太郎に宝物を売りさばいた。その後、どういうわけだが喜太郎の精神が錯乱し、大騒ぎになった。しかも、将門の霊がのりうつって
「この犬の絵を八幡宮へ返せ…返せ…」
と大声でわめく始末。これは将門公の祟りだろうと、喜太郎の家族が、盗賊から買い取った宝物を、もとの宮に奉納するとおさまった。この宝物のうち、特に犬の屏風はいつも盗まれても帰ってくると伝えられている。
またこんな話もある。明治維新後、天皇が京都から移る遷都にあたり、江戸(東京)の鎮守である神田明神の主祭神が逆賊・将門ではまずいということになり、将門公は昭和59(1984)年まで主祭神から卸されることになった。これに将門の怨霊が激怒したのであろうか。江戸にやってきた明治天皇が、神田明神の三社祭を見に行くと、にわかに空が黒くかき曇ったという。人々は将門の怨念によるものだと語り合った。
その後、大正期にも祟りは続く。関東大震災のあと11月に、損害受けた将門の首塚の発掘調査が大熊喜邦博士たちによって始まった。程なく、塚の中からは小さな石室が発掘された。その石室自体は1度盗掘された後に、補修された形跡があったが、将門公のものが判別できなった。発掘調査の後に。石室は破壊され、その上に大蔵省が大手町に仮庁舎を建てた。この非礼に対し、将門の祟りが勃発した。時の大蔵大臣早速整爾以下、関係者十名が次々と急死し、武田政務次官・荒川事務官以下多数人間が怪我を負う事件が起こった。しかも、不気味な事に怪我の多くは何故か”足”を負傷していた。昭和2年(1927年)4月27日、等々将門の供養が行われることになった。富田理財局長が中心となり、神田明神・平田宮司が祭主となって、実施され、ようやく祟りは沈静化する。
しかし、祟りはまだ続いた。昭和15年6月の出来事である。大雨の中、突如落雷が大蔵省を襲い、火事になってしまったのだ。しかも、落雷現場が将門の首塚付近であった事から祟りの噂がたちまちのぼり将門公没後千年の壱千年祭が河田大蔵大臣の下に開催された。更に、関東大震災で、焼け破壊されてしまった碑を新しく創り直し、慰霊に勤めたという。
そして戦後も祟りは続く、終戦後、GHQが焼け野原の東京を整地した。当然「首塚」の付近も例外でなく、プールにされそうになったが、首塚を撤去しようとすると、ブルドーザーが横転して日本人作業者に死傷者が出る事件があった。通訳がGHQに
「昔の大酋長の墓だから危険である」
と説明したところ、マッカーサーの了解もあり、工事が中止された。なお、首塚の前には大きな池があったとされているが、この池は埋め立てられたものの、その一部が三井物産ビルの「カルガモ池」に名残を留めている。
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