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納谷家三代・幸喜・忠茂・幸之介②

納谷家三代

幸喜・忠茂・幸之介

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 昼は営林署の作業員、夜は定時制高校への通学、の毎日だった幸喜は、ある人に紹介され、北海道へ巡業に来た二所ノ関部屋の稽古場を見ながら、ちゃんこ鍋をツツキ、相撲に興味を持った。

 定時制高校を退学し、上京して二所ノ関部屋に入った。当初、母親は大反対だったが、叔父は部屋の力士の礼儀正しい応対ぶりに感動し、母親を説得して入門を認めさせたという。

1956年(昭和31年)初土俵、

1960年1月(昭和35年)新入幕、

1961年9月、21歳で第48代横綱へ昇進。

 『巨人・大鵬・卵焼き』と国民の好きなものの代表になり、高度成長期の世相を背負って優勝32回の大記録を打ち立てた。

1971年(昭和46年)5月場所、31歳で引退。

 大鵬という現役時代の大功績は燦然としているが、引退後の納谷幸喜という姓名画数が創り出す運気の悪さ(病弱運・私設挫折運・苦労孤独運・第一型絶対的短命運)には、抗(あらが)うことが出来なかった。その意味では不遇だったと言える。

 幸喜氏33歳の時、母親キヨさんは、脳出血で倒れ亡くなっていたことから、3年後、自身も36歳という若くして脳梗塞で倒れた瞬間、『自分もか?』と思ったそうである。

 救急車で運ばれ、現代の医学施術で延命したものの、一昔前なら、蘇生したかどうかはわからない。

 しかしその後の35年間、非常な努力と闘志でリハビリに取り組み、古希を迎えた年に、相撲界初の文化功労者に選ばれた。これを土産にしたのかどうか翌年力尽きて亡くなった。

大鵬・納谷幸喜は

『人間は死ぬまで自分との闘い。一生努力、一生勉強だ』と貴重なことを言っていたが、やはり、姓名画数の創る運気の強弱が厳然として存在することは勉強すれば解ることである以上、いい運気を呼び込む画数を姓名に、あるいは四股名、芸名、ペンネームなどに持つことの大切さは、論を待たない。

余談だが

 大鵬にはロシア人の血が混じっていたことが理事長就任を邪魔したという論がある。しかし私(吉野永人)はそうは思わない。理事長就任の最大の障害はやはり健康問題だった。左半身不随では如何せん理事長の要職はこなせるはずがないのだ。 続く

 

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