日々の感じた事をつづる
永人のひとごころ
ヤクザ世界で「所得倍増」
ヤクザ世界で「所得倍増」
15回
その後、今度は懲罰を1カ月ぐらい食ったよ。独居房に閉じ込められて、ラジオも聞けない。運動にも行けない。風呂にも入らせてもらえない。せいぜい週にⅠ回、体を洗う湯が来るぐらいだ。
音も聞こえない。読むものもない。まあ若いからそのぐらいなんでも無かったけど、退屈で退屈でさ。宇宙生活というのは、こんなもんかも知れんな、と思ったよ。
ちょうどソ連のガガーリンだったか、人類初の宇宙飛行に成功した(1961=昭和36年)とかなんとか、そんな時代だったから。いや、こりゃ宇宙に行くよりも辛いかもなあ、と思ってさ。
やることがないから独居房に入ってきたアリンコだとかクモだとかを相手にしてたよ。そいつらにケンカさせたりして、時間をやり過ごすんだ。
考えることといえば、先の夢ばっかりだ。まだ若くて張り切ってるし、第一20歳の頃なんだから、振り返る過去なんかまだないさ。
将来の夢とか空想を勝手に頭の中で描いて「こうやってこうすれば親分になれるな」とか、そんなことばっかりだ。と言ってもその頃はまだ、山口組の直参(直系組長)だ、大親分になるんだ、とかは考えてなかった。
ちょっとした街の、まあ富士宮一の親分ぐらいにはならなきゃな、とか、結構現実的なレベルだったよ。
懲罰を終えたら、あの工場での騒ぎが利(き)いて、あれはヤバイ奴だということで、一目置かれるようになったわ。刑務所の中でも肩で風切って歩けるようになったしな。
相手をケガさせたわけでもなく、工場でものをぶん投げたりして暴れた程度だけど、カマシを入れた効果はそれなりにあったよ。
ムショの中で野球をやるにしても「お前ピッチャーやれ、俺は四番を打つから」とかいって仕切れるし、俺なんか運動神経は大したことないし、野球も下手だったけど、いつもいい格好していられたんだ。
まあ、どうせこんなところで過ごすからにはせめて快適に過ごさなきゃいかんなという気持ちが最初からあったから。そのためにはどうすればいいか分かるぐらいの知恵も行動力もあったからさ。
そういえば東京オリンピックは甲府で見た・・・いや、聞いたな。刑務所で流れるラジオで。世の中はそれこそ「これで日本も『一等国』の仲間入りだ」と大騒ぎだったけど、塀の中にいる身の俺としちゃあ、別にこれという感慨もなかったよ。
ただ「娑婆でオリンピックを見たいなあ」、いや「とにかく娑婆に出たいなあ」とは思ったな、強烈に。
それで日本が、じゃなくて、自分が『一等』になるんだ、と思ってた。極道の世界でな。
当時は俺に限らず皆がそう思ってたんじゃないの。戦争に負けてから15年たって、昭和35年ぐらいに、それまで「貧乏人は麦を食え」なんて言ってた池田勇人さん(元首相)が、今度は「所得倍増だ」とか言い始めてさ。
それで国民皆が「俺も所得倍増だ」って頑張ったから経済成長したんだろ?
◎所得倍増計画は1960、昭和35年池田内閣が策定した長期経済政策。1961年からの10年間に国民総生産を26兆円に倍増させることを目標に掲げ、1955=昭和30年から始まった日本の高度経済成長をさらに加速させた◎ 続く
甲府刑務所の暴動騒ぎ
甲府刑務所の暴動騒ぎ
14回
甲府の思い出はうんとあるなあ。最初の懲役だし20歳になったばかりだから、遊びたい盛りじゃないか.舎房に入ったらあの思い鉄の扉をバズッと閉められて懲役服に着替えさせられて、それに着替えながら、ああこれから三年近く娑婆(自由な世界)、とおさらばか、ネエちゃんとも会えないか・・・としみじみした気分になったな。
それがまた寒い時期だったから、こんなところで過ごさにゃならんのかと思うと、余計につらく感じられてな。『仁義なき戦い 頂上作戦』のラストシーンで、刑務所か何かの廊下で小林 旭が、菅原文太に話掛けるシーンがあっただろう。
寒さに震えながら、足こすったりして。あんな感じだ。
あのシーンはよく描けてたな。俺も甲府に入れられた時、寒さと辛さをしみじみとかみしめたよ。
刑務所では独居房に入れられて、毎日舎房と工場(作業場)とを行き来するんだけど、その時に「検身」というのがあるんだ。いわゆる「裸踊り」というやつだな。足型が描かれている四角い板の上に、素っ裸のまま立たされて、両手を「ハイ」と挙げさせられる。
それで両手を挙げたまま、今度は足の裏が見えるように片足ずつ挙げる。ケツの穴まで見せるんだ。何か異物を挟んでないか確認するんだよ。口の中も見せなきゃならんから、バカみたいに大きな口を開けて舌の裏まで見せる。
刑務所に入ったことのある政治家の先生なんかはあれ(検身)が一番プライドを傷つけられたと言ってたな。
政治家みたいな先生にとっちゃ、あんな姿をさせられるのは非常に屈辱的なんだろうけど、俺の場合は斬った張ったと格好いいことをやってきたもんで、そんなの平気だ。
むしろ相当刑務官をおちょ繰りながらやってたよ。
「どうだ俺のチ○○はお前らよりデカイだろう」っていうぐらいの気持ちでさ。
当時の甲府刑務所ってのは、まだ少年院の続きみたいな、初犯の二十代の若いものばかりだった。
まだチンピラにもなっていない「小チンピラ」の兄ちゃんたちでいっぱいだったんだよ。これからチンピラになっていくっていうぐらいのが。
それで俺は入所から1か月目あたりで、ムショで一番強くて、工場を仕切っているお兄さんにちょっと因縁つけられたんでこの野郎をひっぱたいておこうと考えたんだ。
ちょっとうるさい奴が入って来たぞ、俺は「ハイハイ」って言うことを聞く奴じゃないぞと、この野郎たちに、知らしめておかなきゃならんと思ってな。
若いんだしさ、ただ大人しく入ってるだけじゃ、詰まらんじゃないか。でちょっと俺になついてる兵隊、その辺の小チンピラだけど、そいつらに「あの野郎をやっつけるぞ」と声をかけて、2、3人連れて工場で暴れたんだよ。
そしたらワアッとなって、暴動みたいになっちゃってさ。後で、刑務官にクッタクタに叩かれた。拘束服(拘束衣。上半身の自由を奪う着衣)を着せられて,後ろ手に手錠をはめられ、足にも錠だ。
それで刑務所のど真ん中に丸一日寝かされたんだ。
みんなそこを通って舎房に入るから、いい見せしめだ。風呂にもいけないし大をする時は、大が半分付くような格好になってな。
飯を食う時も、そのまんまの恰好で手を使えないから、犬みたいな恰好をして食うしかないわけだ。あれは本当に屈辱的だった。だから俺は意地でも食わなかったよ。プライドが許さなかったからな。 続く
日本刀で現役ヤクザを滅多切り②
日本刀で現役ヤクザを滅多切り②
13回
その時はまだ盃をもらってたわけじゃないけど、
「お前はイケる」「一人前の縄張りを持たせて胴取り(博打場の胴元)にしてやる」と空気入れられたもんで、俺もそれに乗っちゃって、「よーし、ちょっと男上げるか」と。
ヤクザなら誰でもやる単純な、男の上げ方だな。それで俺の兄弟分のさっき話した駆け足の速い男が「俺が行く」というのを押しとどめてさ。「俺が行ってくるから、お前は残れ、後は頼んだ」とか格好付けて、日本刀を持って斬り込みに行ったんだ。
富士宮の「金馬車」ってバーだった。若いのを一人だけ連れて行ったかな、拳銃持たせて。
「俺が危なくなったら『撃つぞ』とやれ」って。
2人で店に入って行くなり、相手にいきなり因縁をつけてケンカを始めてな。20か所ぐらい斬ってやったよ。その時は腹も刺したけど、それ以上刺したら死ぬってところで止(や)めといた。
そうやってひとしきり暴れていると、俺の首ったまを持ってたやつが――こいつも10か所ぐらい斬ってやったんだが――ガクッと倒れたもんで、すっと逃げたんだ。
そんなときでも俺は、自分の行動を冷静に認識していた。もしあそこで俺が怖がったり、逆に舞い上がったりしてたら、相手を殺してたり、逆に自分が死んでたかも知れんよ。
けれど、そもそも相手が5.6人でいる所に飛び込んで行くんだから、死ぬのが怖いとは思ってなかった。
「殺(や)られたら殺られたでしょうがない」というのは常に頭にあったから殺られたとしても一瞬のことだからな。
ただ殺られるぐらいだったらその前に殺っとけということだ。善い悪いの話じゃなくてこれは考え方、生き方の問題だ。
それで相手をさんざん斬った後、店を出て兄貴分に小遣いをもらってからネエちゃんを電話で呼び出して、隣町の富士の旅館に行ったんだ。ところが夜中の3時頃にタクシー使ったもんで、すぐサツに割られてさ。
ネエちゃんと一緒に寝てたところをダッとサツが入って来たんだ。映画みたいだよ格好良かったな。
サツが来たのに気付いてまだそばに持ってた日本刀を抜こうとしたんだが、間に合わなかった。
それじゃあ階段から逃げようかと思ったら、下に機動隊がズラッといたもんで、ああこりゃあしょうがないな、と。
そうして最初は殺人未遂でパクられたんだけど、最終的にはなんとか傷害で済んだ。
それでも懲役2年食っちゃったな。それと前に付いた執行猶予があったから、結局2年10か月ほど甲府刑務所に入ることになった。それが初めての懲役だ。 続く
日本刀で現役ヤクザを滅多切り①
日本刀で現役ヤクザを滅多斬り①
12回
ちょうどそれと同じころに日本社会党委員長の浅沼稲次郎刺殺の事件があった。1960(昭和35)年10月12日のことだ。
あれをやった山口二矢(やまぐち・おとや)は、俺とお同い年でさ。
「我々の世代にも凄い男がいるんだなあ」と思ったよ。
[ちょっと、永人解説]
山口二矢(3・3・2・5)運気100点、完全大吉名。父親が東北帝国大学出の自衛隊員一等陸佐。本人は玉川学園高校を中退。大東文化大学の聴講生だった。赤尾 敏の大日本愛国党に入り、暗殺実行の前に脱党。
ポケットに入れてあった当日の遺書『汝、浅沼稲次郎は日本赤化を図っている。自分は汝個人に恨みは無いが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と訪中に際しての暴言と国会乱入の直接のせん動者としての責任からして汝を許しておくことはできない。
ここに於て我、汝に対し天誅を下す。
皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢』
昭和18年2月22日生まれの彼は
11月2日、東京少年鑑別所2階2号室でシーツを割いて作った縄状の紐を天井の電球をカバーする金網に掛け、首を吊って自死した。『2・二』という数字の因縁がもたらす不思議な感覚を私は覚える。
尚、野田佳彦は3歳半でこのことをテレビで見て政治に興味を覚えたという。そういえば野田佳彦の父も自衛隊員だった。
しかし、2012年、現在の野田佳彦の日本を害し、国民裏切りの連続する罪状は浅沼稲次郎の数百倍にも相当し、この意味で野田佳彦は10回殺されても文句を言えないほどの出てらため、国賊ぶりである・・・解説終わり。
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17歳で、自分の思想、信念のもとに政治家を殺して、鑑別所で命を閉じるなんて、すごい衝撃だった。ショックを受けたよ。俺もあんな生き方が出来たらと
一時は右翼にあこがれたもんだ。
田舎だったから右翼団体に入る機会がなかったけど
「同い年でもあんな奴がいるのに逃げたら恥ずかしいじゃないか、男としてみっともないじゃないか」ということは思ったな。
そういう経験がいろいろ積み重なって自分の生きる道が決まって行ったんだ。
そんな風に街を闊歩してるうちに、街の不良には恐れられるようになっていったんだが、さすがに本物のヤクザにはかなわなかったな。プロには。
いつだったかどこかに連れて行かれて、手足を縛られて、木刀でグシャグシャに打ちのめされたことがあった。その時にやっぱり本物の兄貴分が居なきゃいかんと思ったんだ。
それで当時街で一番強かった男を兄貴分に持って、その下でまた愚連隊をやってたんだ。俺は17か18で兄貴分は25か26、いや30歳近かったかな。格好いい人だったよ。
ある朝、食堂で一緒に飯を食ってたら、ヤクザが3人位で兄貴分をさらいにきた。スッと店に入ってきたと思ったら、いきなり日本刀を抜いて、突きつけてきたんだ。3人がかりで。
兄貴分はそれをかわすと、横に置いてあった自分の刀をパッと抜いてさ。刀を構えて道路に出て、パン、パン、パン、ダン、ダンって5,6回火花が散ったな。本物のチャンバラだよ。真剣のな。
連れていかれりゃ、殺(や)られるのがわかっているから受け身(兄貴分)の方が強かった。逆に兄貴分を連れに来た3人の方が段々弱腰になって、そのうち逃げ出したから、追いかけて行ったら、タクシーに乗って逃げて行ったわ。
逃げる途中に滑ったり転んだりして、その姿の醜さといったらなかったな。なかなか格好いい兄貴分だろ。
でもそれから1、2年で死んじゃったんだ、肝硬変で。
毎日毎日酒を浴びるように飲んでたから。
二人目の兄貴分を持ったのは、20歳になったばっかりの時だ。これに「お前は根性あるもんで、一回体を懸ければ、富士宮は取れる。」とか空気を入れられて(けしかけられて)さ。
その兄貴分は松葉会だったけど、当時は稲川会が勢力を張ってた頃で、そこの組織の人間と何か仕事の取引をした時に、カーンと蹴られたらしいんだな。
それで恥をかかされたというんで反目になって、
「そいつの玉(たま=命)まではいいから,とにかく斬って来い」と。「そしたらお前は男になれるから」と言われてな。
相手はお前よりも『3階級上の幹部』だから」と。 続く
一度逃げたら一生逃げることに
一度逃げたら、一生逃げることに
11回
昭和30年代には殺し合いなんて滅多になかった。昔のヤクザやチンピラは、みんな頬に傷があるだろ。
歌にもあったじゃないか。「酒とケンカにやつれた命・頬の傷痕淋しく撫でて、」って。「こんなヤクザに誰がした」って。(岡 晴夫『男の悲歌』映画『やくざブルース』の主題歌)哀愁があったよな。
切った。切られたの時代だったんだ。拳銃の時代じゃないもんでさ。後々、昔の敵同士で「これはお前に切られた傷だよ」なんて言い合ったりしてさ。
ああいう歌に憧れて、自分で頬に傷を入れる奴もいたぐらいだ。
とにかく喧嘩は逃げたらだめだ。絶対に。俺は17歳ぐらいの時にそれを痛感したんだ。富士宮の商店街で、学生風の兄ちゃん達と、ちょっとケンカになってさ。
向こうは体育会系でボクシングか何かやってた野郎だったもんで、強いわなあ。素手でやったらガンガンにやられてダウン食っちゃって。
ヤバイなあと思って逃げたんだ。当然相手は勢いに乗って、どこまでも追いかけて来る。2,3人で「コラ―ッ!」とか言って走って来るもんだから、もう必死で逃げたよ。
そしたらたまたま長屋の玄関が開いていたから飛び込んで行ったら、家の中でちょうど飯を食っててさ。
ちゃぶ台の上をポンポンって飛んで逃げたんだ。
漫画だよ、本当に。それで、その場は何とか逃げ切ったんだが、後で猛烈に恥ずかしくなってきてな。逃げるということは、こんなに惨めなものかと思ったよ。
実はその前にも一度逃げたことがあった。ケンカじゃないんだけど、兄弟分と歩いていたら、サツに追いかけられて、逮捕状が出てたもんで、「ヤバイ、逃げろ」ってなったんだ。
一緒にいた兄弟分というのは中学時代マラソン選手だったから足が早くてな。俺なんかあっという間に置き去りだ。200メートルも走ったら俺だけ捕まっちゃって、2、3日留置場に入れられた。足が遅いんだ、俺は。
その時の、足の遅い奴がただ逃げてもだめだという記憶があったから、数日後にその学生風の兄ちゃんたちとケンカになった時は、他人様の家の中まで逃げ込んじゃったわけだ。
でもやっぱり、逃げちゃいかんな、というのが身に沁みたよ。助かるには助かるんだが、後でどうしようもなく惨めな気分になる。
人間というのは一回逃げ出すと、どこまでも逃げるんだ。振り返って「何!」ということが出来なくなっちゃうんだ。
なかなかの気力と体力と、それと抜群の腕力がない限りはな。背を向けたらそれまで、逃げる姿勢を見せたらお終(しま)い。
だからボクサーは倒れるまで闘うし、土佐犬だって相手に絶対背中を見せない。奴らは本能的にそれを知ってるから。
人に金を借りるにしても、いったん踏み倒して逃げちゃうとそいつはトコトンまで逃げる。恥も外聞もなくなるんだ。
俺はそれを少年の時に覚えたから良かった。それからはどんなことがあっても踏みとどまろうと思った。たとえ負けても、だ。相手に真正面から対峙して、とにかく正面から向き合って、その場で終わらせなきゃだめだ。ぐだぐだにやられて死んでもいい。
グッと腹に力を入れて耐えるんだ。逃げるくらいならその方がましだ。17でそう悟って以来、俺は逃げた記憶はないよ。それと自分のことで頭を下げたこともな。 続く
第2章・富士宮愚連隊・静岡で一番ヤバい町
第2章:富士宮愚連隊
10回
静岡で一番ヤバい町
富士宮という街には独特の雰囲気があってさ。富士山を奉ってる「浅間大社=せんげんたいしゃ」(富士山本宮浅間大社)という大きな神社があるんだけど、年に2回ほど開かれる縁日には露天商が500軒ぐらい出て賑わうんだ。昔は賭場もあったし確りした博徒もいた。
芸者がいて、検番(けんばん=芸者とお座敷のとの連絡所)もあった。「富士宮芸者」って言ってさ。ちょっと面白い町だったんだよ。
俺が子どもだったころは人口がせいぜい7,8万人位だった。みんなが親せき付き合いしている田舎のみたいな街で、住民同士は時々割れたりもするけど、
基本的には仲がいい。
独特の身内意識みたいなものがあったな。東海道からちょっと北へ外れた奥まった位置で、一つの街をつくったというのもあるのだろう。
だから、よそ者が来ても、イキがったのは絶対入れんぞという雰囲気があったんだよ。俺なんかも縄張り意識というか「富士宮は自分の巣」みたいな意識が強かったな。
まだ組織に属さない、一介の不良少年だったころから。だから富士市とか清水市から入って来る奴らとはいつもケンカしてたよ。
富士宮はあのへんじゃ、不良少年が一番多い街だったんだ。あそこへ行くとヤバイから、あんまり近寄るな、というのが静岡市あたりでも言われてたぐらいだ。殺人事件なんかも県内で一番多かったんじゃないか。
こんな小さな田舎町に稲川会、極東(極東桜井総家)東海道枡屋(ますや)一家と3つの団体がひしめいて、それぞれ事務所を持ってやってたんだから。
そこに加えて俺たちみたいな愚連隊。ヤクザとは違う不良少年のグループがあってさ。
目が合っただの、肩が触れただのって毎日ケンカしてたわけだけど、やるからにはどんな手段を使ってでも勝たなきゃ」と思ってたな。
1回でも逃げたりすると、「あの野郎逃げた」と言われて、そいつからずっと目下に思われるからさ。
それこそ勝つためにいろんなことを考えたよ。振り返りざまにいきなりバンッとひっぱたいたり、何かで目潰しを仕掛けたり、かなりいろんな手を使ったけどな。
それでとにかく必ず勝った。そうやって街のチンピラ社会の中で「やっぱり後藤は怖い・・・」という雰囲気をつくって行って、リーダー格になっていったんだ。
そうだなあ、20歳頃までには20人か30人位の若い衆は抱えていたな。
ケンカってのは気合いの問題なんだ。俺はその頃小さな剃刀とかドス(小刀)を必ず持っていた。で、ケンカになりゃまずダッと顔を切る。それでも相手が向かってきたら。また顔や体をパッと切りつけて。
そういう所作はだんだんうまくなっていったな。早い方が勝ちなんだ。といっても、運動神経の問題じゃない。
相手が「ナニッ!」とか言ってる間にダッと先手を打つという早さだ。顔を切りつければ、命に別条はないが,血が派手に出るから相手は「ああっ」とひるんで逃げるだろ。ドスを持ってたって刺しはしないよ。
あくまでも切るんだ。脅しで。切っても死なないからな。それに傷害(罪)で済むだろ。
そういう知恵は俺も子供のころからあったし、
チンピラ同士でもちゃんとルールがあったんだよ。 続く
後藤ファミリーのエンジン
9回
後藤ファミリーのエンジン
もちろん、ケンカだって毎日当たり前のようにあった。
偶然チンピラ同士が出会って、目と目が合っただけで、ガンつけた、どうだこうだとかあるんだわ、我々の世界じゃ。
「なに、こら!」とか言うと、それですぐケンカが始まるんだ。
そんな生活を半年も続けてりゃ、そのうちパクられるわな。だけどそんな大した恐喝やケンカじゃないから、すぐに出られるんだ。
一緒に逮捕された同級生たちは、親が警察に貰い下げにきて「帰して下さい」って言うから。
でも俺のところには誰も来ない。兄弟も、誰も。しょうがないんで俺だけが少年鑑別所に送られるわけだ。
それでもさすがに鑑別所から出るときには次男が迎えに来てくれた。兄弟の中で行方不明じゃなかったのは次男だけだったから。
真面目一本の本当のド堅気で、チンピラの世界なんかに、足を踏み入れたこともない男だ。
それが呼び出されて、親の代わりにちゃんと始末付けてくれた。少年院に送るほどの大それたことじゃないから、鑑別所止まりでパイになった(釈放された)ことが2回ほどあって、だから次男には今も感謝してるんだよ。
その頃、長男はといえば、仕事なんかしないで
さっき言ったみたいに少年院に入ったりしてたけど。本当のヤクザというわけじゃなかった.ブラブラしてる不良少年だ。
三男も一時はお妾さんの世話で東京の製紙会社に勤めていたが辞めてブラブラしてた。その製紙会社には俺も一緒に世話になったことがあってね。16か17の頃だ。行く場所がないもんだから、来いって言われてさ。でも数カ月で辞めて富士宮に帰って・・・・という俺もそんなことの繰り返しだったな。
ただ三男とは歳も近かったから、将来の夢とか語り合ったこともあったんだよ。その後長男と三男は、俺が稼業に入ってから、みんなこっちへヤクザの世界へ引っ張るわけだけどさ。
兄弟なんて、遠くにいれば必要ないんだよ。近くにいればこそ、兄弟という絆を意識するし、力にもなり、泣いてくれることもあるんだ。
進む方向が一緒で歯車がちゃんとかみ合ってるとすごく大事な存在になるけれど、そうじゃなかったら全然要らない。
その兄弟の歯車を束ねて動かす原動力に俺はなったんだろうな。
一番下の弟だった俺が後藤ファミリーのエンジンになったんだよ。 続く
いたずら小僧の番長
いたずら小僧の番長
8回
俺の場合は、親や兄弟からの抑圧で特に反発心、闘争心も強くなったんだろうな。それで不良少年になって、不良少年から愚連隊、愚連隊からヤクザになったんだが、そういう闘争心を受け止めてくれる、うまく活かしてくれるというのは、やっぱり一般社会よりもヤクザの世界の方だったな。
親父は、俺が中学を卒業した年の夏に死んだ。浦和にいたじいさんのお妾さんの家で、脳溢血だ。61歳だった。
結局おふくろが死んでから13年ぐらい一緒に暮らしてたな。確執はあったけど、思えば面白い親子関係だった。今でも親父のことは大事に思っているよ。
中学を卒業しても俺だけは一緒に生活してたしね。だけどその親父が死んで、俺は完全に独りぼっちになったんだ。兄貴らはみんな就職だ。だんぷのうんてんしゅになるんだとか言って、どこかへ行ってたから。
長男は俺が中学の頃には不良仲間に入って、少年院に入ったりしてたな。二男はまじめな男なんだけど三男というのがまたふらふらしてて・・・・まあ俺もそういう家庭環境で育ったもんだから、中学3年の頃には番長になってたよ。と言っても女の子のスカートをめくったり、ちょっと悪さしたり、よその学校の不良とケンカしたり、要はいたずら小僧の番長だけどさ。
ケンカじゃそれなりの評判になってたな。「後藤が出てくるぞ」と言うだけで、相手のグループが引っ込むんだ。一種の心理戦だ。「闘わずして勝つ」というのもいたずら小僧なりに覚えたよ。
それで中学を出たのはいいけど、その頃はすぐに仕事なんかなかった。どこかに住み込みなどで雇われても、24時間はたらいて月に2000円か3000円か、その程度の稼ぎだ。
ラーメン一杯30円ぐらいの時でさ。伊豆にうちの親せき筋の「小松家」という旅館があって、そこの番頭もやらされたこともあったけどな。後は土方やれと言われたこともあったけどそんなに力はないし工場だっていいところは使ってくれない。
きっと悪さするような顔してたんだろう。こんなことで生きてたってどうにもならんと思って、チンピラの社会に入ったんだ。
同級生を集めて恐喝したり,ケンカしたりさ。いわゆる愚連隊だ。だって金がないだろ。寝るところだってさ。そうすると何をするかといえば、まず恐喝。それで汚い木賃宿みたいなところを探して、手下と2,3人で寝て、金がなけりゃ、神社で寝たりさ。次の朝腹が減りゃ、駅へ行って学生を脅かすんだ。「ちょっと弁当くれ」って。まずは腹ごしらえだから、弁当を恐喝するんだ。
当時は中学を卒業したら高校へ行くのが3割、7割は就職だ。高校へ行ってるのは金持ちの家の秀才なんだよ。「お前らはいいよ、高校へ行けるんだから」って。
「だから今日は弁当頂戴」と。
戦後の不良少年の発祥みたいなもんだ。野村秋介(戦後を代表する行動右翼で、後藤の親友。野村との交流は第6章で詳述)さんもそんな不良少年上がりだったよな。 続く
父親・兄貴達に居直る
父親、兄貴たちに居直る。
7回
俺もまともに生きていたら、じいさんみたいに実業家になっていたかも知れない。で、事業をアメリカなんかに拡大して大儲けしてたかもな。
じいさんの奥さんつまり俺のばあちゃんは田舎ものだし、爺さんがそこまで出世する前に一緒になってるから、そのままずっと田舎にいて、東京にはお妾さんというのがいたんだよ。
この人が才覚のある人で、じいさんの財産も、入ってくる金も、一人で切り盛りしてたんだ。常に上席、うちのじいさんの横に座ってたらしい。最後はのんびり暮らして80歳ぐらいまで長生きしたんじゃないの。
浦和市にじいさんに買ってもらった立派な家があって、子供と住んでたよ。俺は10歳ぐらいになって初めて顔を見たんだけど、うちの親父は「浦和、浦和と言っちゃあ、よく出かけてたし、兄貴たちも就職かなんかでずいぶん世話になっていた。家族みんなが親しくしてたから、ばあちゃんが死んでからは浦和が分家みたいになってね。だから俺もいろいろ思い出はあるよ。
でもよその子や孫の面倒を嫌がらないどころか,むしろ進んで世話を焼いていたんだから。このお妾さんも豪傑だったよな。
親父なんかは「和吉、和吉」と呼び捨てにされてさ、「おいこら、和吉、お前はもっとしっかりしろ」ってよく叱られてたよ。
東京にいた若いころからそうだったみたいだから、親父はお妾さんにはブルッテいた。怖がってたね。
だからさ、酒飲んで自分の母親に因縁つけたり、いじめたりしていたことは最低だけど。親父がそんなことを出来る相手は結局ばあちゃんしか居なかったという言うことなんだろうな。
そのばあちゃんが死んでからも、俺は何かにつけて兄貴や親父らにいじめられてきたんだ。けど、俺も中学にもなるとちょっと体力が出来てきたもんでさ。
いつかこの親父や、兄貴らに「居直ってやろう」と思ってたわけだ。いつかはガツンとやってやるって力を蓄えていた。
それで中学1年の時、兄貴たちに何かでひっぱたかれた時に後ろから竹の棒かなんかで頭をバーンとやって。それからはあんまり苛(いじ)められなくなった。
そう云うのが、「居直る」ってことなんだ。
親父に居直ったのはその少し後だったかな。何かで「ガン」とやってきたから「何!」と言ってガツンとやり返したんだ。
親父はその頃55,6歳なもんで、そろそろ体力も落ちてきたんだろう。「あこれはちょっとヤバいな」と思ったんじゃないか。
それ以降親父はだんだん俺になついて来て、「ただまっちゃん、ただまっちゃん」なんて言い始めてさ。
学校にも迎えに来たりして、俺の機嫌を伺うようになったんだ。それに兄貴たちは年が離れているから、俺が中学に入る頃には、みんなどんどん家から離れて行った。
そうなると、その1000坪ぐらいの家の中で、俺と親父が二人きりで残ることになる。1対1で俺まで出て行ったら寂しいというのもあったんじゃないかな。
当時の俺の気持ちは、戦国時代の下克上見たいなもんでさ。親であろうと兄貴であろうと手下にしちゃえば簡単なもんだと思ったんだな。闘争心もあったしね。
あれが俺のチンピラ人生の始まりだったんだろうな。
ただ云っとくけどそこに憎しみはなかったんだよ。小学校の間中ずっと、ああいう抑圧された環境の中で育ったから、その反発が大きく出ただけのことで、抑圧が大きければ大きいほど、「クソ親父」「クソ兄貴」という反発心が膨らんでいっただけだ。
世の中みんなそうだろ?中国がチベットをイジメてる今の問題にしたって、会社の上司や、オーナーに対する社員の不満だってさ。人間はみんな大なり小なり、抑圧されりゃあ反発するんだよ。
抑圧されっ放しでじっとしてたら、これは荷馬車引きみたいなもんでさ、一生、浮かばれんわ。
続く
祖父のもとで
祖父のもとで
6回
小さかったから、東京の記憶はないんだけど、富士宮へ疎開するまでは、荏原のじいさんのところに住んでいた。時々目を懸けてくれてたみたいで、じいさんの「権力」のもとでぬくぬくと育っていたことは間違いないだろうな。
じいさんは、もともと富士宮の大地主だったんだ。
農地解放で農地はみんな返したけど、その前の謄本を見れば載ってるよ。何十町歩(ヘクタール)レベルじゃない。
富士宮の駅からじいさんの家まで2キロぐらい全部だとか、じいさんの土地を通らないとどこへも行けないとか、まあ何百町歩のレベルだ。大地主も大地主、富士宮で一番だった。
歴史を辿って見ると、いろいろな事業をやっていて、経済界にも政界にもいろいろな影響力のある人だったという話だ。
大正時代には駿河鉄道、今の伊豆箱根鉄道かな、それの創設時に取締役か専務をやって、駿河銀行も初代の時に取締役で、富士川発電と云って今は東京電力に合併されてるけど、その創始者の一人でもあるらしい。地元じゃ超財閥だ。
東京から富士宮に帰れば、町民が旗を持って迎えに出るぐらいだったって。それから戦前は満洲のチチハルかな、そこで大きな繊維工場をやってて、当時アジアを動かした大物たちとの交流もいろいろあったようだ。
頭山 満と一緒に酒飲んで語り合ってる写真とか、当時、東京市長だった後藤新平と肩組んでる写真があったからね蒋介石が日本にいた時は、ずっとうちのじいさんの所から通わせてたらしい。要はパトロンだな。
じいさんが蒋介石と友人だった関係で、親父は大学を出た後、大陸へ渡って学校の先生をしてたんだ。
終戦後もじいさんはずっと東京にいたんだけど、昭和21年か22年頃、元軍人だとか、自分がかわいがっていた人間達が、いろいろと相談に来てたらしい。
そんな中で東京湾の浅瀬に陸軍が船ごと金塊を沈めたという話を聞いて、それを海底から引き揚げたことで有名になったんだ。その時の写真もいっぱいあったし、当時の新聞にも一杯報道されてるから間違いないよ。
じいさんは戦中から特に阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大将(陸軍大臣、ポツダム宣言受諾直前に自害)とは親しかったそうだから、陸軍関係の正確な情報が入ったんだろうな。
当時はアメリカの占領下だったから、引き揚げた金塊は一旦アメリカに渡ったんだけど、後になって国庫に入ったらしい。そういえば、「大蔵大臣・田中角栄の一筆をどっかで見たな・・・・。
角さんが大蔵大臣をやってた頃といえば、昭和30年代の後半だろ。その頃に金塊が日本に戻されたとしたら、じいさんが引き揚げてから15年も経った後の話だ。いづれにしてもそれがじいさんの最後の大仕事だった。
金塊を引き揚げる資金を作るのに財産を売って、今で言うと10億とか20億、もしかすると50億とかをつぎ込んだんだよ。
金塊を手にしたら、それを元手に、日本を縦に貫く高速道路を造ろう。その「日本縦貫高速道路」が完成したら、北海道から九州までの物資輸送が飛躍的に発展する。
それに道路建設で街にあふれる失業者も減るはずだ。
セメント、鉄鋼業界も潤うだろう――と、いろいろ考えてたらしいわ。
けれど結局、金塊は米軍に持って行かれて、だから最期は金無しになって死んだんじゃないかな。確か昭和24年だ。伊豆長岡に、面倒を見ていた「大和館」という大きな旅館があって、そこで死んだ。ただじいさんの経済力や、それをバックにした政治力、人脈が並外れていたことは間違いないよ。
そういう話は、中学を卒業してから周りの人に教えてもらったんだ。「あんたのおじいさんは凄かった」って。 続く。
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