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奥村花子

元々西園寺公望には相手と生死別しやすい10画という大凶悪運気が
主運たる人格に有る(寺公で10画)ため、気まぐれで自分勝手な一面があり、人にも飽きるという気質を持っていたようである。

そうでなくても西園寺公望の後運、総格40画は人徳不遜の向こう見ずな面が有り、生活に一切困るわけでも無し、自由奔放な貴族の思うままの生活ぶりが窺(うかが)えるのである。

次に目をつけたのが、西園寺家に奉職していた女中の奥村花子であった。
奥村花子(12・7・10・3)草かんむりは竹で6画、故に花は10画。運気95~100点の大吉名。5点の減点は人生の前半に基礎運がやや不安定なことである。37歳過ぎの後半は100点の運気である。

奥村花子

天格:奥村  ・19画
人格:村花  ・17画大吉
地格:花子  ・13画大吉
外格:奥子  ・15画大吉
総格:奥村花子・32画大吉

成功運:天(九)―人(七)大吉。何事も意の如く順調に進展して目的を達成す。

運気で見る限り、確り者の頭脳明晰、しかも温厚、温良の気質を持ち、最高の婦徳を備えた、素晴らしい女性である。37歳以降に於いては千人に一人の割合の完全大吉名と言っても良い。

奥村花子は観音様みたいな慈悲深い雰囲気の漂う神々しい女性だったはずだ。イカメシクきつい中西房子よりも数千倍優しく確り者の奥村に
西園寺の気持ちが揺らいで行ったのは必然的であろう。

勿論我々庶民は『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、ひたすらむせび泣きしつつ』きつ~~い女房に耐えているのであるが・・・

そこへ行くと西園寺公望は候爵様、貴族様で、なんとも勝手が許されたのであるが、此処で若しも奥村花子が西園寺花子になった場合、

西園寺花子(6・13・6・10・3)外格に22画が出て、運気は30点に急降下する。この場合、奥村花子のままで良かった事に成る。

さて内容の伴った奥村花子は容姿堂々と西園寺公望の夫人を思わせる雰囲気で1919年パリの講和会議出席の西園寺公望に同行した。この全権大使の功により、翌1920年に西園寺は公爵に昇叙されている。
まさに同行した奥村花子のソツの無い『内助の功』そのものの結果であろう。・・・完

      この一年間本当にありがとうございました。



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中西房子

中西房子は西園寺公望が芸者玉八:本名、小林菊子についで2番目に妻代わりをさせた女性である。

中西房子(4・6・8・3)運気10点。
天格:中西:  10画
人格:西房:  14画、大凶
地格:房子:  11画、大吉
外格:中子:   7画、大吉
総格:中西房子:21画、大凶

成功運:天(十)―人(四)大凶。成功絶対抑圧され、急変の難を生じ、心臓麻痺、或いは脳溢血、自殺などあり。

主運:(人格)西房:14画大凶。破兆あり。家族縁薄く、親を失い、子を亡くす。或いは兄弟姉妹に離るるなど、孤独、不如意、煩悶、危難、遭難の意あり。浮沈極まりなし。その浮沈に憂いて終始す。しきりに心を労す。労して功無し。物事不足勝ちにて辛酸多く、天寿を傷(そこな)う。

後運(総格):中西房子:21画。大凶:偉大なる頭領運成るが故に女性には却って大なる凶災をもたらす。けだし、女は男に従うべき先天の約束あり。然るに頭領運を有する時は婚期を失し、郎縁を失い、嫁しては妻は夫を凌ぎ、両々霊的の暗闘を生ず。

故に例え,家庭円満にして婦徳完備すといえども、必ずや夫の運を破り、
自ら斃(たお)るるか夫と生死別するかのいずれかに帰結す。独立独身の女性は名を成すことあるも、いわゆる家庭破壊の大凶運数なり。

23画、33画、39画もまた同じなり。

良い縁を得がたく、仮に縁を結ぶ事があっても、相手と生死別を余儀なくされる運気なのである。これを後家(ごけ)運ともいう。一般的には段々夫を尻に敷くようになり、俗にカカア天下と言う女上位の家庭を作りやすい。

精神も、体質も段々と男性化されていく特性があり、本人の気付かぬまま気性も荒っぽく成るので、一般的に夫は『他に優しい女性』を求めるようになって来るのである。

女性は自分の激しい気性が夫に嫌われている事に気付かず、優しい女性を求めて行動した夫を更に激しく詰問、批難し、二人の間に隙間を作って行くのである。昔も今も、変らぬ夫婦の『生き形』があるようだ。

恐らく西園寺は房子の前運である11画という大吉運の雰囲気が醸す物静かなおっとりした女性らしさの一面に惚れ、小林菊子には無いものを求めて一緒になり(結婚ではない)1女を設けたが、後運21画の後家運、頭領寡婦運によって気性がきつく変化した中西房子を次第に退けるように成って行ったのだ。・・・奥村花子へ続く。






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小林菊子

西園寺公望、桂の後を外務大臣と兼務の総理大臣を拝命し、七人目の首相となった。(桂園内閣)と揶揄される如くに桂と時々入れ替わるような状況で、総理を務めた。出身は京都で東山天皇の子孫である。公家という事に成る。

西園寺は正妻を持たなかった為、総理大臣夫人と言われる女性は存在しなかった。しかし、新橋の芸者『玉八』との間に娘『新』を設けており,この新は公爵毛利元徳の八男、八郎に輿入れし、三男三女を設けている。

子供のいない形になった西園寺公望はこの毛利八郎を養子に取り、西園寺家を継がせたのである。しかし、正妻が居なかったといっても実際は三人の女性を妻代わりにしていたという。

最初の芸者『玉八』は本名を小林菊子という。運気10点の凶名である。
しかし玉八(13画)の吉名により、西園寺公望と知り合えた事に成る。

西園寺の本姓は藤原である。

藤原公望(21・10・4・11)は運気10点

天格:藤原:  31画、
人格:原公:  14画、大凶。
地格:公望:  15画、大吉。
外格:藤望:  32画、大吉。
総格:藤原公望:46画、大凶。

西園寺公望(6・13・6・4・11)運気10点第一型絶対的短命運

小林菊子 (3・8・14・3)   運気10点

天格:小林   11画
人格:林菊   22画、大凶
地格:菊子   17画、大吉
外格:小子    6画、大吉
総格:小林菊子 28画、大凶

基礎運:人(二)―地(七)大凶。常に迫害を受け、目下の脅威に逢う思いあり。呼吸器、特に肺を冒す。

西園寺には生まれ付いての環境や境遇というものが恵まれすぎており、幼少時においても明治天皇の遊び相手に選ばれている。好きな女に惚れて妻帯するでもなく自由奔放に生きたと言える。

芸者玉八も吉運気で西園寺に気に入られ、実質の妻たる立場で子を生(な)し、旧毛利藩の毛利元徳の息子へ嫁がせたのだから幸せな状況下にあった筈である・・・中西房子へ続く。


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桂 可那子

初めの妻、歌子と同様に産後の肥立ちが悪かった後妻の貞子は桂の姓を名乗って僅か4年目(明治23年)で他界したのであるが、翌年の明治24年に自分の娘ほどの年令の差がある村上可那子という女性と事実婚に入っていた。東京市在住の村上浜次郎の長女である。

二人の事実婚が7年続いた後、正式な結婚は明治31年に挙げた。
再婚の貞子とは前妻歌子が逝って直ぐ一緒に成っただけに、三度目はさすがに間を置いたのであろう。

村上可那子(7・3・5・11・3)おおざとは邑で7画、那は11画
運気10点凶名。

地格:可那子19画:大凶、病弱、孤独、苦労困難、病弱短命運。
外格:村那子21画:大凶、良縁を得難い頭領寡婦運。

結婚の3年後に桂内閣が誕生し、総理夫人と呼ばれる立場に成ったのは桂可那子であった。この時桂太郎は53歳である。

(一) 桂 可那子〔(一)10・5・11・3〕運気10点。第一型の絶対的短命運。
天格:(一)桂:  11画
人格:桂可:   15画、基礎運により吉から凶へ変化す。
地格:可那子:  19画、大凶
外格:(一)那子: 15画、三才の配置により吉に凶を含む。
総格:桂 可那子:29画、三才の配置により吉に凶を含む。

基礎運:人(五)―地(九)大凶:人格部に吉あるときもその吉を発揮し得ず、災禍、凶運相つぎ、急変転落、脳溢血、変死に至る事あり。

三才の配置:天〔一〕―人〔五〕―地〔九〕大凶第一型絶対的短命運
脳溢血、心臓麻痺、急難、災害、自殺、その他すべて急変の死を招き短
命の人生に終わる。

彼女は2男1女をもうけたが、案の定身体を弱くしていたので、総理夫人として太郎と一緒に活動する事はなく、一緒について補佐していたのは、山県有朋に紹介され付き合っていた『お鯉』という芸者あがりの妾だった。総理大臣官邸内に『お鯉の間』が設けられていたという。

三人の妻に三人ずつの計9人の子供、又もや、私の9人兄弟姉妹を思い出す。不思議な因縁を感じるのである。

桂太郎はこのお鯉に『歌子の言う事を聞かなかったバチが当たって苦しい思いをした』と折に触れて死ぬまで悔やみ、こぼしていたという。桂太郎の総格に28画という素直さがなく他人と不和争論をまねく自分勝手さがあるゆえ、歌子の意見を無視した咎めが色々と出ていたのであろう。

頑固さが癌を招くのたとえ通り、桂太郎は63歳で胃癌死したが、歌子の怨念に手招きされたと言える。胃癌発病の芽が出たのは歌子が逝って直ぐ後に貞子と再婚した頃の筈だ・・・日露戦争に勝利した宰相も歌子の怨念には勝てなかったのだ。(完)

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桂 歌子 ・ニ・

余りにも悪い運気で気の毒ながら、似たもの夫婦とはよく言ったもので、
夫の桂 太郎も似たり寄ったりの運気を持ち合わせていたのである。

(一) 桂 太郎:郎は郒で14画。
天格:(一)桂: 11画。
人格: 桂 太: 14画。大凶
地格: 太 郎: 18画。基礎運により大吉に凶を含む。
外格:(一)郎: 15画。主運の凶により大吉に凶を含む。
総格:桂 太郎: 28画。大凶

基礎運は妻の桂 歌子と同じで、表面的な安穏とは違って内実は精神過労に陥り、呼吸器、消化器、などを冒す。さらに家族縁薄き浮沈波乱の人生を余儀なくされ、辛労重ね来る運気にて配偶を失い、孤独に陥ることを暗示している。

主運〔人格〕桂太14画、大凶。破兆有り。家族縁薄く親を失い子を亡くす
。或いは兄弟姉妹に離れるなど、孤独、不如意、煩悶、危難、遭難の意有り。浮沈極まりなし、その浮沈に憂えて終始す。しきりに心を労す。労して功無し。物事不足勝ちにて辛酸多く、天寿を傷(そこ)なうことあり。

総格:桂 太郎:28画、大凶。遭難運と称し、波乱変動多く、批難誹謗を免れず、時に厄難に遭遇し、障害を蒙(こうむ)るか配偶者と生死別し、禍乱多く、平和の望みなく、不和、争論、逆難、刑罰の災い相ついで来たり、終生辛労多き険悪運なり。

妻 桂 歌子は病弱だった為、自分の短命を悟っていたかのように、常々夫の太郎に

『若し、自分が死んだなら、兄嫁の野田貞子だけはどんな事が有っても後妻にしないで欲しい』と再三に渉って懇願していたという。歌子の兄が亡くなって貞子は未亡人になっていた。

歌子は桂と明治7年に結婚し、Ⅰ男2女を産んで育て、明治19年に産後の肥立ちが悪く病弱のままで亡くなった。

桂 太郎は歌子の願いを聞き入れず、妻が亡くなったその年に妻があれ程嫌がっていた貞子との結婚を果たした。

野田貞子:人格が桂太郎と同じ14画である。それにこの14画を外格にも持っている。しかも貞子が12画であり家族縁の薄い短命運。

ここにおいて、歌子の魂が黙っているはずがない。貞子はいかに短命運とは言いながら、桂との間にたった4年でⅠ男2女をもうけ、明治23年他界してしまった。

歌子の思いは自分の願いを聞き入れなかった夫の太郎よりも、貞子の方へ強く作用したのだろうか?・・・桂 可那子へ続く。

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桂 歌子

六人目の総理大臣・桂 太郎は長州の出身で、山縣有朋の直系である。
出生地は現在の山口県萩市、父は桂 與一右衛門、母は喜代子である。
母の実家は中谷という藩士の家であり、叔父の中谷正亮は吉田松陰の主宰する松下村塾のオーナー的存在だった。吉田松陰が獄中死したとき、桂 太郎は13歳であり、塾に入ってはいなかったものの、その影響を限りなく受けていた。

その様な背景と、叔父の中谷の人脈は、太郎の中央での出世に大きく影響したのである。さて、この桂が最初に結婚したのは、野田歌子という女性だった。

野田歌子(11・5・14・3)    運気10点:大凶名。
性格は9の水性。人格19画大凶。外格14画大凶。総格33画大凶。
良縁に薄く、苦労困難の多い孤独、病弱、短命運。

(一)桂 歌子 〔(1)・10・14・3〕運気10点、凶名。
(一)桂  太郎〔(1)・10・4・14〕運気10点,凶名。
歌子、太郎共に性格は4の火性で一致、相性(あいしょう)は吉を意味している。

(一) 桂 歌子
天格:(一)桂:  11画
人格:桂歌:   24画。副運により吉から凶へ変化す。
地格:歌子:   17画。基礎運により吉から凶へ変化す。
外格:(一)子:   4画。大凶
総格:桂 歌子:  27画。大凶

基礎運:人〔四〕―地〔七〕大凶。一見安穏にて然らず、精神過労、呼吸器病など起し易し。

副運(外格)4画。大凶:破壊の凶相、不具、不全、滅亡の兆象あり。
進退の自由を欠き、辛苦困難多く、或いは発狂、変死、短命などの誘導は忽(たちま)ちにして生じ、然(しか)らざるも放逸、破滅,逆難を免れず、人生の上に無意義なる存在と成ること有り。

後運(総格)27画。大凶:自我心強く、批難運と称し、誹謗攻撃を受け、失敗する者多し。中絶半途、中折れの象あり。中年頃までは、智謀と奮闘と努力とによりて、名利、共に行はることあるも、内外不和を醸して発達成り難く、例え自身温順なりといえども、裏面の陰口、批難を免れず、刑罰、遭難、変死、孤独に陥ることあり。

才略智謀人に優れて,無から有を生ずる、大蓄財を意味する経済力盛んの運を有し、物資四方より集め来る吉運を意味する24画を主運に持ちながら、4画、27画の大凶兆運気に左右されて、終局は短命の人生を余儀なくされる悲運を暗示する。

所謂(いわゆる)飛んでいる飛行機が急にエンジン停止して墜落するような激変の凶悪運気を物語っている。・・二へ続く。




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大隈綾子・三・

もしかするとカカア天下で重信は妻の綾子に頭が上がらないのではないか?と噂をされたが、実際の所は夫婦仲は非常によかったという。

大隈綾子の凛々しい顔つきの中にも、優しい眼差しは、確り者の良く出来た妻の姿振りを容易に連想させるものがある。

ところで夫の重信は1898年(明治31年)6月に、板垣退助らと憲政党を結成し同年、6月30日に、60歳で薩長藩閥以外で初の総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組んだ。

しかし旧進歩党の犬養毅を閣僚に選んだ事に旧自由党の星  亨が不満を持って一方的に憲政党を解党宣言、大隈内閣はたった4ヶ月で総辞職に至り、大隈は一先ず、政界を引退したのである。

大隈が再び政界に復帰するのは1914年(大正3年)山本権兵衛内閣がシーメンス事件の責めを負って、辞職し、それを受けての、第2次大隈内閣を組閣しての事であった。大正5年、78歳6ヶ月で総理の座を次へ渡したが、現職総理78歳6ヶ月の記録は未だに破られては居ない。

1889年(明治22年)国家主義思想の政治団体『玄洋社』の来島恒喜が、外国籍のものを役所に登用する外務大臣大隈重信の案に不満を持ち、爆殺しようと大隈を襲撃した。この時に大隈は命拾いしたが右足を失った。

この事件の直後、来島恒喜はその場で喉をかき切り自殺して果てたが、大隈綾子は重信と共に毎年毎年、来島の命日には欠かさず墓前に線香と花とを手向け続けたという。凡人には出来ない所業である。

大隈は人が大勢早稲田の自宅に集るのを好み、何時間でも講話し、談笑していたという。雨の日など尋ねる人が少ない時は、『今日は客の入りが少ないなァ』と寂しがったという。

明治45年の大隈邸の1年間の台所記録によると、この年の自宅訪問客は23,963人に及び、この内で、食事の提供は、

上:   1、523人前
並:   1、641人前
西洋料理:  550人前
合計:  3,714人前・・・・だったという。

確り者の綾子夫人がキチンと整理して記録していた几帳面な人がらを物語るところであり、『木下藤吉郎と・ねね』の如く、出来た妻を持つと男は出世が早いのもある意味では道理かも知れない。

そのような事もあってか、大隈家の台所は当時の上流家庭の台所見本と成っていたそうである。

1922年(大正11年)1月10日、大隈は早稲田で死去、日比谷公園の『国民葬』には30万人の人々が集まったという。85歳だった。

3週間後に行われた山縣有朋の『国葬』には『民』が抜けた為か、参加したのは極一部の役人と軍人のみでひっそりとしたものだったという。

夫婦仲の良かった綾子は夫の死の翌年に73歳の生涯を閉じた。仲の良い夫婦程、えてして間もない時期に逝ってしまうようである。大隈重信の活躍に『大隈綾子夫人』の内助の働きは必須要件だったのである。・・・完




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大隈綾子・ニ・

二人に運気上の差がないからこの縁談はまとまりやすいという面もある。
大隈綾子(3・17・14・3)運気80点。大吉名。

二人の結婚は三枝綾子にとっても、大隈重信にとっても運気の面で得する事になった。

三枝綾子は大隈綾子に成って運が8倍の強さに変化し、度量優れた、見識の有る立派な女性に生まれ変わるのだ。この意味ではさすが大隈は目が高い、いい女性を妻にしたと誉められる。

誉められて悪い気がしない大隈重信は、その上家庭の内外に縦横無尽に重信を援助してくれる貴重な存在の妻を持った事に成るから、これまた大いに得をする事に成る。大隈の運気が悪いからなお更だ。

先述したが三枝綾子の母は大隈重信に対して好印象で接した訳ではなく、特に西国大名の中でも荒っぽいと言われた、鍋島藩のお国侍であり論客として政治に熱狂している重信は、既に大官となり、出世しているとは言うものの、粗野放胆で礼儀知らずの男と見られたのかも知れない。

重信にしても佐賀流の礼儀は尽くしたのであろうが、直参の旗本で品の良い御殿風の綾子の母親には理解し難い田舎者としか映らなかった様である。また、大隈は今に言うイケメンとは程遠い。

しかし、三枝綾子は短冊に『南無阿弥陀仏』と何年もかけて数千枚も書いていたという。

一方、大隈重信も母の三井子から『南無阿弥陀仏』を唱えるよう教えら
れ、常々その念仏を唱えていたという。大隈は青少年時代から,荒くれで喧嘩っ早く、なま傷が絶えなかったという。

心配した母親が、「どうしても相手を許す事が出来ないと思ったら、掌の上に『南無阿弥陀仏』と10回書きなさい。書いた後にもまだ相手に敵愾心が消えずに残っている時、思いっきり喧嘩しなさい」と大隈に言ったという。掌に書くように成ってからは喧嘩しなくなったという。

大隈が南無阿弥陀仏を唱えるようになったのは、そのようなイキサツがあってのことだったが、これも二人を引き合わせたご縁なのだろうと思う。

二人の仲は非常に良く、綾子は大隈の行くところにいつも付いて歩き、身の回りの世話をしていたというが、ある日、縁側で休んでいた大隈に綾子の長いキセルを差し出し、重信はそれに黙って刻みタバコを詰め込むとそれを綾子は受け取って火をつけ,うまそうに吸っていたという。
・・・三へ続く。

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大隈綾子

同じ文字や呼び方を持った夫婦は同文字、或いは同音の縁という。

以下はこの縁を組んだ夫婦達である。

坂本龍馬(りょうま)と龍(りょう)
黒田清隆(きよたか)と清(きよ)
山縣有朋(ありとも)と友子(ともこ)
松方正義(まさよし)と満佐子(まさこ)

伊藤博文から続いた薩長交代での内閣総理大臣の選任は、5人目に大隈重信という佐賀藩出身者の総理大臣就任で一先ず幕を引くことになる。

大隈重信は三枝綾子という女性と再婚した為、同文字、同音の組み合わせもここで一先ず終わる事に成った。

さて大隈重信は300石取り、佐賀藩士大隈信保を父に、三井子(みいこ)を母に1838年佐賀で生まれ、幼名を八太郎といった。やがて父の一文字『信』を取って父と自分の信を重ねることから重信と改名するが最初の妻・美登との間に26歳で長女を授かった。

その長女に熊子と命名したのである。大隈熊子(おおくま・ゆうこ)である。姓に隈と名に熊は変ではあるが運気90点の大吉名である。
しかし新政府に入って働いている折、美登とは離別してしまった。

大隈美登(3・17・9・12・こざとヘンは阜で8画)運気10点
美登は21画の頭領寡婦運で大隈家の嫁ならず、誰と一緒になっても嫁としては勤めを果たせない。

或いは大隈の家に居るだけで息が詰まる運気で、知らずしらずに夫の運を破り、夫を倒すか、自らが斃れるかのいずれかに帰し、夫と生死別を余義なくされる運気を示現するのである。

6歳の熊子を佐賀の生家に預けた重信は、30歳より東京で明治新政府の大官として仕事をしていたが、直参旗本:三枝七四郎の次女として生れた13歳年下の三枝綾子に惚れ込んでしまった。
重信は三井子(みいこ)という『三』の字を名に持つ母の縁なのか、『三』の字を姓に持つ三枝家の綾子に惹かれたという。これもあえて言うなら同文字の縁と云う事であろう。

綾子の母親は、大隈が『是非娘と結婚したい』と言うので承知はしたものの30歳で子持ちの重信に対して好印象は持っていなかったようだ。

三枝綾子(3・8・14・3) 運気10点。凶名。
大隈重信(3・17・9・9) 運気10点。凶名。
それぞれ一人身の立場で観ると、二人の運は似た者同士の10点であり、
全く同じレベルの運気を物語る。・・二へ続く




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タイガー・ウッズ・三・

2006年5月3日前立腺癌の為、74歳で他界した父親は、日本流に言えば3回忌を1年過ぎたこの時期にまさか、息子が、金の使い方、夫として、社会人としての生き方に大きくつまずいてしまった。

まかり間違えば死亡事故につながる飲酒の自損事故を起し、女性がらみの夫婦喧嘩で世界中を騒がすとは思ってもみなかった筈だ。ホールインワンはゴルフ場だけで狙うべきだった。

既に15名ぐらいの女性がウッズとの関係を名乗り出たから世間は

『人の不幸は密の味』・・・的に見る者が多いのだろうが、人の生き様は、姓名画数に支配され、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットに関係なく,その通りの人生を余儀なくされることをタイガー・ウッズというスーパースターを通じて、彼さえもその例外ではない事を我々に教えてくれている。

◎タイガー・ウッズの戦跡

マスターズ・全米オープン・全英オープン・全米プロゴルフのいわゆる
世界メジャー大会の優勝回数:

18回・・ジャック・二クラス・・・・1位
14回・・タイガー・ウッズ・・・・・2位
11回・・ウォルター・へーゲン・・・3位
 9回・・ベン・ホーガン・・・・・・4位
 9回・・ゲーリー・プレーヤー・・・4位タイ
 8回・・トム・ワトソン・・・・・・6位
 7回・・ハリー・バートン・・・・・7位
 7回・・ボビー・ジョーンズ・・・・7位タイ
 7回・・ジーン・サラゼン・・・・・7位タイ
 7回・・サム・スニード・・・・・・7位タイ
 7回・・アーノルド・パーマー・・・7位タイ

確かに見事な戦績を上げている。今現役はタイガー・ウッズとトム・ワトソンだけなので、将来ウッズは1位に成る可能性を秘めていたが、本気で生活態度を改め、自身を戒め、鍛え直さないと、二クラスを越える事は到底出来ないだろう。・・・

ついでに予告すれば、彼の運気はピークを過ぎており、今後は次第弱りになって行く筈だ。女性がお産という命がけの活動を強いられて居る時に、原因者のウッズが他の女性にウツツを抜かしているなどとは人間として落第もいいところである。世界一ゴルフが上手く金が唸るほど有るからといって、何をやっても許される筈も、道理もないのである。

今回の様に特に自分の奥さんの恨みを買うのが一番良くない。恨みに潰される事があり得るのである。お産が終わったらいいのか?という声もその辺から聞こえて来る感があるが、『奥様だけを大事にしなさい』ということである。これが家庭円満の基本中の基本だからである。(完)・・・2009年12月17日・記





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