陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

『マリア様がみてる─フレーム オブ マインド─』(後)

2008-03-08 | 感想・二次創作──マリア様がみてる

さて、他の話については。
江利子と令がスールになった馴れ初めを描いた「黄色い糸」や、二年目のバレンタイン戦でも健在ぶりをみせた田沼ちさとが顔出しする「三つ葉のクローバー」など、名の知れた脇キャラの裏話もおもしろかったのですが。私がいちばん心に残ったのが、「四月のデジャブ」と「不器用姫」。
後者は自分の一方通行な想い寄せが仇となって嫌われてしまうお話。弱者をすくう正義感も一歩まちがえば自己満足な英雄きどり。なんとなく身につまされる思いがするのですが、最後に蔦子さんの「悪い顔じゃないわ」という慰め言葉が、その主人公の苦い気持ちを救っています。蔦子さんは、きっとそのカメラにいろんな少女たちの感情をおさめてきたのでしょうね。緒雪先生は、過去にも姉妹の契りが破綻したお話を書かれていましたが、メインの薔薇様がたが華々しく咲き誇る裏で、こうした闇咲きの花々の涙を描くというのもおもしろい試み。早くは『黄薔薇革命』において出されていたロザリオ授受への反問は、メインキャラにおいて繰り出したとて、けっきょくは予定調和な帰結をみなければなりません。ファンの期待を裏切らないがための人気作家としての重圧をはねのけて、斬新なストーリー構成をもちこむために、このかぎりなく無名に近い少女たちの存在は欠かせないものです。

前者は、一番手に登場したストーリーなのですが、まさに最初を飾るにふさわしいものでした。はっきりいいましてこの物語読むだけでも、この巻は買いです!入学式の日に交通事故に遭い、十箇月間の昏睡状態から目覚めて一年後に復学した少女、鈴本いちご。彼女は、クラスメイトの鈴木二葉にほのかな甘い想いをいだくのですが…。記憶の底にひそんでいた想い人の面影というミステリー、いきなり窮地におちいらせたかとみえて、最後はその謎が解け、しかもハッピーエンドに結ばれる話運び。いやぁ、今野先生さすが!とうなりたくなりました。このエピソードは、最初読んだときは、泣いてしました。『マリみて』で感動したのは、ひさしぶりですね。

さて、最後にそんな数々の姉妹たちの物語をカメラにおさめてきた蔦子さん自体が、被写体にされてしまったのだというオチでした。笙子ちゃんと育む交情の進展も楽しみですね。武嶋蔦子という人物は、古くからのレギュラーキャラでありながら、このシリーズの基幹となる姉妹(スール)制度にしばられていない人物であり、なおかつ冷静な観察者でもあります。ひとりの相手と親密な関係になると,公平な目線でシャッターを切れなくなるからと、ロザリオシステムを拒んでいるのですね。彼女は、水野蓉子さまや、蟹名 静嬢とおなじ、黒髪セミロングのクールビューティ、現在の『マリみて』唯一の良心であり、知性であるといっても過言ではありません。が、そんな彼女だからこそ、傍観者的立場でなく、当事者としてロザリオ授受と自身の撮影業との板ばさみになって思い悩むようなエピソードが読んでみたかったり。祐巳・瞳子が片付きましたので、残る妹問題は由乃・奈々組のみですが、正直いいましてもうできあがっちゃってます状態なので、おもしろくないです。

最近作ではキャラクター数が多すぎてさばききれないのか、それともエピソードがバレンタインや学園行事などお決まりすぎてやや斬新さに欠けてしまったのか。あまりに伸ばしすぎた妹問題のせいか、ファン離れが懸念されているのではないかと思われる『マリみて』シリーズ。しかし、私としては、すでにアニメやラジオドラマで味つけがなされて、キャラクターが独り歩きしている感があるなかで、この原作小説だけは、小説家ほんらいのメッセージがこめられたものではないかと考えます。
まあ、いくらシリーズを伸ばし伸ばしにしたとはいえ、誰も殺さなかったのは正解ですね。祥子の家庭問題とか、瞳子の出生のひみつとか、東海テレビ昼メロドラマ志向をとりいれてレールをおおきく逸脱した気はしますけれど、さすがに学園ドラマなのでそれぐらいしか起爆剤がないのでしょう。まあ死なせたくとも、ファンが恐いからそうしないだけでしょうけれど。

とにもかくにも、平素の薔薇様ファミリーたちとは視点の投げ場をかえてみせた、小さいけれど可憐に咲く少女たちの掌編です。生粋のファンならもう既読のはずですが、興味を持たれた方はぜひともお手にとってみてはいかがでしょう。ライトノベルであるがゆえの軽さは否めませんけれど、そこに書いてある少女たちの純情、そしてあからさまな好意であり憎悪というものは、十代の多感なる年頃を経由してきた女性にとりましては頷くところおおきいもの。『マリみて』こそは、爆発的に男性に支持されている現代百合文化の王道でありますが、ほんらいこれが訴えるものは、少女期の悩みや恋には昇華できない淡いけれど強い想い。ときおりかいまみえる教訓的な発言からも、この作品が少女たちに読ませたいものであることが伺えます。
ひんぱんに少女の暗い内面をえぐり出してみせているのも、細川可南子に「自分を名前でよび、男に媚を売る女はきらい」と言わせしめているのも、なによりそこいらに流布する同人誌的な甘っちょろい展開(すべての同人誌がそうだといってるわけではありませんが)をあえてみせずにいるのも。商品化された少女像に抵抗する、閨秀作家としての意気込み、そのように感じています。
とはいえ、このシリーズがふしぎなことに幅広い年代から愛されているという事はおそらく疑いえない事実でしょう。アマゾンのレヴューによれば、ご年輩の紳士が感銘して手にとられたとも語っていらっしゃいます。疑似姉妹制度というのは、谷崎や三島、森鴎外の文学でもみられたように、性別をこえても男子校でも存在していたのであり、かつプラトニック・ラヴというのは、古代の哲学者が称揚していたものです。そして、曲解をおそれずにいえば、この『マリみて』シリーズが訴えていることは、制度や利害にしばられない絆の尊さを描くことにあるのです。スール制度を否定し、それを結べないことに傷つく少女たちの姿をあらわすのは、そうした惰性的な愛情関係へのアンチテーゼといえましょう。


このように何巻にもわたってのいりくんだ話を編み上げていくのも、長期連載が保証されていなければけっしてなしえないことであり。妹問題にカタがつくまでの中だるみはあったかもしれませんが、総じてこの作品を世に送り出し,数々の後続を生ませたことは特筆に値するでしょう。
ですので、今後ともこのシリーズが継続し、われわれファンを楽しませてくださることを願うばかりです。(といいますか、継続して親しんでいる百合作品が現在これぐらいしかありませんし(苦笑))

今回とくにこれといった百合どころな台詞はなかったのですが。この巻でおもしろかったのは、蔦子さんのこの言葉。
「芸術は、順位がつけられないものでしょ?誰かに良い悪いを決めてもらう物でもない」
(本編十三頁)


正鵠を射ている発言です。真剣勝負をいどむ相手は他ならぬ自分自身ということ。こういう精神論はよく出回っている人生ガイド本で読むとうさんくさく聞こえてしまうのですが、二次元世界の住人の口から通してみるとまことにここちよく響きます。現実の人間の言葉がいかにあてにならないか、を身にしみて知った者としては。



ところで、可南子のエピソードで思いつきましたけれど。いま、某所で流行っている神無月EDパロですが、『ウテナ』とか『なのは』とか、他の百合作品ありますのに、『マリみて』ってなかったですよね?(〇八年二月末日時点での把握)私は、祥子さまと祐巳、志摩子さんと乃梨子がぜひとも観てみたいです!!




この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『マリア様がみてる─フレーム... | TOP | サンキューアート─ありがとう... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 感想・二次創作──マリア様がみてる