陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

日本映画「変身」

2009-05-03 | 映画──社会派・青春・恋愛



カフカの名作「変身」は、一家の生計を担うきまじめな青年がある朝めざめると巨大なムカデに姿をかえていたという、ファンタジー。醜い姿になりこそすれ、彼の家族をたいせつに想う気持ちはおなじなのだが、悲しいことに、家族には理解されえない。暮らしが貧窮し、お荷物扱いされる青年ならぬムカデ。最後は父親に癇癪で投げつけられたりんごに、潰されて息絶えてしまう。
西洋人ならなじみのデカルト的な心身二元論は、日本人(いや、東洋人一般というべきなのか)には通じないように思われる。たとえば、しばしば耳にする「これからは身を入れて働きます」という場合の「身」というのは、気持ちや心根といったいみあい。けっして、肉体のことをいっているわけではない。
だから、しばしば「変身」というときも、外見が変わるのみならず、その中身つまり精神が変化する、という含みがもたれてくる。
この映画のタイトル「変身」もそんな意味あい。正確を期すならば「変心」が正しかろう。つまりグレゴール・ザムザとは逆である。


成瀬純一(玉木宏)は、趣味で絵を描くのが好きな、気だての優しい工員。画材屋で働く恵(蒼井優)という恋人がいる。
ある事件に巻き込まれ、意識不明状態から生還した彼は、しかし、退院後に以前の人格をうしない、凶暴な性格があらわれはじめる。恵はかわらない愛情を示してくれるが、かつての記憶を思い出せない純一は苦悩する。彼の変化のひみつには、自分が関与した事件に原因があった。

彼のなかに住みついた新しい人格は誰なのか?その謎がとけるまではスリルがあったが、その後はすこしペースダウンな印象。とはいえ、最近観た邦画にしてはめずらしく楽しめたほうかも。

玉木宏の二面性の演技は見ものだが、ミステリーなのでやはり無駄に人が死んでいってしまう。
あと、あの不動産屋になにも仕返しをしなかったのは意外。復讐魔としては終わりたくなかったからか。殺された医者のほうが可哀想だったようにも思える。

恋人まで手をかけようとしたが、一時的に「純一」のこころを取り戻した彼が、最後におこなう選択…だいたいおわかりになるかと。
でも、それが無償の愛で究極のラブストーリーかといわれたら、そうなのだろうか?
つまり、愛する人間のために死をも辞さないという覚悟なのだけれども。

そして、ここで気づくのだが。タイトルの「変身」というのは、青年が純粋に恋人への愛を一にしておくため、永遠にしておくために、姿をすてる=魂として生きる、という意味付けだったのか、と。

原作は東野圭吾の九一年発表の小説。
現代作家の小説はほとんど読んだことがないので、名前だけ知っている作家。この映画、原作とすこし設定が違うらしい。


ところで、私は人間のこころが、脳だけにあるのではないような気がしている。
感情や記憶をつかさどるのはもちろん脳であるに違いないのですが、電極を繋ぎかえるみたいに、神経を繋ぎ変えていけばひとの行動が制御できるのか?といえば、そうでもないような。
科学で精神が治療できるのならば、どうして昨今心神喪失者は増えつづけているだろうか?

さもなければ脳が死んだまま横たわる人間が、こちらの呼びかけで手を握り返すなどということは起こらない。それは疲れて妄想がしかけた幸福な勘違いだったのだろうか。今となってはさだかではない。


(〇九年五月二日)



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