陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

映画「苺とチョコレート」

2011-04-15 | 映画──社会派・青春・恋愛
ハリウッドの犯罪映画だとゲイがギャグのように扱われることが多いのですが、1993年のキューバ・メキシコ・スペインの合作映画「苺とチョコレート」は、そんなマイノリティーに深刻に向き合おうとした作品。
しかも、キューバの社会情勢をもちこんだ政治諷刺の映画でもあります。視聴後感として個人的に否定的なのですが、いろいろ考えさせるものがあったという意味では収穫のあった一作でした。

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恋人にふられてしょぼくれていた大学生ダビドは、ゲイの芸術家ディエゴに声をかけられる。
最初は煙たがっていたダビドだが、ディエゴのもつ自由を愛する気風、高い教養に感化されて親しく付き合いはじめる。友人とともに共産主義に傾倒していたダビドにとって、芸術とプロパガンダは別ものだと語るディエゴの存在は新鮮だった。だが、ディエゴの言動は常に監視されている。アパートの隣の住人ナンシーもじつはその見張り役だったが、自殺未遂した彼女を助けたところから、男女三人の奇妙な友情関係が生まれてしまう。

表題の「苺」と「チョコレート」は相対するふたつのシンボル。
チョコレートは「男性的なイメージ。キューバにおいては、ビターで男性が食べても恥ずかしくないお菓子」とのこと。
いっぽう苺は女性や子どもの象徴で、キューバで男性がこれを食べているとゲイ扱いされてしまうもの。
ダビドとディエゴが出逢ったカフェで、ふたりが食べていたのがこのふたつ。

そして、この国では苺を食べるゲイすなわち反体制分子とされているので、ディエゴは社会的に抑圧されているのです。
ふしぎなバランスを保っていた男女三人の関係は、ナンシーがダビドと恋仲になったこと、そしてダビドの友人がディエゴを罵倒したことで崩れていく。
セクシャリティーによっても、思想によっても偏見に苦しめられているディエゴは、ついに国を離れる決心をします。

同性愛を扱っているわりには、むだに男女の関係する場面があったりして、あまりなじめない。そして芸術家きどりのディエゴの「レンガ積みのような仕事は嫌で自分に向いた生き方ができないから出国する」という言いぶりにはすこし気色ばんでしまいますね。たしかに芸術家には同性愛者が多いと思いますが、虐待された反動からか、自分は特別なんだと思い込むような輩に、マイノリティーな愛を語ってほしくないわけです。

このディエゴのいかにもカマっぽい立ち振る舞いも、いかにも型にはまった感じで、単に刺激的な材のためにテーマに選んだだけという気がしますね。
そして意味もなく、日本の着物を着せているのも気になってしまう。しかも着せ方がだらしない。日本人がタキシード着てるのも西洋人からみたらおかしく見えるのだろうけど。

監督は、ラテンアメリカ映画界の巨匠トマス・グティエレス・アレア。

プロパガンダを標榜しないというよりは、共産主義を否定する個人で完結した美意識を志向する点においてディエゴの立場はどちらかといえば、自由主義といえるでしょう。しかし、東西の対立を深めた60年代、自由主義国が共産主義を責め立てたことで疲弊した文化もすくなからずあったはずです。自由主義、それは裏を返せば人生に勝者と敗者を生み、格差をつくるという社会の構造は、芸術家にも格差を生む。60-70年代の資本主義大国アメリカが旺盛な経済発展を遂げるいっぽうで、その国の美術家たちこそが、マーケティズムに反する作品制作を行おうとしてもがいてきたことも事実。芸術というのはそれを製作した事実のみならず、その作が生まれたことがその時代にとってどんな意味があるかを検証されてこそ価値を持つものなのです。そもそも、市場の競争原理がなく実利とは別次元の価値を求めようとする芸術や哲学といった無駄なものに携わること自体、共産主義に近いような気もします。ディエゴの望むプロパガンダと切り離された芸術というのは、もやは時代の緊張した空気感を孕まないただの美の私製品、いうなれば、日曜画家たちのスケッチブックか庭先の演奏会、講堂のお芝居のようなものでしかないのでは。

カウンターカルチャーの一領域としてゲイというのが現代美術を語る際のキーワードになっていたりもするのでしょうけれど、作家の性癖から作品の価値を説明してほしくはない。人を愛するのに障害があるマイノリティーで社会から締め出された人が、その拒絶を糧にして一介の労働者を超えた芸術家という地位を得て満足してしまう、というのは、その障害を乗り越えてすらいないんじゃないか、とも思います。誰にも非難されえない特殊な表現の領域に逃げこんでしまうマイノリティよりも、マイノリティであることを周囲に受容されてふつうの労働者として暮らしている物語を観るほうが安心できます。なぜならば、芸術家を名乗る人の数よりも、潜在的なセクシャリマイノリティーの数のほうがはるかに多いだろうから。

すでに世界的な潮流として共産主義が惨めな敗北を喫しつつあるいま、この映画はキューバの緊迫した空気感を伝えるものではありますが、たとえば「善き人のためのソナタ」のように社会に抑圧された芸術家の哀しみだけにスポットを当てればいいものを、そこに自由恋愛に溺れる同性愛者たちという要素まで持ちこんだことで、焦点がぼやけているような気がするのですよね。なので、映画やドラマでしばしばゲイがドラマの潤滑油(たとえば、場末のスナックを経営する、人生を悟ったかのようなゲイママみたいな)にしか役割がない理由もわかるような気がします。芸術家たるものの生き様を描くのすら苦労するのに、そこに同性愛者というもうひとつの足枷を持ちこんだ意義がなく、国に拒まれて追放されたものの僻みで終わってしまっているラストでした。

祖国を離れたディエゴは、たとえばアートと自由とデモクラシーの大国アメリカに渡ったとしても成功するでしょうか。苺を誰彼はばかることなく食せることはできようとも、今度は人種差別という壁が彼には立ちはだかるだけなのです。彼が厭う、レンガ積みのような単純作業しか、ヒスパニック系の移民には残されていません。ひと昔まえのレッドパージ吹き荒れるかの国ならば、共産主義国の亡命者は反共のマスコットして祀りあげられてしまうかもしれませんね。
だとすれば、キューバの土の風を感じつつ汗水流して働きながら、剣ではない表現力にて政治にもの申す生き方のほうがよほど偉大だといえるのです。芸術活動の基幹をなすアイデンティティを放り出すことは難しいのです。

苺とチョコレート(1993) - goo 映画

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