本題の前に。
(新)爺砲弾(時事放談)goo版の毛沢山さんが、
胡同トイレ物語にトイレの現物写真が少ないことを遺憾として、
豊富なトイレ写真のラインナップを挙げてくださいました。
トイレの世界にどっぷりと浸かるべく、ぜひご参照くださいませ。
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さて。
糞夫らはどういう生態の人々だったのか。
出身は、山東と河北の境界辺りの臨清、夏津、楽陵あたりの人が多かった。
飢饉で食べられなくなると、北京に比較的近いために、都会に出てきて何とか命をつなごうと生きる道を探しにくる。
が、結局わずかでも入り込める隙間のある職業といえば、糞業しかなかった。
逆にいえば、山東人であれば知り合いのつてでこの業界に入り込むことができたということでもある。
「糞業しか入れない」ともいえるが、「糞業なら確実に入り込める」という言い方もある。
インドのカースト制も実はこういうことだったのではないだろうか。
カーストによって職業が決まっていて、人材の流動性がないというのは差別という言い方もある。
しかし生産性に対して、かつかつにまで人口が飽和している社会で、逆にいえばその職業の一族による独占でもある。
せめてその業種の既得権利だけは子孫に残しておく、という・・・。
今でも北京のゴミ回収は河南人が独占しており、「釣魚台」のコックには山東人しか採用しない、などの例を挙げることができる。
・・・・また話題がそれた。糞夫に戻ろう。
糞夫にもピンからキリまでのランクがある。
1、何本も糞道を持ち、自前の糞場(加工場)もあり、下に糞夫を雇い、集団化する。
2、自前の糞道があるが、糞場はなく、糞場に売却するか、直接農民に売りに行く。
3、自前の糞道がなく、雇われて月給を受け取る。
4、雇われてもおらず、縄張りもなく、他人の縄張りの糞を盗み取るか、道端に落ちているロバ、馬の糞を拾う。「跑海(パオハイ、苦海を走り回るというほどのニュアンスか)」と呼ぶ。
民国時代になってから、居住制限がなくなり(旗人しか住めないという)、
北京城内はさらに空前の繁栄を経験する。
人口の急激な増加に伴い、糞業も急成長を遂げ、
糞夫を街かどで見かけることが多くなると、次第にその言動が人々の話題に上るようになる。
民国も初期の頃は、生活の糧を提供してくれる汲み取り先の家庭に感謝の念を忘れず、
季節の節目ごとに挨拶に茶葉を贈ったり、
山東に里帰りしたら、特産品のじゃがいもでんぷんの春雨を土産に渡したりしたものである。
この頃は「自営業」糞夫が中心、盗っ人の「[足包]海」(権限を持たない他人の縄張りから糞を盗む糞夫)もそんなに多くはなかった。
1930年代にはまだ1人あたりの糞道の所有数は、多くても3-4本、平均は1,55本程度だったというが、
しだいに吸収合併の傾向が進み、独占状態が起きる。
独占状態がさらに進むと、ついには「糞」業界を独占するほどの実力を持った糞道主が登場、
人々から「糞覇(フェンバー、糞の覇者!)」と呼ばれ、恐れられた。
糞道主らに雇われた従業員としての糞夫らは、食べ物と寝る場所だけは保証されたが、
給料を踏み倒されることはよくあったようだ。
給料で生活を満たすことができないため、彼らはしだいに汲み取り先の一般家庭から各種名目の金銭を求めるようになる。
春節の帰省前には「新年のご祝儀」、中秋の名月になれば「月見のご祝儀」、雨が降った、雪が降ったと体を温める「酒代」と何かにつけておねだりする。
それを気持ちよく渡さず、機嫌を損ねると、如何なる有力者、大家でも面倒を蒙った。
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写真: 恭親王府。2005年。
にほんブログ村
あごーー! 「北京情報」ランキング、4位になりました。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
(新)爺砲弾(時事放談)goo版の毛沢山さんが、
胡同トイレ物語にトイレの現物写真が少ないことを遺憾として、
豊富なトイレ写真のラインナップを挙げてくださいました。
トイレの世界にどっぷりと浸かるべく、ぜひご参照くださいませ。
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さて。
糞夫らはどういう生態の人々だったのか。
出身は、山東と河北の境界辺りの臨清、夏津、楽陵あたりの人が多かった。
飢饉で食べられなくなると、北京に比較的近いために、都会に出てきて何とか命をつなごうと生きる道を探しにくる。
が、結局わずかでも入り込める隙間のある職業といえば、糞業しかなかった。
逆にいえば、山東人であれば知り合いのつてでこの業界に入り込むことができたということでもある。
「糞業しか入れない」ともいえるが、「糞業なら確実に入り込める」という言い方もある。
インドのカースト制も実はこういうことだったのではないだろうか。
カーストによって職業が決まっていて、人材の流動性がないというのは差別という言い方もある。
しかし生産性に対して、かつかつにまで人口が飽和している社会で、逆にいえばその職業の一族による独占でもある。
せめてその業種の既得権利だけは子孫に残しておく、という・・・。
今でも北京のゴミ回収は河南人が独占しており、「釣魚台」のコックには山東人しか採用しない、などの例を挙げることができる。
・・・・また話題がそれた。糞夫に戻ろう。
糞夫にもピンからキリまでのランクがある。
1、何本も糞道を持ち、自前の糞場(加工場)もあり、下に糞夫を雇い、集団化する。
2、自前の糞道があるが、糞場はなく、糞場に売却するか、直接農民に売りに行く。
3、自前の糞道がなく、雇われて月給を受け取る。
4、雇われてもおらず、縄張りもなく、他人の縄張りの糞を盗み取るか、道端に落ちているロバ、馬の糞を拾う。「跑海(パオハイ、苦海を走り回るというほどのニュアンスか)」と呼ぶ。
民国時代になってから、居住制限がなくなり(旗人しか住めないという)、
北京城内はさらに空前の繁栄を経験する。
人口の急激な増加に伴い、糞業も急成長を遂げ、
糞夫を街かどで見かけることが多くなると、次第にその言動が人々の話題に上るようになる。
民国も初期の頃は、生活の糧を提供してくれる汲み取り先の家庭に感謝の念を忘れず、
季節の節目ごとに挨拶に茶葉を贈ったり、
山東に里帰りしたら、特産品のじゃがいもでんぷんの春雨を土産に渡したりしたものである。
この頃は「自営業」糞夫が中心、盗っ人の「[足包]海」(権限を持たない他人の縄張りから糞を盗む糞夫)もそんなに多くはなかった。
1930年代にはまだ1人あたりの糞道の所有数は、多くても3-4本、平均は1,55本程度だったというが、
しだいに吸収合併の傾向が進み、独占状態が起きる。
独占状態がさらに進むと、ついには「糞」業界を独占するほどの実力を持った糞道主が登場、
人々から「糞覇(フェンバー、糞の覇者!)」と呼ばれ、恐れられた。
糞道主らに雇われた従業員としての糞夫らは、食べ物と寝る場所だけは保証されたが、
給料を踏み倒されることはよくあったようだ。
給料で生活を満たすことができないため、彼らはしだいに汲み取り先の一般家庭から各種名目の金銭を求めるようになる。
春節の帰省前には「新年のご祝儀」、中秋の名月になれば「月見のご祝儀」、雨が降った、雪が降ったと体を温める「酒代」と何かにつけておねだりする。
それを気持ちよく渡さず、機嫌を損ねると、如何なる有力者、大家でも面倒を蒙った。
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写真: 恭親王府。2005年。
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あごーー! 「北京情報」ランキング、4位になりました。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
facebookのページ、中国では開けず、拝見できなくて残念です。。
お爺様もお使いになられていたというのは、
おまるでしょうか?
逆に日本のことはあまり知らないので、
また教えてください。
いろいろ参考になります。
今、トライしたのですが、ブログ、中国では開けないようです。。残念です。。