かつこのテラス

日々の思い、時には物語を綴ります!

姜 尚中さん講演③~親鸞時代背景~飢餓・飢饉の時代

2011-05-31 13:59:09 | Weblog
「平安京から武家社会にかけて、人肉を食らうほどの飢餓、飢饉がありました。」


以下筆者補足ー親鸞の時代背景・飢餓飢饉 文献よりー

親鸞は鎌倉初期の僧1173年~1262年。
この時代、終末論的な末法思想が広まった。
貴族社会から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こった。また、戦乱・飢饉・地震により、洛中も荒廃した。

保元元年(1156年)保元の乱
平治元年(1159年)平治の乱
治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)治承・寿永の乱
治承5年/養和元年(1181年)養和の飢饉。

源氏・平氏による争乱期(治承・寿永の乱)の最中に発生した飢饉で、『源平盛衰記』や『方丈記』など当時の状況を詳細に記す史料も多い。

方丈記では、市中に遺体があふれていたことが記されている。
旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷は様々な加持祈祷を試みたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲った。仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、養和二年四月・五月の左京だけで、42300余人に達したという。

また、元暦二年(1185年)七月九日、大きな地震が都を襲った(文治京都地震)。
山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ちた。余震は三ヶ月にもわたって続いたことが、方丈記に記されている。

(鴨長明『方丈記』)
又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。
そのさま、世の常ならず。
山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。
土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。
渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。
都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。
或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。
地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。
家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。
羽なければ、空をも飛ぶべからず。
竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。

つづく

姜 尚中さん講演②~光があかるければ明るいほど、闇は暗い

2011-05-30 16:33:04 | Weblog
「東京の明るさは、福島なしにはあり得なかった。東北からの出稼ぎや日雇いの人が、東京を支えていました。今までそういう構図が見えなかった。自分自身も、その暮らしに馴らされ、当たり前のこととしてきました。
大変な地雷の上に私たちの繁栄が成り立っていたことにあらためて気付かされ、東京が福島によって成り立っていたことを思い知らされました。

番組の関係で、南相馬に入りました。

神戸は都市型の震災でしたが、今回は、地震に加えて津波の影響で、これほど広域で、大損害を与えるものかということを目の当たりにしました。人間の生死が細かく分かれていました。災害の地は、想像を絶するほどに広く、しかも1メートル違うだけで生と死の違いがありました。その上に原発事故が重なり、メルトダウンを起こした原発の再臨界を今ぎりぎり食いとめている状況です。

避難所の人々の生活は、プライバシーもなく、人間が我慢できる許容範囲をとうに超えています。この上「がんばりなさい」という言葉はかけられません。
現地で感じたのは、TVの映像には伝えられない重い空気、生きとし生けるものの生活の臭い、強い塩の香り、小さな微生物から日々の暮らしを営んでいた人々の亡骸の臭い、2800t~3000tの瓦礫、そして、ひょっとすると、自分の足下にもそうした亡骸があるかもしれないということでした。
死はこんなに人間に近いものなのか。私たちは、できる限り健康でいたいと願い、暗がりを忘れて暮らしているけれど、死はいかんともしがたく近くにある。」


つづく

姜 尚中さんが講演~本山仏光寺の大遠忌法要にて

2011-05-29 22:44:52 | Weblog
今年は、親鸞聖人没後750年。本山仏光寺で開催された「大遠忌」法要で、27日(金)、姜 尚中氏が講演された。
降りしきる雨のなか、吹き抜けの本堂は満席で、演壇に立つ姜 尚中さんを私の席からは、ほとんど見ることはできなかった。直径1メートルはあろうかと思われる柱と、撮影機の隙間から、姜さんの立ち姿を垣間見るだけで、あとは、落ち着いたしかし熱を込めて語る声を追いかけて、私はひたすらペンを動かし続けた。

以下、書き取った文字をたどって綴る。姜さんの語りそっくりそのままではないことをお断りしなくてはならないが、その心を精一杯にくみ取って綴ることで、お許しいただきたい。


姜 尚中氏の講演

「震災以降、関西に比べて東京は暗い。
京都に降り立って、まずそれを感じました。
暗がりの東京は、60年から70年代にはまだありました。当時は、熊本の駅裏にも似た暗がりが東京のあちこちにいっぱいありました。

熊本から上京してきたころ、人は忙しく、東京中が洗濯機のようにぐるぐる回っているようでした。華やかさと同時に暗がりにネオンが瞬き、光と影が交錯していました。東京は、故郷を捨てた人の寄り合い所帯でした。80年代に資産を溜め込み、原宿などもできて、地下街も明々と光が点りました。東京には、暗がりがありませんでした。

3月11日を境に、東京に暗がりができたのは大きな変化です。そして、原発という目に見えない災害におののいている、こんなことは世界史上なかったことです。

故郷を捨てることで新しいチャンスを得る。かたや上京して失意のどん底にある人、浮上できない人々のたまり場が暗がりにはありました。
光を求め、不夜城のように、とにかく明るく、高く、その限りにおいて、人は死や不幸を忘れていました。
光があかるければ明るいほど、闇は暗い。」

つづく





生きた学問とは…「難しいことをやさしく語る」見本のような講演

2011-05-16 20:12:41 | Weblog
この間、安斎先生の講演を聴き、講演録の聞き取り・まとめをする機会に幾たびか恵まれた。
安斎先生は、震災以降、放射線防護学が専門の科学者として、マスコミからの取材、各種団体主催の講演会・福島現地調査などに奔走。常に被害を受けて苦労している方たちとともにある姿勢は、「生きた学問とは…」に対する答えをも指し示していると感ずる。

「むずかしいことをやさしく…」とは、亡くなった劇作家・井上ひさしさんの言葉だが、安斎講演のなかの原発事故の状況解説などは、素人の私たちに向けて、まさに「難しいことをやさしく」語る見本のようだ。

一部を紹介すると

「原子炉というのは、とても嫌なことに、なかで発電する時に原子核分裂反応というのが起こります。ウランとかプルトニウムを中性子で分裂させると、そのとき強烈なエネルギーがでます。
中性子は核分裂をおこす仲立ちになります。二、三こぼれ落ちた中性子を別のウランやプルトニウムにあてるとまた核分裂が起き、連鎖反応が起こる。

あの地震がおこったときに、原子炉にはこの連鎖反応を止めるために、下からにゅっと制御棒というのがはいりました。これは中性子を吸収する係なんです。
ホウ素とかカドミウムとかが入ってて、連鎖反応は止まったんですよね。

それは予定通りのことですが、原発というのはやっかいなことに自転車と同じで、止まってもそのままにしておくと、倒れちゃう、というわけです。
要するに、燃料のなかに核分裂でできた放射性物質がやたらに溜まっているので、放っておくと、自分の放射能の熱で溶けちゃうんですよね。
だから止まったあとも冷やし続けなくちゃいけない、というのが宿命なんです」



隠すな、嘘つくな、過小評価するな!

2011-05-15 21:49:01 | Weblog
震災直後の3月13日、K9MP事務局会議が開催された。
主なテーマは、今秋来日予定のイラク帰還米兵アッシュキャラバン企画であったが、それに先だって、福島原発事故報道から考えられる状況について、編集統括・柴野徹夫さんから話を聞くことになった。
柴野さんは、70~80年代に福島および福井の原発誘致地域を取材、その地域の実態を克明にルポルタージュ(「原発のある風景」未来社刊)して歩いた経験があり、原発問題に詳しいジャーリストである。
現在、K9MP共同代表の安斎育郎(放射線防護学)先生からは、この時期、原子力専門家としての教えをたびたび請うたとのことであった。安斎先生は当時、東京大学医学部の助手。東京電力スパイによる監視やアカハラ攻撃に曝されながらも、政府の原発推進に「待った」をかける発言をし続けていた。

柴野さんからは、この日、メルトダウンがいかなるものかの解説に加えて、もっとも重大でかつ懸念される危機として、福島原発一号機から三号機までメルトダウンの可能性が排除できないことが語られた。

事故から二ヶ月近くが経過した一昨日、「一号機で炉心溶融が起きていた」と東京電力が公表。さらに「16時間後には、すでに燃料棒が溶融していた」ことも本日伝えられた。
危機管理の鉄則として、安斎育郎氏が強調する「最悪に備えて最善をつくせ」「隠すな、嘘つくな、過小評価するな」このどれもが当てはまる後手後手の対応。

被爆国であり、地震多発国の日本に、54基もの原発を林立させ、しかも「安全神話」の信憑性を持たせるため、大規模災害への危機管理を排除し続けてきた電力会社、推進してきた歴代政府に怒りを覚える。

最悪の事態を想定した訓練~塩釜災害拠点病院

2011-05-11 16:28:26 | Weblog
宮城県塩釜市の坂総合病院。
NHKや大手新聞では取りあげられることはなかったが、震災当初から現地の基幹病院として機能していたことは、後日、自らも被災しながら仮眠不休で医療にあたった職員の方から聞いた。

宮城県へはまだ連絡不能だった3月15日。
TBCテレビ「みのもんた朝ズバ」生放送で坂総合病院の今田隆一院長が取材を受け、地震による病院の状況が、いち早く伝えられた。私はといえば、まだテレビを正視できなかったころで、この番組も友人からの電話で知ることとなった。
院長が穏やかに、でも緊迫感をもって窮状を訴えられた。
「診療、生活基盤ともに破壊されているのが大きな問題です。現在、食糧、水、ガソリンが不足しています。また、間もなく患者さんのための酸素が無くなるのが大きな不安です」

災害拠点病院にも認定されている坂総合病院は、日ごろから大規模災害を想定した訓練を行っていた。
震災発生直後からマニュアルに沿って立ち上げられた対策本部の指示で、トリアージ診療(フランス語Triage選別・優先割り当ての意。大災害によって多数の被災者が発生した際に、多くの傷病者に最善の医療を施すために、重症度や緊急度にそって分別し、搬送順位あるいは治療順位を決定する行為)を開始。
次々に運ばれてくる患者さんの待機室として、検査室があてられた。3月11日当日は、ずぶ濡れで低体温となった患者さんで一階はあふれたとのこと。
高台に建てられた病院は、地震・津波による建物の倒壊は無く、井戸水や自家発電装置を備えていたことでライフラインが維持されていた。医薬品の在庫、食糧の在庫も抱えて、医療活動は、職員および全国からの支援で支えられた。
最悪の事態を想定しての対策が普段から定期的にとられ、機能麻痺におちいらなかったことを、ホームページ上のニュースや、後日無事を知らせてきた職員の方からの生の声で聞くことができた。「最悪に備えて、最善を尽くす」という危機管理の鉄則が、被災最前線で、しかも被災当事者たちの手で実行されていたことが伝えられた。

「朝ズバ」放送の翌日、さっそく酸素の支援が隣県から得られた旨も、ニュースで報告されていた。



寄って立つ報道のあり方

2011-05-10 13:58:16 | Weblog
東北各県で被災された方が、震災当時テレビが映らなくて幸いだった旨、後日新聞へ寄稿されているのを複数目にした。

「避難所で聞くラジオの抑制された声に、どれだけ落ち着きを取り戻したかしれない。後日テレビが復旧したときに見た画面に映る惨状を、あのとき、直後に目にしていたら、とても耐えられなかっただろう。帰る家をなくし、身近な人の生死も定かでなかったときに」という風なことを書いておられた。

地元に依拠し、自らも被災しながら番組をつくるラジオ局の扱いに比して、テレビは取材して引き上げていく東京目線だとも。
大手新聞もしかり。紙面をでかでかと飾る大津波がなぎ倒した廃墟の写真、見開きに白抜きの大ゴチック体。あのセンセーショナルな扱いを見ていられたのは、当事者から距離のある人だけだったに違いない。私自身も、この間、すっかりラジオ党になっていた。

東日本震災からまもなく2ヶ月

2011-05-09 14:39:20 | Weblog
東日本震災からまもなく2ヶ月が経とうとしている。
3月11日夕方、JR嵯峨野線から下りて確認した携帯の着信表示が始まりだった。
発信者へ折り返す。「そちらの方面は、大変混雑しているため、つながりにくくなっております。あらためてお掛け直しください」
自宅へ帰り着くと間髪入れずに電話が鳴った。
「かつこさん。東北が大きな地震で大変みたいだよ。テレビをつけてみて」
震度7、仙台市太白区の旅館倒壊の画面が飛び込む。続いて、名取市流域の津波被害。
太白区は、私もかつて住んだ地域である。名取川沿いの国道を下って、通勤もした。
少なからず、浅からぬ縁の人々が暮らす地域に、電話もメールもすでにつながらない状態になっていた。
それから数日はだれもが安否不明のまま、飛び込んでくるのは、新聞やテレビが報道する目を覆うばかりの惨状ばかりだった。
テレビは、朝、昼、晩の各30分だけ、ニュースを限定して見た。
福島原発事故の状況が、恐ろしいながらも捨て置けなかったからだが、津波の被害状況を無神経に映し出すテレビ画面を静止することができず、親しい人たちへのアクセスは、もっぱらネットで自宅や勤務先周辺の状況を検索した。
少しでも安心できる情報があれば、そこを手がかりにアクセスしていった。
無事がわかったのが、3日目の「生きてるよ」という1本のメール。直接話ができたのが、5日目だった。