「平安京から武家社会にかけて、人肉を食らうほどの飢餓、飢饉がありました。」
以下筆者補足ー親鸞の時代背景・飢餓飢饉 文献よりー
親鸞は鎌倉初期の僧1173年~1262年。
この時代、終末論的な末法思想が広まった。
貴族社会から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こった。また、戦乱・飢饉・地震により、洛中も荒廃した。
保元元年(1156年)保元の乱
平治元年(1159年)平治の乱
治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)治承・寿永の乱
治承5年/養和元年(1181年)養和の飢饉。
源氏・平氏による争乱期(治承・寿永の乱)の最中に発生した飢饉で、『源平盛衰記』や『方丈記』など当時の状況を詳細に記す史料も多い。
方丈記では、市中に遺体があふれていたことが記されている。
旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷は様々な加持祈祷を試みたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲った。仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、養和二年四月・五月の左京だけで、42300余人に達したという。
また、元暦二年(1185年)七月九日、大きな地震が都を襲った(文治京都地震)。
山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ちた。余震は三ヶ月にもわたって続いたことが、方丈記に記されている。
(鴨長明『方丈記』)
又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。
そのさま、世の常ならず。
山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。
土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。
渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。
都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。
或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。
地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。
家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。
羽なければ、空をも飛ぶべからず。
竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。
つづく
以下筆者補足ー親鸞の時代背景・飢餓飢饉 文献よりー
親鸞は鎌倉初期の僧1173年~1262年。
この時代、終末論的な末法思想が広まった。
貴族社会から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こった。また、戦乱・飢饉・地震により、洛中も荒廃した。
保元元年(1156年)保元の乱
平治元年(1159年)平治の乱
治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)治承・寿永の乱
治承5年/養和元年(1181年)養和の飢饉。
源氏・平氏による争乱期(治承・寿永の乱)の最中に発生した飢饉で、『源平盛衰記』や『方丈記』など当時の状況を詳細に記す史料も多い。
方丈記では、市中に遺体があふれていたことが記されている。
旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷は様々な加持祈祷を試みたが甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲った。仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、養和二年四月・五月の左京だけで、42300余人に達したという。
また、元暦二年(1185年)七月九日、大きな地震が都を襲った(文治京都地震)。
山は崩れ海は傾き、土は裂けて岩は谷底に転げ落ちた。余震は三ヶ月にもわたって続いたことが、方丈記に記されている。
(鴨長明『方丈記』)
又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。
そのさま、世の常ならず。
山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。
土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。
渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。
都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。
或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。
地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。
家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。
羽なければ、空をも飛ぶべからず。
竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。
つづく