伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ねこまんまは猫跨ぎか?

2008年03月16日 | エッセー
 ねこまんまには鰹節と味噌汁の2派があるが、どちらも飯に混ぜ込んで喰う。品良い食い物とはされていない。しかし時間のない時、食欲の失せた時など重宝だ。わたしは時々これをやる。
 さて、先日の朝日新聞におもしろい小論があった。以下、抄録。

食品偽装、毒ギョーザ、サブプライム ―― 「混ぜる」行為に懐疑心を
福岡 伸一 青山学院大学教授(分子生物学)
 練り物は料理としては本来ごまかし。
 狂牛病禍、食品偽装、毒ギョーザ、再生紙偽装、サブプライム問題など ―― 私たちの身の回りのものはほとんどすべて、その生成プロセスを誰か他のシステムに負託した、中身の見えない「練り物」としてある。
 微量の毒を大量の水に混ぜて捨てれば、毒は希釈されて無害なものになる。一昔前なら環境汚染の問題はこのように見なすことができた。地球のキャパシティーは無限に近いほど大きく、また環境の自浄作用も十分すぎるほど大きかった。ところがこれは毒が単純で静的なもの、つまり希釈されて時間が経過すれば分解されるか不活性化されるものに限られた話だった。
 今や、私たちの社会にはより複雑で動的な毒が侵入しつつある。
 病死した家畜の死体がたとえ混入していても大量の死体とともに加熱処理すれば安全な飼料ができる。こうして作られた肉骨粉に想定外の耐熱性病原体が混入した。かくして世界中に狂牛病が拡散した。
 不良な債権がたとえ混入していても大量の債権と混ぜ合わせ、それを細分化してもう一度証券化すればリスクを無限に希釈することができる。こうして作られたサブプライム債権に含まれた微量の不安は、薄まるどころか逆に時を経ずして大増殖し、そして全体を損なうに至った。
 混ぜることにはもう一つ別の陥穽がある。ひとたび混ぜ合わされたものから価値のあるものを取り出すには膨大なエネルギーと労力が必要とされるということである。秩序あるものを使用すると、それは傷や汚れに見舞われ、廃液や廃物が混入し、酸化や劣化、すなわち無秩序化が進む。したがってリサイクル行為とは、永久運動のようなものでは決してない。無秩序から秩序を回復するために多大なコストがかかる。それはしばしば最初から新品を作るよりも大きい。
 このことを忘れたまま私たちがリサイクルを称揚しつつ、そのすべてを誰か他の仕組みにゆだねたところに再生紙偽装が起こった。
 私たちが取り戻さなければならない認識とは何か。それは練り物に対する第一義的な懐疑心である。
 何かを混ぜ合わせることは、まず第一にプロセスを見えないもの・触れられないものに変えてしまう。
 第二に、ひとたび混合すれば、無秩序=エントロピーが飛躍的に増大する。その対象は、中身の見えない出来合いのギョーザだけにとどまらない。CO2排出量を多国間でこね回すことも、大気中のCO2濃度低減への実効性を可視化できないものにするのなら、練り物を作ることと全く同じ行為に他ならない。 (08年3月8日付)

 プロセスの不可視とエントロピーの増大 ―― ここに「混ぜる」危険があると説く。卓見である。複雑系の社会で足をすくわれかねない死角を突いている。食品とサブプライムとを同列の発想で論じるところが、なおおもしろい。
 エントロピーの増大といえば、EUもそうだ。EECからの老舗でEUでも優等生のベルギーが、いま喘いでいる。南北の地域間対立が先鋭化し、昨年は半年間も内閣不在の政治空白を生んだ。国がEUという大きな枠に混ざり、外交・防衛・社会保障という連邦政府の役割がシュリンクした。ために地域の存在感が増大し、今まで国家によって押さえ込まれていた対立が噴きだした。国が他国と混ざり合って、国内の紐帯が緩む。なんとも皮肉な話である。越しがたくとも越さねばならぬ歴史の試練か。
 
 わたしは生な食材の形より練り製品を好む。ステーキよりもソーセージ、尾頭付より捏(ツク)ねもの。しかしこの御時世、猫にあらずとも跨いだほうがいいものもあるようだ。□


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