浮世風呂

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毛沢東①

2011-12-28 16:34:41 | 資料

毛沢東 マオ・ツォートン

1893年12月26日生まれ(没1976年9月9日)

現代世界史に大きな功績を残した人物とされているが、おそらく人類史上最も人々を死に追いやった人物である。彼の政策による犠牲者は最低でも数千万人といわれている。

1907年、弱冠14歳で羅一秀と最初の結婚をするも、1910年、年上の妻はわずか20歳で死去した。

1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。

1919年、長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。

1921年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席する。1923年6月、第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。

1926年広州農民運動講習所所長。この頃「農村で都市を包囲する」といった思想が確立していったといわれる。

井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。

しかし抗日戦を戦っているのは国民党軍であり、彼の共産党軍は土地の搾取ということに変わりはない。なおこの根拠地に潜伏中、江西省出身の女性・賀子珍と暮らすようになり、1929年には長女が誕生している。

1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。

国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソビエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。

しかしこの「長征」は、後から作られた創作で、現実は毛沢東自身は洞窟に隠れ住み蒋介石からは洞窟のゲリラどもと呼ばれていた。

毛沢東は中央書記処書記に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。

1936年12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築する。

1937年7月7日に始まった日中戦争では抗日戦線を展開、国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。

しかし、日中戦争において日本軍と交戦したのは主に国民党軍であった。

共産党側は、朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は日本軍と国民党軍の交戦を傍観し、戦力を温存して、共産党支配地域の拡大に傾注したのである。この時期、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。

1938年には長征時代の妻・賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。

この時の毛沢東の主な政策は、阿片の生産である。共産党支配下で栽培しそれを連合軍に売り資金を蓄え、来るべく国民党軍との内戦に備える戦略である。

日中戦争末期の1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、孫文が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示した。

一方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。日中戦争当時、共産党と国民党は表面上協調関係を結び、毛沢東も蒋介石の権威に従っていたが、戦争終結を目前にして、毛沢東は「蒋介石と対等な指導者」としての立場をめざし、共産党と国民党の対立は深刻になっていった。終戦直前の8月13日、毛沢東は蒋介石との武力闘争を内部指示として発した。

1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告、8月15日に終戦を迎えた。

1946年国共内戦が起きると、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった。

毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。

1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧した。

1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、11月30日に重慶を陥落させて蒋介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続した。

 

1949年12月から1950年2月にかけてソ連を訪問してヨシフ・スターリンの70歳の誕生日を祝い、中ソ友好同盟相互援助条約を締結するなどして、ソ連の援助を引き出した。

その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエト連邦とともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣。この戦争で、毛は長男の岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失った。

建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明した。

1953年1月よりソ連型社会主義をモデルとしたとした第一次五カ年計画をスタートさせ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していった。

国家主席に就任した毛沢東は、自己に対する反対勢力を粛清していく。

1957年春、毛沢東は知識人階級に対し、自由に共産党批判をするよう求めた。「百花斉放」政策である。しかし毛沢東は同時に「引蛇出洞」(ヘビをねぐらからおびき出す)と言う秘密発言もしていた。

前年の秋、ハンガリー暴動が起こり、中国でも知識人たちが同様な穏健・自由主義路線を望んでいることが分かっていたので、毛沢東が先手で罠を仕掛けたのである。

多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。

1957年、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、ソ連が15年以内に鉄鋼、石油などの生産高の面でアメリカを上回るだろう、と 宣言した。

当時モスクワに滞在していた毛沢東は、兄貴分であるソ連の後について、中国は15年以内にイギリスを追い越すだろうと語った。この発言は、世界各国共産党首脳たちの熱烈な拍手を浴び、中国国内でも盛んに宣伝された。

毛沢東の「大躍進政策」

 そこで毛沢東は1957年に約535万トンであった中国の鉄鋼生産高を翌年には倍の1070万トンにするよう命じた。ここから全人民製鉄・製鋼運動が展開されることになった。
  
しかし本格的な製鉄コンビナートを作るだけの資本も、時間もない。いらだった毛沢東は、産業革命以前の「土法高炉」を全国に展開し、人海戦術で鉄鋼生産を行うことを命じた。

  「ワイルド・スワン」の作者ユン・チアンは、この年、小学校に入ったばかりであったが、その校庭にかまどと「るつぼ」の形をした大きな鉄の桶が据えられた。先生たちが24時間休みなしで薪をくべ、生徒たちが拾い集めてきた鉄くずをその桶に入れる。
先生たちが製鉄に動員されているので、授業もなく、ユンは先生の家で掃除や子守りもした。  
ある先生は、とけた鉄を浴びて、両腕に大やけどを負い、病院に見舞いに行ったユンは、そこでも医師や看護婦が、土法炉の火を絶やさないように、走り回っている姿を見る。
  
  しかし、素人が薪をくべて作った鉄は、農機具用にすらならなかった。ユンの家の鍋や釜も、ベッドのスプリングもすべて、溶かさてしまった。

6000万人の労働力を投入して、308万トンの何の役にも立たない「牛の糞」のような鉄が作られたのでる。

  無駄になったのは、膨大な労働力だけではない。土法炉の燃料として、大量の石炭が使われた。そのために、逆に正規の製鉄所が燃料不足に陥り、操業停止に追い込まれる所が出てきた。
  
さらに石炭を買えない農民は、樹木を伐採して、薪とした。全人民製鉄・製鋼運動はたちまち、全人民樹木伐採運動へと一変した。この環境破壊は、数十年後にも続く悪影響を残す。

山はハゲ山になり、土地もやせてしまった。一度大雨が降れば土砂が田畑に流れ込み、肥えた土地も荒れ地になってしまった。これでどうして豊かになることができるのだろうか。

  また、かまどを作るには、レンガが必要である。そのために古代からの城壁を破壊して、そのレンガが用いられた。前漢時代に国都長安を守る東の関門として、2千年の歴史を持つ河南省の函谷関の2層の楼閣、甘粛省威武県の唐代からの城壁など、いくつもの由緒ある建造物がこうして破壊された。

   毛沢東の一言で、なぜ全人民がこれほど、愚かな運動に全力をあげて取り組んだのか? 共産党の幹部たちは、鉄鋼生産のノルマを課され、毎日生産高を報告することが求められた。
上級幹部の関心は、毛沢東の命じた「1070万トン」という数字 のみであった。その鉄を使うあてがあるわけでもなく、品質もどうでも良い。当然、下からの報告は水増しされる。
  
水増し報告に反対した良心的な幹部は、統計局長を含め、「右派」のレッテルを貼られ、労働改造所か、牢獄に送り込まれていた。残る党幹部、官僚も、専門技術者たちも、この運動がいかに人民を苦しめ、経済発展を阻害しているか、分かってはいても、保身のためには、口を閉ざすしかなかったのである。

  鉄鋼増産と並んで、毛沢東の念願であった人民公社による農村の共産化が進められた。「共産主義は天国だ。人民公社はその掛 け橋だ。」というスローガンが、1958年以降、中国全土に響き渡った。
  
  2千から2万戸を一つの単位として、人民公社を作り、その中では、人々は田畑や森林、家畜、農機具などすべての私有財産を提供し、共有化する。自宅での食事は禁止され、農民は農作業が終わると、公共食堂で食事をとる。収穫はすべて国のものとされるので、誰も農作業の能率など気にしない。農村にも鉄鋼生産のノルマがあるので、農耕作業は二の次にされた。そして食べたい だけ食べるので、食料備蓄はまたたく間に底をついた。
  
  人民公社は地方の共産党官僚の管理化におかれ、やがて各公社が、毛沢東の歓心を得ようと、食糧増産の大ボラ吹き競争を始める。ある公社が、今まで1畝(6.7アール)あたり200斤(100k g)程度しか小麦がとれなかったのに、2105斤もの増産に成功し た、とのニュースを人民日報で流した。毛沢東が提唱した畑に隙 間なくびっしりと作物を植える「密植」により、出来高が10倍にもなったというのである。
  
すると、他の公社も負けじと、水稲7000斤、1万斤などという数字を発表し始めた。8月には湖北省麻城県で、1畝あたり稲の生産高3万6956斤というニュースが報道された時、人民日報は四人の子供が密植された稲穂の上に立っている写真まで掲載した。
  
これらは完全なでっちあげであった。農民に徹夜作業で何畝かの田畑の稲や麦を1畝に移し変えさせたものだ。しかしこれだけ密植すると、風が通らず、蒸れてすぐに作物がだめになってしまうので、農民は四六時中、風を送っていなければならなかった。
  
  出来高の水増し報告により、上納すべき量も増やされ、農民たち自身の食料がさらに減らされた。こうして、農民たちの製鉄運動への駆り立て、人民公社化による効率低下、さらに上納分の増加により、食糧備蓄も底をつき、1960年から61年にかけて、中国全土を猛烈な飢饉が襲った。

  幹部の粛清の後、59年には毛沢東はさらに大々的な反右傾運動を展開した。農民や人民公社の幹部・役人で、少しでも政策に不平不満をもらすものは、どしどし摘発された。その総数は中国全土で1000万人にのぼったと小平は述べている。

 中国全土での餓死者は、2~3千万人と言われている。55年から58年までの平均人口増加率2.29%を適用すると、61年末の人口は7億632万人になるはずなのに、実際にはそれより4,638万人少なかった。

 毛沢東の「大躍進」政策によって、中国人民は近代史上、最大規模の大量餓死に駆られたのであった。 

  61年初めには、毛沢東も「大躍進」政策を続けることができなくなり、劉少奇や小平などの実務派に政治運営を譲った。鉄鋼増産運動は中止され、農民の収入も働きに応じて分配されるようになった。

小平が「白猫でも黒猫でもネズミをとるのが良い猫だ」という発言をしたのは、この頃だ。「ネズミをとる」とは、「国民を食わせる」という事なのである。
  
  実務派の市場主義的舵取りにより、2年ほどで中国経済はふたたび好調に動き始めた。しかし、一時後退した毛沢東は、権力奪還を狙って、逆襲に出る。中国人民の前には「文化大革命」という次の悲劇が待ち受けていた。

文化大革命

大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけた。

しかし、彭徳懐に代わって国防部長となった林彪によって1964年に『毛沢東語録』が出版されるなど、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。

1966年5月、北京大学に反革命批判の大字報(壁新聞)が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心に、党・国家機関に対する「造反」が起こった。過激派となった青少年は「紅衛兵」と称して、各地で暴動を引き起こした。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持した。

文化大革命とは、毛沢東などが行った、文化の名を借りた劉少奇などの右派(穏やかな革命路線)打倒のための政治闘争である。これにより中国政府当局は、数千万人以上の中国国民を殺戮したと言われる。この恐怖政治下では、国民は完全に思想言論の自由を奪われていた。

1966年8月18日には、自ら天安門広場に赴き、100万名の紅衛兵を謁見して彼らを煽動、「四旧打破」のスローガンを打ち立てた。紅衛兵運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。

劉少奇・小平らを実権派(経済政策の調整・柔軟化を唱える党員は、「走資派」というレッテルを貼られた)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動、すなわち「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。

この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。

文化大革命では紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及んだ。彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害された。また、紅衛兵運動は文化財を破壊するなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展した。

毛沢東の奪権目標であった劉少奇・小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。これを受けて1968年、毛沢東は学生たちの農村への下放を指示した。