浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

中国共産党

2011-12-16 10:34:13 | 資料

中国共産党中央政治局常務委員会

胡錦濤 

中共中央委総書記、国家主席、中軍委主席、中華人民共和国中央軍事委員会主席

1942年12月21日生まれ 

1959年9月、清華大学水力エンジニアリング学部に入学する。

清華大学在学中の1964年4月、中国共産党に入党。

1975年、ちょうどその頃、失脚から返り咲いた小平によって「より革命的で、より若く、より知識があり、より専門的な」次世代の指導者を育成することを目指すプログラムが実行され、それによって多くの有能な若手党員が見出された。

 有能な若手党員の一人として、胡は甘粛省党委第一書記である宋平の推薦により、1980年に中国共産主義青年団の甘粛省委員会書記に就任した。かつてインフラ整備の建設工事を宋平が視察した際にその案内役を務めたのが胡錦濤であり、宋平は胡錦濤に対して好印象を抱いたという。

胡耀邦との出会い

 1981年9月、甘粛省党委員会は、胡錦濤を、小平の娘(楠)と胡耀邦の息子・胡徳平とともに、中国共産党中央党校にて共産党の高級幹部となるための訓練を受けさせることを決定した。これは、地方の甘粛省から中央に異動していた宋平の推薦によるものであった。

 楠は胡錦濤に良い印象を持ち、そのことを父・小平に報告している。また、胡耀邦の息子も胡錦濤を自宅に招待し、胡耀邦に初めて対面させている。胡耀邦は共産主義青年団出身の後輩である胡に親しみを込めて握手をしたことで、それまでの緊張がいっぺんに解けた。その日、彼ら2人は膝をまじえて天文地理、歴史文学、政治情勢、国際問題、現在の仕事に至るまで語り合った。その後も胡錦濤は胡耀邦をしばしば訪問し、2人の親交はますます深まった。

中央委員候補

1981年7月2日、小平は省級党委員会書記の全体会議を召集し、若手幹部の起用が共産党政権の命運にかかわる重要な問題であることを述べ、4、5年後には政権の危機を招くであろうという警告を発し、問題の解決として古参幹部から率先してポストを若手に譲ることを要求した。その際、小平は

  1. 年齢は45歳以下。
  2. 共産主義青年団での仕事の経験がある。
  3. 高学歴で末端組織での職歴がある。
  4. 政治思想面に問題がない。

という4つの基準を示した。胡錦濤は当時39歳で、甘粛省最年少の局長幹部であり、中央党校在学中であり、第12回総会甘粛省代表に選出されていた。さらに、中央党校で研修を受けていたことで胡耀邦の近くにいたこと、清華大学の学長でもあった蒋南翔が、ここの常務副学長に任命されており、自身のかつての教え子である胡を強く推した。

1985年7月、胡錦濤は、胡耀邦によって貴州省党委書記に抜擢された。さらに9月には党中央委員に昇進した。

上海幇の構成員とは対照的に、胡錦濤はそのキャリアの多くを中国の裕福な沿岸地域でなく貧しい内陸地域で積んだ。そのため部分的には、彼は上海幇と比較して西洋的な考えになじみがないと言えよう。

1980年代に北京では民主化を求める抗議活動が起こり、その結果胡耀邦が失脚したが、同じように起こった地方の学生の民主化を求める抗議活動に対して胡錦濤は慎重に対処した。

チベットでの活動

1988年6月、チベット自治区党委書記伍精華が重病のため辞職した。趙紫陽総書記は、2つの貧しい貧困地域(甘粛省・貴州省)で働いていたことを理由に、胡錦濤をチベット自治区党委書記に指名した。同年12月に書記に就任したが、チベット自治区の区都ラサではデモ活動が起こっていた。

1989年1月19日、ラサにて公開裁判をおこない、前年3月に起きた抗議運動に加わって逮捕された僧侶に死刑判決を含む重罪判決を言い渡した。その際、僧侶の頭を押さえるなどチベット民衆に対する見せしめとなった。その直後の1月28日、パンチェン・ラマ10世が急死したが、多くのチベット人は胡がそれにかかわったと信じている。

同年3月には抗議運動が大規模なデモ行進にまで発展したため、胡はラサ全市に3月8日午前零時から戒厳令を布告した。戒厳令布告は天安門事件に先立ち中華人民共和国史上初めてのことであった。

日本では、この時にチベット独立運動を押さえ込んだことで党指導部の信頼を勝ち得たと言われることもあり、2008年のチベット動乱の際にもメディアで批判される根拠となった。その後、1989年6月に天安門事件が勃発した際も、その民主化運動のチベットへの波及を防ぐため、ラサを戒厳令下に置いた。以降チベット自治区の最高責任者にあった4年間、「1.分離主義の弾圧、2.経済建設を推進」する政策を実行した。

1992年の第14回党大会が行われる前に、小平や陳雲など党長老たちは、小平を中心とする「第二世代」から江沢民を中心とする「第三世代」へスムーズに権力の移譲を行うために、後継者を選出した。

さらに小平は「第四世代」を代表する50歳以下の人物を将来の指導者として選出することを提案した。この時、宋平が将来の指導者として胡錦濤を推薦した。結果として、胡は党中央政治局常務委員に選出された。これは中華人民共和国建国史上2番目の若さだった。同時に党中央書記処書記にも選出された。

2002年の第16回党大会で権力の移譲が行われ、江が権力の中心から退いた。しかし江は自身の派閥である上海幇から呉邦国、賈慶林、曽慶紅、黄菊、李長春を中央政治局常務委員に配置し、また自身も党中央軍事委員会主席のポストを手放さず、院政を敷くものだと思われていた。

胡錦濤は、常に自分を隠し通してきた。「これといって目立つ特徴がないのが胡錦濤の最大の特徴」なのである。

党総書記・国家主席

2002年11月15日、党総書記に選出された胡錦濤は、翌2003年3月15日、第10期全国人民代表大会第1回会議において国家主席に就任。胡錦濤指導部は、中国を「民主文明を持った政治大国」とするべく、漸進的な政治改革を進めている。

上海幇との主導権争い

院政を敷いたかに見えた江沢民だったが、2004年に党中央軍事委員会主席の座も胡錦濤に譲り渡した。これにより、胡錦濤は中国人民解放軍のトップにもなり、党・政・軍の全ての権力を事実上掌握した。しかし江沢民を中心とする上海幇との権力闘争は以降も続くことになる。

その後の胡錦濤は権力基盤の強化で一定の成功を収めている。2005年8月には人民解放軍の機関紙「解放軍報」が胡錦濤を称賛する記事を連日掲載するようになった。これは胡錦濤が軍部との間に協力関係を築いたことを示している。2006年9月には上海市党委書記の陳良宇が汚職の疑いで解任され、上海幇が勢力を失ったとされた。

しかし、2008年3月15日の第11期全人代第1回会議にて、胡錦濤自身は再び国家主席に選出され、国家中央軍事委員会主席にも選出されたものの、自身と同じ共青団の出身である李克強を国家副主席にすることができず、上海幇の推す習近平が国家副主席に就任するなど、上海幇の影響力は依然として残っている。

 胡錦濤主席が民主的で好ましく親日的にも成り得ると甘く考えてはならない。

そもそも胡錦濤が小平に見込まれたのは、チベット動乱の時に党中央の指示を待つことなく、自ら鉄兜を被って戦車に乗り込み、大弾圧の先頭に立ったからだ。

10万人の僧やインテリが無惨に殺されたチベット動乱で、弾圧の功を立てたことが彼の最高権力の地位への出発点だった。その後チベットでは数年間で120万人が殺害されている。

彼は到底私達が考える民主的な指導者ではあり得ないだろう。

胡錦濤の長男 胡海峰(39歳)は、IT(情報技術)系ベンチャー大手精華同方の持ち株会社「精華ホールディングス」で共産党委書記を務める経営責任者である。

2011年7月23日になって「百度」「新浪網」「網易」といった中国の大手ポータルサイトなどでは、胡海峰に関するニュースが一斉に削除された。また同氏に関する外国の報道も大部分がブロックされた。

このブロックは精華ホールディングス傘下のスキャナーメーカー「威視公司」がアフリカ南部のナミビアでの汚職事件に関与していることと関連がある。

ナミビア警察当局がすでに北京に係官を送り胡海峰を参考人として取り調べた。

 

呉邦国 

全国人民代表大会常務委員長(衆議院議長に相当) 中国のNo.2という立場である。

1941年7月生まれ

1960年から1967年にかけて、清華大学無線電子学科真空トランジスタ学部に学ぶ。

1964年4月に中国共産党に入党。

  • 1991年 上海市党委書記
  • 1992年 党中央政治局委員
  • 1994年 - 1997年 党中央書記処書記
  • 1995年 国務院副総理(工業担当)
  • 2002年 党中央政治局常務委員
  • 2003年 全国人民代表大会常務委員長
  • 呉邦国の自説

    「われわれのあらゆる法律法規は、いずれも中国共産党の指導のもとで制定されたものであり、われわれの制定したあらゆる法律法規も、いずれも中共の指導と中共の執政地位を強化し、中共が人民を指導し国家を治めるためのものでなければならない」と述べた。

     呉邦国は、これを全人代の数十年間で立法におけるもっとも重要な経験と位置付けているが、彼は中共独裁の根底まで晒け出したと言われている。

     呉邦国は同大会の報告で、中国は「多党が交替で執政することを行わない、指導思想の多元化を施さない、三権分立と二院制を実施しない、連邦制をしない、私有化を行わない」と明言し、そしてこれらは中共政治局の審査を受けて通ったものと強調する。

     呉邦国は江沢民の上海組のメンバーと見られるが、上海組の色彩がうすく言行も慎んで行うので、これまで慎重派または中間派とも見られていた。しかし、今回の態度表明は、従来の曖昧さを一掃し一党独裁の現状を必死に守る保守派へと変身しているのである。

     呉邦国の報告について、中共中央政治局常務委員9人の中で、賈慶林・中国政治協商会議主席、イデオロギー担当の李長春、李克強筆頭副総理、周永康法政委員会書記はこぞって「すべてに賛成する」と態度表明した。これに対し、温家宝と賀国強中共紀律検査委員会書記は、一切言及していない。
     

     

     

    温家宝 ウェン・チアパオ) 

    中華人民共和国国務院総理

    1942年9月15日生まれ

    1960年に北京地質学院(現・中国地質大学)へ入学。

    1965年4月、中国共産党に入党し、1968年に研究生課程を卒業、地質関係の技術者として働き始める。

    1968年から1978年までの間、甘粛省地質局に配属され、地質鉱産部門の技術員・行政指導員として業務に従事。

    1979年には甘粛省地質局副局長に就任。後に党総書記・国家主席となる胡錦濤と同様に、当時の甘粛省委員会書記だった宋平によって抜擢された温家宝は、1982年、国務院の地質鉱産部政策法規研究室主任となる。

    中国内外のマスメディアからは、特権階級からかけ離れた庶民的な人物というイメージを持たれており、「人民の総理」と評される。

     温家宝は、3月14日の全人代の閉幕式での記者会見で、ふたたび政治改革を呼びかけた。彼は、世界には永遠に変わらないものはなく、止むことなく続けて改革を行うことによってこそ国が生気を保つことができる。そして、政治改革は経済改革の保障であり、政治改革を行わなければ経済改革の成功はあり得ないし、すでに得た成果も失われる危険があると指摘する。

     しかも、温家宝は「中共の最大の危機は腐敗であり、腐敗の土壌を取り除くために制度と体制を改革すべきである」、「国の命は人心にある」とも主張する。

     これらの言論は、政府報告を読むのではなく記者会見であるだけに、己の意志をある程度自由に述べることができるものと思われる。

    NEWポストセブン

    2011.11.20 07:00

     中国の温家宝首相がこのほど、天津市にある母校の南海中学(中学校と高校を併設)で講演し、日中戦争や国共内戦に巻き込まれ少年時代に極貧生活を送ったことや、父や祖父が中国共産党による政治運動で迫害を受けたことなど幼いときからの半生を赤裸々に語った。

    中国の政治家が自らの生い立ちを公の場で語るのは極めて異例。温氏は自らの体験をもとに、「指導者にとって重要なことは民情、民心、民意を尊重することで、民心に背けば政権の存亡に関わる」と強調し、党内で台頭しているとされる保守派を暗に批判した。

    温氏は1942年生まれで今年69歳。南海中学では12歳から18歳までの6年間過ごした。卒業してからすでに51年が経ち、今回も含めて、これまで4回母校を訪問しているが、生い立ちに触れるのは初めて。

    それによると、温氏は天津市郊外の農村で生まれ、祖先は代々農民だった。しかし祖父が貧しい子供のために私設小学校を設立し校長になったものの、いつも教師と資金集めに走り回っており、祖母が生活を支えるために、漢方薬を売り、トウモロコシを育てていたという。

    ところが、日中戦争のため、常に生命の危険にさらされていたほか、その後の国共内戦で、形勢不利とみた国民党軍によって村が焼き払われ、温一家は天津市内の戦災民の避難所に逃げ込むが、その途中、祖母が病気で死亡。さらに、避難所で国共両軍の激しい戦闘に巻き込まれたものの、その翌日、天津市は人民解放軍によって解放されたという。

    しかし、全財産を失った温家の生活は極貧状態で、9平方メートル一間の部屋に祖父や父母、温少年ら3人の子供の6人が暮らしていた。そのような生活が、温氏が寄宿舎に入る南海中の入学まで続いた。温氏は小学校時代、ジフテリアにかかったことがあるが、その際、父親が腕時計を売った金で薬を買い、温氏はことなきを得たが、父親はそれ以来、時計を持ったことがないという。

    さらに、温家を苦難が襲う。温氏が南海中学在学中、右派分子らを糾弾する共産党の政治運動である反右派闘争や百花斉放・百家争鳴運動が発動され、インテリだった祖父が身柄を拘束された上、経歴などを調査・批判された。その心労から祖父は1960年に脳溢血で倒れ、死亡。父親も批判されて、郊外の養豚所に連行され豚の世話を強要されるなどの政治的迫害を受ける。その後、父親は釈放されて、図書館の仕事を任されたという。

    温氏は自然地理が好きな父親の影響を受けて、自身も地球科学に興味を持ち、北京地質学院(単科大学)に入学した。在学中に共産党に入党、成績も優秀だったため大学院で学び、計8年間の大学生活を過ごしたのち、辺境地帯の甘粛省で14年間の省政府勤務を続けた。その後、中国政府の地質鉱産部政策法規研究室主任として中央に呼び戻された後は、順調に出世して、首相にまで上りつめる。

    温氏は自身の少年時代や中学・高校時代の苦難に満ちた生活を振り返って、「政策の善し悪しを図る唯一の基準は民衆が喜ぶか喜ばないか、満足するか満足しないかだ。中国は世界で最も貧困層が多い国のひとつなのだから、政府や社会は貧困層に平等な権利を与えられるかどうかが重要だ」と指摘するとともに、「国家の命は人心にあり、政府が人心に背けば、社会の発展と政権の存亡にも影響する」と力説する。

    さらに、温氏は「中国は現在、(民衆を顧みない)官僚主義や腐敗が蔓延している」として政治体制改革の必要性を強調するなど、改革に反対する保守勢力を強く牽制した。新しい指導部を決める来年秋の第18回党大会まで1年を切っていることから、党内での権力闘争が激しくなっていると伝えられるが、「温氏の発言は保守派の台頭を強く警戒するもの」と北京の中国筋は指摘している。

    http://www.news-postseven.com/archives/20111120_71552.html 

    温家宝首相の息子は平安保険(中国生保第二位)の4000万株保有の筆頭株主。

     

     

    賈慶林 

    全国政治協商会議主席

    1940年3月生まれ

    中国共産党中央政治局常務委員

    1958年に河北工学院電力学部に入学し、電気設計と製造を専攻。在学中の1959年12月に中国共産党へ入党する。

    1985年から1996年の間、福建省において党委員会常務副書記、省長、党委書記などの要職を歴任。1995年に陳希同北京市党委書記を中心とする汚職事件が発覚すると、翌1996年に北京市長に任命され、市政の建て直しに取り組む。1997年、汚職捜査指揮を取っていた尉健行の後任として北京市党委書記に就任。同年、中央政治局委員となる。

    2002年11月に中央政治局常務委員、2003年3月、全国政治協商会議主席に就任。党内序列第4位。

    北京市長就任に関しては、喬石、胡錦濤、朱鎔基などがそれぞれ別の推薦者を出していたが、江沢民の強い推薦もあり、就任が決定した。また福建時代に夫人がアモイで発生した遠華密輸事件に関与したとの噂も流れたが、これも江沢民の配慮で明らかにならなかった。これらの点から、賈は上海出身ではないものの黄菊と共に特に熱心な江沢民派と目されている。なお、政治局常務委員就任に際しては同じく江沢民派である曽慶紅、黄菊と共に1割程度の批判票が出た。

    曽慶紅 

    中華人民共和国国家副主席 中共中央書記処書記

    1939年7月生まれ 

    中国共産党の指導者世代では「第4世代」にあたるが、「第3世代」の最高指導者を務めた江沢民から大きな信頼を得ていた。正式な党内序列は5位だが、その権力から実質的に胡錦涛に次ぐナンバー2の地位にあるとも言われていた。

    曽慶紅はまた、両親が党幹部であるため出世が通常より早いとされる、いわゆる太子党のまとめ役として影響力を発揮してきた。

    第17期党大会で中央委員からは退いたが、同じく太子党の習近平、石油利権などで近い賀国強、周永康が常務委員に昇格し、引退後も一定の影響力は保持すると見られる。


    曽慶紅の息子は700億元の不動産王だが、公金600億元を転用した疑惑がもたれている。闇から闇だろうが、いつまでも自分達の悪政を「反日」によって事態のすり替えで済まそうとする。

     

     

    黄菊 国務院常務副総理
    呉官正 中央紀律検査委員会書記
    李長春
    羅幹 中央政法委員会書記