水割り3杯の雑談

毎日、夕方6時を過ぎる頃、台所のテーブルで書いていたエッセイをブログに。足元にはエサをねだる愛猫が。私は68歳。

11月29日

2009-11-29 20:55:40 | Weblog
円高とドバイショックが重なって、株価(日経平均)も9,000円スレスレのところまで落ち込んでいるのだから、週間ニュースも、その辺のことが中心になるかと思ってテレビを観ていたが、いずこも同じ事業仕分けの話ばかり。これについては書いたばかりなので・・・。 競馬は第29回ジャパンカップで、このレースにはよい記憶が全くない。 ギャンブルで負けたときは忘れるしかないが、勝ったときは(大儲けはしなくても)憶えているもので、しかしジャパンカップにはそれがないから、もしかすると28連敗しているのかも知れぬ。いつものようにスポニチ・小田記者を頼って、オウケンブルースリから馬連で7点買い(どう考えても大穴買いの目はなかった)。 まぁなんとか29連敗は免れたが、一番人気ウォッカとの組み合わせだから、配当は10.2倍。儲けは微少でいい。 当たればいい。   金曜日と土曜日の間の夜に、タケノコの旨煮の夢を見て、家人に日曜日の夜の主菜に頼んだ。幼子みたいだが、そういう(夢にでてきた食べ物を所望する)ことが年に三度か五度ある。 もちろん、この季節、タケノコは水煮モノしかないから、炊き合わせの相手は牛肉がベストだ。冴えないという形容があるが、鳩山首相も冴えない。自身の献金問題もあるし、小沢幹事長の存在もシンドいし、亀井もウルサいし、目の色もカガヤキが失せてきた。まぁ、しばらくは民主党の世の中は続くのだろうけれど。タケノコと牛肉の旨煮ができたようだ。

ムダをなくす

2009-11-29 20:48:55 | Weblog
おととい終わった、いわゆる事業仕分けの主役はレンホウさんだった。どうしてもテレビカメラは彼女に焦点を当てることになるからだ。「なぜ(スーパーコンピュータは)世界一位でないといけないんですか?二位じゃいけないんですか?」は、流行語大賞に挙げたいセリフだった。レンホウさんは独身なのか既婚者なのか知らぬが、もし後者であれば夫婦喧嘩には強いだろうなぁと思った。ところでマスコミはなぜ、世界一のスパコンができたらどうなるかを(専門家に訊いて)報道しないのだろうか。 たとえばそれがあれば癌の治療薬の開発が20年早まるとなれば、野依良治先生に「歴史という法廷に立つ覚悟があるのか」と言われる前に、多くの人に納得をもたらしたのではないだろうか。 しかし、この仕分けを公開したのはよかったと思う。ムダをなくすのは極めて難しく、基本的に、それぞれの価値観に差があるからだ。少し話が逸れるが、私のサラリーマン時代には、取引先との間に夜の付き合いが(人間関係を作る上で)必要だったが、昨今はそういうことは流行らないようだ。つまり、そんなことよりは、いい製品を適正な価格で取引するのだから、酒席での付き合いなどムダというわけで、それはそれで文句の言いようがない。しかし・・・と、ここで「しかし」の3文字が頭に浮かぶのが、昭和10年生まれの古さであるだろう。

2009-11-29 10:54:17 | Weblog
高校2年になる春に、茨城の県立校から都会の私立校に転学し、それまでの運動靴通学が革靴通学に変わった。幼い頃は(たとえば神戸の街へ家族で買い物や食事へ行くときなど)、編み上げ靴を履いていたので、革靴は10年ぶりだった。茶色のものも1足だけ持っていて、それは休日用だった。グレーのフラノかベージュの綿のギャバのズボン、上はポロシャツかセーターというとき、赤茶色の靴は、「さぁ(黒靴から解放されて)今日は遊びに行くぜ!」といった快さがあった。  我が家の靴箱(玄関に3個ある)の大半は、家人の靴によって占領されている。むろん、イメルダ・マルコスさんのようなコレクションではなく、家人は靴を買うのが好きであり、自分のモノは捨てない性格であるからだと思う。  朝、娘が出勤していくときに、家人が「またあの靴履いていくの?たまには別のを履いていきなさいよ」と言ったりするが、娘は靴のオシャレには無頓着なのだろう。  週2回のペインクリニックへは、つっかけサンダルで行く。家の玄関でも、クリニックでの受療でも靴の脱着が面倒だからだ。待合室で見ても、サンダル姿は私だけだが止むを得ない。ヒモの靴などとんでもないし、スリッポンでも、自分で靴べらを使って履くのはシンドい。腰痛はシンドいし、多くのことを邪魔する。

歌の文句

2009-11-29 10:45:34 | Weblog
『高原列車は行く』という歌の初めは、「汽車の窓からハンケチ振れば 牧場の乙女が花束投げる」であるが、窓からハンカチを振ることはできても、花束を投げるのはムリだろうと、タモリ氏が評している。しかし、歌の文句と言うのは、必ずしも合理的である必要はないだろう。たとえば、我が国の国歌だって、「さざれ石のイワオとなりて~」と綴られているが、これは、花束投げるのよりもムリだろう。 『高校3年生』の第2章に「僕ら フォークダンスの手をとれば 甘く匂うよ黒髪が~」とあるが、高校3年生は17歳であり、まだ化粧馴れしていないから、髪が甘く匂うことはなく、香りがあるとすれば乾いた芝生のごときものではないか。それよりも高校3年生の女の子の髪が甘く匂ったらちょっと気持ちが悪いだろう。 私は男子高だったので、フォークダンスの経験はないが、あれは楽し恥ずかし と 好きな子に当たれ(よく知らぬが、クルクルと相手が代わるように見えるので)なのだろう。  『高原列車は行く』『高校3年生』の作詞者である丘灯至夫さんが先日亡くなった。戦友会の仲間とカラオケに行っていた頃は、上記の2ツの歌を誰かが歌うと、すぐに合唱になった。両方とも唄い易いということもあった。『高校3年生』の第1章の終わりに、「僕ら 離れ離れになろうとも クラス仲間はいつまでも」とあるが、戦友会でのコーラスでは、なぜか「暮らす仲間は~」に聞こえて、私がそのことを言うと、みんなが「ホントだ」と頷いた。

野次

2009-11-28 07:25:41 | Weblog
朝のテレビで、国会での野次についていろいろ紹介していておもしろかった。もちろん主役はヤジ名人の松田九郎氏、浜田幸一氏、鈴木宗男氏であって、この3人、どこか、ガラは悪いけれど憎めないという共通点がある。締め括りに解説の三反園訓氏は、野次は人柄だといったが、そのことだろうと思う。 ただ、ガラが悪いだけでは、場をしらけさせるだけだ。  私も中学時代、教室のヤジ係というか、掛け声係を担当していた。それが学校に行く目的(楽しみ)の1ツだった。教師が答案用紙を抱えて入って来て、「きょうはテストにする」と言うと、「あ~?」という生徒の合唱が起きる。標準語に直せば「え~っ?(不意打ちじゃないか、先生)」であるが、そこで私が「いいじゃねぇか、いつやったって同じよ」と言うと、みんなが笑って場が静かになる。 当たり前の話で、テストなんか、いつやっても、できるヤツはできるし、できないヤツは時とは関係なくダメなのだ。但し、私だけは違った。私は(ある科目では)テストの前日にカンニングの準備ができた。それは自分だけしか解読できない完璧なモノだったから、もちろんバレたことはない。しかし、その手品によって私が高点を得ても、通信簿に5はつかなかった。それはそれでいいのであり、要するに、私は、学校もテストもおもしろく楽しかったことになる。 その頃の私は決してガラは悪いが憎めないといったタイプではなかった。憎まれた記憶はないが、上品ぶったつもりもない。 私の野次は人柄ではなく、教室の中の役目だった。今の中学でも学級の中に一人、そういうことを担当しているヤツが一人いると思うのだが、どうだろう。