yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

第10回考古学研究会東海例会「古代東海と奈良時代王権」御案内

2007-11-28 10:33:21 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
頓宮と三関を勉強してみようかなと思ったらポチッとねよろしくおねがいします!

2007.11.27
              第10回考古学研究会東海例会

                   開催要項

Ⅰ テーマ 「古代東海と奈良時代王権」

Ⅱ 主旨  

古代の東海地方には、『日本書紀』や『続日本紀』・『萬葉集』などの多くの文献史料に、壬申の乱や聖武天皇関東行幸に関する詳細な史料が残されているほか、交通・流通・軍事の要となる三関が設置され、その立地や成立の政治的背景などについてさまざまな研究成果が発表されてきた。更に近年、鈴鹿関跡における初めての発掘調査、聖武天皇伊勢行幸地に関する調査研究が積み重ねられ、考古学からの新たな資料や研究成果も提示されつつある。そこで、考古学、文献史学、歴史地理学など多分野から、古代東海地方を中心とした王権の動向を素材に、奈良時代王権の特質について、最新の研究成果を提示、議論することにした。

Ⅲ 開催概要(発表タイトルなどはいずれも仮題です)
1 日時  2008年2月2日(土)・3日(日)

2 会場 三重大学共通教育190番教室(六角校舎:共通教育2号館の南隣)
 
3 研究報告・討論
 
第1日(2日) 12:45~18:15
  開会挨拶 12:45~12:50 考古学研究会東海例会代表 中井正幸
  主旨説明 12:50~13:05  山中 章(三重大学) 
  第1テーマ:「聖武王権と東国行幸」
  天平十二年の「聖武関東行幸」を素材に、古代王権の行幸の本質、行宮設置場所からみた交通路、行宮の基本構造と地方官衙など、多角的に分析する。
(1) 基調報告  13:10~14:10 榎村寛之(斎宮歴史博物館)「古代行幸論」
(2) 研究報告-1 14:15~15:00 天野三恵子(京都大学・院)「聖武伊勢行幸論」
(3) 研究報告-2 15:15~16:15 山中 章(三重大学)「考古学から見た頓宮・行宮・離宮論」
(4) 調査報告  16:20~17:05 大崎哲人(滋賀県文化財協会)「粟津頓宮跡の発掘調査」
(5) ミニシンポ 17:15~18:15 「文献・考古資料からみた聖武東国行幸」司会山中 章 
  コメント 山田邦和(同志社女子大学)
  誌上参加 仁藤智子[日本古代の行幸]

 第2日(3日) 9:30~15:30
  第2テーマ:「古代王権と三関」
  三関である鈴鹿関・不破関・愛発関に関してはこれまで主に文献史学や歴史地理学から研究が進められ、三関の機能が議論され、その位置が推定されてきた。しかし、発掘調査事例が不破関の一部に限られ、その実態や具体的構造、遺構から見た機能については分析することができなかった。そうした中で、2006年度に鈴鹿関が初めて発掘調査され、建設時期や城壁の構造が詳細に判明した。ようやく考古学からも三関に関する論点を提示することが可能になったのである。そこで再度、三関とは何かを主テーマに、文献史学、考古学から議論を進めることにする。
(1) 基調報告  9:30~10:30 舘野和己(奈良女子大学)「三関論」
(2) 研究報告-1 10:40~11:25 永田英明(東北大学)「古代交通論」
(3) 研究報告-2 11:25~12:10 木本雅康(長崎外国語大学)「東海道・東山道論」
(4) 研究報告-3 13:00~13:30 村居喜道(名古屋大学・院)「古代伊勢国の瓦生産と供給」
(5) 調査報告  13:30~14:15 森川幸雄(亀山市教育委員会)「鈴鹿関跡の発掘調査」
(6) ミニシンポ 14:25~15:25 「文献・考古資料からみた三関」司会山中 章 
    コメント 鈴木拓也(近畿大学)
閉会の挨拶 15:25~15:30 次期開催地代表

4 情報交換会
  2日(土) 18:30~20:30 生協2階パセオ 会費4000円

5 参加確認
下記メールまで御連絡いただければ幸いです。
    
    yaa@human.mie-u.ac.jp

    2月2日(土)
     研究会      参加    不参加
     情報交換会    参加    不参加
    2月3日(日)
研究会      参加    不参加

④が会場の共通教育校舎①が三重大学正門の前にある本部事務棟です。④の前(南に瘤のように飛び出しているの)が190番教室です。よく見えない方はこちらへアクセスしてください(http://www.mie-u.ac.jp/map/campus/)。なお三重大学への交通はこちらへアクセスしてください(http://www.mie-u.ac.jp/map/traffic/)。近鉄(JR)津駅からバスで10分ほどです。なるべくお金を使わないように来るには普通か急行で近鉄江戸橋で下車、徒歩15分です。改札で三重大はどっち?と聞けば教えてくれます。




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三重大学校内遺跡鬼が塩屋遺跡からみた大学校内。看板も立っているので見に来てね。

比較都城研-2  悲しくて、恥ずかしい日本の史蹟の条

2007-11-28 01:45:22 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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近江路をご紹介する前に不愉快な話を先にしておこうと思う。
これをご覧下さい。



或いはもう慣れっこになっているかも知れませんね。それがまた恐ろしい!
これは国の史跡(他の文化財で言うなら重要文化財)近江国府跡に復原された施設内部のパネルの横の空間にされた落書きです。
なんの目的で、何が嬉しくてこんなことをするのか、私にはさっぱり理解できません。同じ施設の床には火を焚いた跡まであります。休みの日か夜にやってきてやるんでしょうね。
そんな子供の親は何をしてるんですかね。或いは塾にでも通っていると思っているんですかね。



夕闇迫る近江国庁を見学しました。なぜかいつも近江国庁に行くと暗くなってしまって、まともな写真が撮れないんです。悲しい!!



(これが落書きと焚き火の行われた復原施設です。まだ一年しか経っていないらしいんですよね。)

もちろん落書きする奴が悪いに決まっているんですが、この遺跡も何時行っても人がほとんどいない。せっかくのものが活かされていないような気がするんです。どこぞの大学で観光学部を設立すると言うんですが、観光が余りに商業ベースになってしまっていて、見に来る人の心もすさんでいるように思います。これでは観光が害になるとしか言いようがないんです。

本当の意味で観光学を教えるとするなら、こうした落書きや焚き火の横行する、ペンペン草が生えて人の来ない遺跡をいかに活用するかではないでしょうか。

私はその第一の原則は地元の方の関心だと思っています。

地域に根ざさない上からの史蹟指定(地域の要望を無視した史蹟指定も含む)は結局破綻します。近江国府跡は地方の遺跡が国史跡になった早い事例です。早くから公有化され、整備も行われました。言ってみれば文化財保護の模範例として私達にとってはとても有名な遺跡なんです。でもそれがこんな状態だというのはとても悲しい思いがします。

恐らく県の教育委員会の方もそれぞれの文化財担当者の方も苦慮されていると思います。軽々には言えないのですが、なんとか地元の協力を得る方法を考えていかないと駄目だと思います。しかし、それもこの遺跡単独では無理だと思います。次回ご紹介する関津遺跡・国分寺・尼寺・保良宮など広範囲なネットワーク化が必要ではないでしょうか。これらを遊歩道で繋ぎ、車に邪魔されず、ゆったりと歩ける道を整備すること、場所によっては動く歩道も装備すればいい。もちろん日陰のできる並木を道には植える。こんな史蹟整備でいつでも気楽に散歩できる史蹟コースこそ落書きや、焚き火をなくす基ではないかと思いますがいかがでしょうか。

(日の落ちた近江国府東区の木製基壇を撮ってみました。何処かうら悲しそうでした。)


ついさっきまで卒論に行き詰まった学生の指導をしていました。あと二ヶ月を切ったというのに、まだ資料も十分集められていずに・・・。
でもま、これが最近の国立大学の学生の現実です。ただ、昔と違うのは、やたらと人に頼ることです。自分で責任が取れないようです。そこがちょっと悲しい!!

学生よ、人生一度の大事業だと思って頑張れよ、と思ったらランキングよろしくお願いします。


比較都城研-1  久しぶりの恭仁宮の条

2007-11-27 19:37:40 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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1 何年ぶりだろう、10年以上来ていなかった恭仁宮(山背国分寺)へ行った。木津川市の芝野さんの案内で意外なことを沢山教えてもらった。


2 意外と綺麗になっていて驚いた。これなら訪れる人も気分よく見学できそうだ。それにしても絶好の観光シーズンだった11月23日の休みの日なのだが、だーれもいなかった。もったいない!!どうして日本人は「○○旅行」などと書いた旗を持って案内される?旅が好きなんだろう?あんなブロイラーみたいに社寺を見て回って楽しいのかしら?不思議な民族!!
ここは恭仁宮大極殿の基壇がそのまま残る場所。かつては村役場が建っていて、その西隣が山背国分寺という宗教法人だったんだって。その名残がこの祠だそうな。



最近文科省がやたらと観光学なるものを大学に押しつけてきているらしい。その流れに乗って、和歌山大学には来年から観光学部ができるという。和が大学のようになかなか変えられないのに比べればとてもいいことだとはおもうのだが、果たして学生に何を教えるのだろうか。だって、母体が経済学分ですよね。まさか「○○旅行」の参加者を増やす方法を教えるんじゃないでしょうね。

僕は世界遺産学科の設立を提唱しているんだけれどだーれも乗ってきてくれない。
誰が何を教えるのか?とか、世界遺産なんて三重県には熊野古道しかないとか・・・。だって、僕なんて、世界遺産の奈良や京都の遺跡を一杯研究しているし、来年にはヴェトナム政府が必死で登録を願っているハノイのタンロン宮殿跡の調査をするし、素材なんてごろごろしてるんだけどね。

三重大はやりそうにないから家の息子が勤めている京都文教大学で設立したら!なんて、昨晩息子に吹聴しておいた。京都や宇治なら一杯素材はあるし、学生だってそんなのに惹かれてくるんじゃないかな。もしできたらそっちへ移ろうかしら(できたら誘ってね)。
世界遺産学科でやること。
① 世界遺産の発掘調査・研究
② 世界遺産の保護・保存の方法論の確立
③ 世界遺産活用アイデアの開発
ウーン、楽しそうだなー。

3 これがその大極殿の礎石だよ。平城宮中央区大極殿から持ってきたものだということが『続日本紀』に書いてある。今から25年程前に京都府教育委員会が発掘調査をし、その基壇の規模などが一致することが判ったんだ。今平城宮で建設している大極殿はこれ。つまりあの大極殿は741年には解体されて恭仁宮へ移建されてしまい、その後、山背国分寺の金堂になったという数奇な運命を辿る建物なんです。それにしても巨大な礎石ですね。



4 当然この建物の周りは凝灰岩という二上山から切り取ってきた石で化粧されていたんです。その石を使ったのかも知れないという墓碑がひっそりと建っていた。



5 実は当日はこの大極殿の周りを囲っていた廊下(築地回廊という特殊な回廊)の跡を発掘調査中だったんです。残念ながらシートで覆われていたのですが、芝野さんの案内でとてもよく理解できました。それにしても築地の跡がないのは不思議でしたね。本当に削られてなくなってしまったのかしら。
瓦窯の跡も出ているとか。いつの時代のものかはこれから検討するらしい。早く判ればいいのに・・・。



6 私はここで奈文研で開かれていた「木簡研究の最前線」というシンポジウムで簡単な報告をするため出かけた。研究者達はこの後恭仁宮内裏を見学し、甕原離宮や和束にある安積親王墓を見て回ったとか。羨ましい!!特に安積親王墓は行きたかったな。



7 なんてったて、安積親王は私の考えでは最も有力な聖武天皇の後継者だったんですもの。ある日突然足の病気が悪化(脚気か)して亡くなったという可愛そうな皇子なんです。私は藤原氏に殺されたと思っています。その首謀者は光明皇后ではないかと踏んでいます。なぜか。彼が天皇になれば、折角無理をしてまで皇后にならせ、藤原氏の血を引く天皇を作ろうとしたのに、それができなくなるからです。
聖武はそんな藤原氏から逃れるように恭仁京を作り、難波京に遷都するのです。しかし、安積親王の死によって、聖武の夢は消えてしまいます。
745年、僅か5年間の「彷徨」が幕を閉じるには深いわけがあったのです。



明日は近江路を紹介します。

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NHK会長を私達の手で!!の条

2007-11-26 14:40:14 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
NHK経営委員会は安倍晋三前首相の「四季の会」のメンバーである古森委員長を初めとする委員が占有し、来年1月で任期の切れるNHK会長を自らの息のかかる人物をもって任命しようとしています。昨年来画策されている放送法改悪を先取りした、公共放送NHKを特定の政党や政権の報道機関と化す愚行と考えます。

私達は経営委員会の目論見を排し、視聴者自らが会長を選べるよう求めています。

下記URLにアクセスしていただき、多くの方が声を大にして会長の公選制を実施するよう求めていただきますことを是非ともお願い申し上げます。

http://space.geocities.jp/shichoshacommunity/
                      
**********************************
                         2007年11月26日
NHK経営委員会 委員各位
NHK次期会長選出に際しての申し入れ
                  NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
                      共同代表 醍醐 聰  湯山哲守  

 経営委員各位におかれましては、公共放送の経営と放送番組の向上のために、日夜ご精励のことと拝察いたします。
さて、一連の不祥事などに端を発したNHKの経営危機を克服すべく、NHKの新生と改革、視聴者第一主義を掲げて会長に就任した橋本元一現会長の任期が、来年1月末に切れます。
私たちは、公共放送NHKが国民的な世論形成と、放送の文化的役割を果たすうえで極めて重要な責任を負っていることを思うとき、次期会長の選出のあり方に重大な関心を寄せざるを得ません。
わが国ではこれまで会長の人事は、政府の意向や一部関係者の間で水面下で進められ、受信料でNHKを支える主権者としての視聴者・市民には、会長選出の経過すら知らされて来ませんでした。
公共放送の会長選出については、英国や韓国などの先進国で、会長の公募制や推薦制が実施され、新聞紙上などで活発な論議が交わされており、日本でも、現行放送法の枠内で、経営委員会の裁量で公募制を採用し、民意を代表する優れた人材を選ぶ道は開かれていると、私たちは考えます。
私たちは、NHK次期会長の選出に当たっては、会長の任命権を持つ貴経営委員会が、何にもまして視聴者・市民の意向を尊重しつつ、会長候補の公募制に踏み切り、広い視野から公共放送の責任者としてふさわしい適格者を選ぶ努力をされるよう、次のように申し入れます。
申し入れ
一、 会長に選ぶ人物の選出基準については、言論・報道機関の責任者として、放送の自主・自立の姿勢を貫き、ジャーナリズムと放送の文化的役割についての高い見識を持つ人物であることを柱にすえること。
二、 会長選出の審議経過の議事録を公開し、説明責任を果たすこと。
三、 経営委員会が公募した会長候補の中から会長を任命する公募制を採用すること。
以 上

氏  名 所  属 住       所




FAXの場合は、048‐873‐3520 へお送り下さい。
メール添付でお送りいただく場合は、shichoshacommunity@yahoo.co.jp へお願いします。

これ以上NHKが政権のいいなりになるのはもってのほかだと思ったら、ポチッとねよろしく

生まれて初めての条

2007-11-24 00:46:43 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 一昨日は生まれて初めての経験をした。
 なんと、肺にカメラを入れて中を見るというのである。

 まず思ったのが「どこから入れるのか?」
 次に思ったのが「息はできるのか」
 そして一番心配なのが「苦しくないのか」

だった。しかし現代医学の進歩はすごいですね、①は口から喉を通って、気管支に入れるが正解。②は問題なし!普通に楽々?できる。③は全く問題なし!!医者の方が大丈夫ですか?痛かったら手を挙げて合図をしてくださいね、と盛んに言うもので、いつか痛くなるに違いない!と終わりましたと言われるまでビクビクしていたのだが、結局どこも痛くなかった。

 むしろ、カメラを入れるための準備段階の処置の方がよほど痛かった。まず舌を痺れさせるために妙なゼリーみたいなものを嘗めさせられる。次いで、麻酔の一つなのか腕に筋肉注射をする。これが一番痛い(とは言っても私は最近注射慣れしてしまって看護婦さんが心配するほどは痛くなかった)、そして喉を麻痺させるために、医者が喉の奥に何度も何度も麻酔のスプレーみたいなものを浴びせかける。これにはさすがに度々オエッとなった。でも予想を遙かに下回る「オエッツ」だった。

 麻酔が罹ったところで、カメラを突っ込む。顔に水がかかるからと、目隠しをされ、楽しみにしていた肺の中は見ることができなかった。頭の上で、「もう採れたかなー」とか「大丈夫かなー」とか、まだ新米なのか数人の医者があれこれつぶやいている。

 時々咳が出たりはするのだが、胃のような吐き気がしない文楽だった。

 結構な時間をかけていろんな事をしたらしく、30分は優にかかった検査だった。結果は来週にならないとわからないらしいが、これで、原因不明の肺の影の由来がわかるとワクワクする。この前の入院もそうだったが、原因不明というのが一番厄介である。こちらの方は薬が効いたのか、今のところ、人並みの数値に戻り、全く心配ないという。ところが、それと引き替えに、最初の症状である肺の影が復活したのである。医者曰く「わからんなー」

 前回もそうだったが、今回もとてもラッキーに症状が確認された。滅多に受けない職場の健康診断。こんなもん受けてもへの突っ張りにもならんわ、と突っぱねていたのを、魔が差したというのか、そういう年頃なのか、よく判らないが、受けてみようと言うことになった。そしたら肺に影があるという。すわ一大事!なのであるが、本人は一番暢気である。全く自覚症状がない上に、一度消えた影が復活したのだから、原因は究明しやすいはずだ。

 そんな思いで検査は終わった。そしてやはり問題は検査ではなく、その後の麻酔などの後遺症?が酷かった。熱は出るわ、咳は酷いわ!散々でした。挙げ句の果てがぶっ倒れそうになって、夜中までうなされていました。その結果、5時には起きて6時過ぎの電車に乗らなければならなかったのだが、遅刻しそうになった。朝には爽快な気分に戻っていたもので、結局検査とはなんなんや!?といつもの通りぼやきだけが残ったのである。

 昨日は午前中恭仁京の大極殿一画や回廊、今のところ時期不明の瓦窯を巡り、午後からは内裏周辺を中止に、さらに京域全体を見学したらしい。
 私は昨日の予告通り、平城京で簡単なシンポに出席した。明日も早い、明日は紫香楽宮である。乞うご期待。

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公開シンポジウム 木簡研究の最前線-地下の正倉院文書を読む-の条 

2007-11-22 15:35:44 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
地下の正倉院、面白そうだなと思ったらランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 生まれて初めて内視鏡なるもので、肺の中を覗いてもらった。我が三重大学病院の呼吸器内科の若き?先生方が頭の上でごそごそ話すのを聞きながら検査を受けた。思ったよりきつくもなく、一番痛かったのは検査のための麻酔の注射だったくらいである。それにしても
 「さあ、これから気管を洗浄しますから少し咳が出るかも知れませんよ」だの、  「ア、これもとっとこうか、いやもうちょっと上かな」
等と、若き医者達は実に明るく、陽気に、暢気に検査をしている。
結果はまだわからないのだが、これでようやく5月末に発生した肺の影の原因が突き止められることになりそうだ。

 痛くも痒くもないのにこの間どれだけ沢山の検査をしたことか。これで何かわかれば私のこの身体も医学の発展に役に立ったということか。


 さて、そんな陰気な話は止めて、明日こんなシンポジウムが開かれる。
 最近の学術研究の成果を一般の方々にもわかりやすく出せとの国の方針から立てられたシンポジウムらしい。とは言っても中味は相当専門的で難しそうである。私は飛び入りのパネラーみたいなもので、木簡解読のとても困難な作業にさらに、木器としての木簡という視点を持ち込むべきではないかという話をするだけである。これまた相当難しい!ほとんど同じにしか見えない板を観察して識別せよと言う類の話である。古代史学者はもちろんのこと、考古学者からも余り関心を持たれていない研究分野からの発言である。
 
 これでもいつか何処かで役に立つこともあるだろうと思っている。その役立つと予想しているのが島根県隠岐島から奈良時代に送られてきた木簡の分析である。たった今、これを書いている最中にも出版社から催促の電話がかかってきた。こんなことをしている暇があるのなら早く書き上げて送りなさいよ!という東の方からの声も聞こえてくる。しかし私にはこれも大事な仕事、恐らく誰も知らないだろうこんな小さな?(失礼 奈文研の講堂が溢れかえるかも知れない大きなシンポかも知れませんが)シンポをちょっと宣伝しておこうかなって思ってパソコンに向かっている次第である。

 木簡に興味のある研究者の99.99………%は文字が記す記載内容に注目する。もちろん私もその仲間である。しかし、それでもわからない情報がある。

 木簡は誰が作ったのか?
 作った人間と書いた人間は違うのか?

 そんなことどうでもええやないかと言われそうだが、これが分かれば、当時の文字を読み書きできる層の広がりが推測できる。これがわかれば、地域によっては木簡を書いた人がどんな立場の人かもかなり具体的にイメージできるのである。

 そんな些細なことを話すために明日出かける。

*************************
公開シンポジウム
木簡研究の最前線-地下の正倉院文書を読む-

A 主題と目的
1 目的
①出土文字資料釈読の現場の作業等を公開することで、出土文字資料への関心を高
め、かつ理解を深める。→ 普段目に触れるのは「成果」だけ
②出土文字資料が、単に文字を読む作業だけでも非常に多くの労力を必要とするこ
と、省力化・効率化のために、電算機の積極的導入を進めていることを伝える。→
「なぜ時間がかかるか」「なぜ現物展示が難しいか」「なぜ人手がいるの
か」という点について理解してもらう。 データベース開発等、科研成果と積極的に結びつける接点とする。
③平城宮跡資料館における木簡展示と関連させる。→ 現物の展示と関連させて相乗効果を期待する

2 日時等
①日時11月23日(金) 勤労感謝の日 1330~1630(3時間)
②場所平城資料館講堂

3 主催等
 主催 奈良文化財研究所
 後援 読売新聞大阪本社

B シンポジウムタイムテーブル等
開会(1330)
あいさつ
Ⅰ 木簡解読作業の実例
木簡の出土・観察・整理・保存
奈良文化財研究所渡辺晃宏氏(1335~1400)
※現在実際に行っている、「木簡の取り扱い」をご説明します。
休憩(1400~1410)
 
Ⅱ 木簡解読の「デジタル革命」
1 人文系研究におけるデジタル技術の活用
奈良文化財研究所森本晋氏(1410~1430)
※人文系分野におけるデジタル技術活用の状況の全体状況をご説明します。
2 木簡解読支援システムの実現と課題
東京農工大学耒代誠仁氏(1430~1510)
※テレビや新聞でも報道され、注目を集めている木簡解読支援システム「mokkan
shop」の開発に関する報告を行います。
休憩(1510~1530)参加者からの質問用紙受付・整理
※シンポジウムで取り上げる話題とするため、会場から質問等を集めます。

Ⅲ シンポジウム木簡研究の最前線-地下の正倉院文書を読む-
(1530~1630)
パネリスト
 耒代誠仁氏(東京農工大学助教)
 早川保夫氏(読売新聞大阪本社文化部記者)
   ※研究者でない、一般市民を代表して参加していただきます。
 森本晋氏(奈良文化財研究所文化財情報研究室長)
 山中章氏(三重大学教授)
   ※考古学者の立場を代表して参加していただきます。
 渡辺晃宏氏(奈良文化財研究所史料研究室長)

司会馬場基(奈良文化財研究所研究員)

40年程前に発掘調査された内裏外郭から発見された土壙SK820の木簡が展示されています。これは必見ですよ。

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2708洛陽見聞録-6  福先寺はすごい!の条

2007-11-22 07:24:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
福先寺がこれ以上有名になるのもな・・・と思ったらここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。


① 洛陽城北東コーナー推定部を進む列車と畑


② 北東角を東へ約200mほど進んだところに福先寺はあった。ここでも山田博士の図が大活躍!!


③ 福先寺は既に閉まっていたが近所の方が中のお坊さんと交渉して入れてくれた。


④ 福先寺の由緒は格調高く、まだ入手できていないが安藤更生「洛陽大福先寺考」(『古代』第8巻7号1952年)等の専論がある。


⑤ 内部の由緒書きによると、天平の遣唐使として来唐した栄叡、普照の2僧が当寺で学び、鑑真招聘の契機を作ったという。空海も訪れたこの寺を今訪れる人はほとんどいない。


⑥ 寺の内部にはあちこちに礎石の残骸が転がっている。



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2708洛陽見聞録-5  建春門から福先寺への条

2007-11-21 18:55:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 写真が見つかったので今回は「写真で歩く建春門から福先寺」と題して洛陽城東外郭一体をご紹介することにしよう。もちろんこれまでの全ての写真がそうであるように転載自由ですからこれを頼りに是非一度洛陽城を歩いてみてくださいね。

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① 建春門から真っ直ぐ西に延びる建春門路を東から見る。この先1.5kmに南市がある。ちなみにこの両側に広がる小さな村の名前は新華街で、線路の向こう東側が太平街である。


② 建春門の目印は洛陽から東へ向かう鉄道の線路側にそびえるこの給水塔である。もちろんにたような給水塔は村々にあるのだが、この給水塔は鉄道のガードを東から西へくぐった直ぐ南にそびえている。



③ この給水塔の辺りを東外郭の城壁が通っていると推定されているのだが、これに沿うようにして幅5mほどの河川が南北に流れている。城壁の内外にあった濠の址ではないかとも思うのだが、確証はない。



④ 建春門路をさらに西に進むと次の南北路に出る。名前は不詳だが、恐らくこれが次の懐仁坊と綏福坊の間を南北に走る道の痕跡であろう。もちろん道はさらに西へと南市の方向に伸びており、今も村人達が東西に移動する重要路として使われていることがわかる。

-1 研修門路を西へ


-2 次の南北路


-3 建春門路はさらに西へ南市まで


⑤ 建春門から想定東城壁に沿って北へ進むと土手が南北に延びている。すわ東外郭の残存か?と小さいという。この地割りはなんだろう?

-1 しばらく土手と水路が平行して北へ延びる。


-2この辺りで道は消える。


⑥ 建春門の東側の集落の庭先にはあちこちにこうした礎石や基壇化粧の石材が点在している。恐らく見聞録ー3で見たような永通門の礎石も何処かにあるに違いない。

-1 線路際のトウモロコシ畑の中に認められる石材



-2 民家の庭先に転がる基壇化粧の石材か?


-3 ホゾのある石材


⑦ 再び洛河を渡って外郭北東隅へ向かう。続きはまた明日ね。


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2708洛陽見聞録-4  やっと発見建春門の「写真」条

2007-11-21 01:50:05 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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 実はブログが中断した大きな原因が怒濤の二ヶ月にあったことは言うまでもないが、つまづきのきっかけが、「洛陽見聞録-3」で予告した建春門報告のための私の写真が何処かへ消えてしまったことにもよるのである。
 その後同行した先生から写真をお借りしてスキャナーで取り込み、ようやく手元にその写真の一部が手に入ったのだが、時既に遅し、怒濤の激務にお借りした写真すら使えないで2ヶ月が過ぎたのである。

 さて建春門に通ずる東西の道建春門路は、洛陽城左京の都市民の通行したメインストリートであった。建春門から西へ懐仁坊、綏福坊、永泰坊と約1.5km進んだところに南市がある。現在もとてもよく残っていて、村人達のメインストリートとなっている。建春門そのものの位置は諸説あるのだが、①現在の鉄道のガードを西へ越えたところ、②ガードの辺り、③ガードを東へ越えたところ等々、案内していただいた陳先生の説では洛陽城の外郭城壁はさほど大きな規模ではなく、基底部が3m位のもので、かつての調査ではガードを西へ入った北側の畑からその痕跡が出ているという。


(建春門推定地を西から見る)
 
 これが事実だとすると、洛陽城の羅城は築地程度の大変規模の小さな、防御性にも欠けるものだったことになる。なぜだろうか?
 建春門推定地のあちこちを歩き回ると線路の東側を中心にかつて門に用いられたであろう礎石や基壇の加工石材が散乱している。或いは甕城のように少し外に飛び出した門だったのだろうか。こうした点を確認するためにも測量が必要だと思うのだが、叶わないらしい。残念だ。



(建春門推定地の西側付近を南北に流れる川岸に用いられた石碑)
 
 建春門から西へ500m程進んだところに南北の道が残っている。恐らくこれが懐仁坊と綏福坊の間を南北に走る道の痕跡であろう。これも測ってみたい道である。
 ところで、建春門の直ぐ近くには公衆トイレが置かれている。相変わらずのオープンなトイレで、私が入っていたときにも村の若者がタバコをくわえながらズボンを下げようとするので、慌てて外に出た。人のいないところで写真を撮りたかったのだが、・・・。もう一つ残念だったのはこの近くで遊んでいた子供が突然しゃがみ込んでうんちをしだしたのである。
 「オーこれぞ『餓鬼草紙』伺便餓鬼の世界だ!と感動して写真を撮ったのだが、これまた何処かへ消えてしまった。悲しい!!


(可愛い坊やだった。これが普通の世界なんだろうなと思った。)


(うんちはちゃんとトイレでするんですよ、と言っても仕方がないよね、トイレも大して綺麗じゃないんだもの・・・・?)

 もっともっとここで探索したかったのだが、急いで次なる地点外郭城の北東の隅へ出かけた。上東門のさらに北、北東隅はこれまた洛陽城の特徴で、鋭角に折れ曲がっていた。線路と線路の間に挟まれて畑が残り、今の内に掘ればその姿を目にすることができるのだが・・・。
 そんな思いを抱きながら、直ぐ近くにある洛陽城でも著名な福先寺へ行った。空海も訪れたことがあるという名刹はもちろん古の姿は既に失っていたが、わざわざ開けてくれた伽藍の内部に入るとあちこちに往時の礎石が散乱していた。733年、天平の遣唐使として来唐した僧

 ここまで書いて急用ができた。やむなく中段である。

 4時間後、再開するために使えそうな写真を予め画像フォルダーにコピーしようとあちこちのフォルダーを探し回った。その時ふと目に留まったのが、建春門の直ぐ横を流れる河に降りるための階段に使われていた石碑の写真だった。

 「これ、借りた写真かな・・・?」

さらに数枚めくっていくと
 「出た!裸の幼児の写真だ」

エッ、ひょっとしてこれ、行方不明の写真?ドキドキしながら次々と写真を繰った。間違いない!出てきたのだ。

 福先寺に滞在したのは鑑真を日本へ招聘しようとして渡航した栄叡と普照だったことが判明した。2ヶ月の空白もあながち無駄ではなかったことになる。もしあの時点で諦めてブログを更新していたとしたら、恐らく当分の間は画像フォルダーのこの日の部分を見ることはなかったであろう・・・・。
 そう思うとブログに不思議な縁を感じてしまう。


(福先寺は733年に遣唐使として派遣された栄叡や普照、804年に渡った空海なども訪れた著名な寺である。今も数人の僧侶がひっそりと暮らしている)

 さあ、明日から改めて洛陽見聞録を再開することにしよう。

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怒濤の2ヶ月の条

2007-11-20 06:34:55 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
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今日19日は妹の誕生日であった。

生きていれば57歳だ。
8年前に49歳で亡くなった妹の存在は大きかった。
そのことを今ひしひしと感じている。
母が原因不明の病に倒れ、もう1ヶ月ほど食事が取れず、点滴で過ごしている。
見舞いに行っても辛そうで、時には「もう・・・」とまで言う。
83歳になる母が、それでなくても少し足が不自由になりつつあったのに、この1ヶ月で歩くことはもう不可能だろう。
妻が一生懸命看病し、母もそれに応えようとしているのだが、最も頼りにしていた妹を早くになくし、気力が失せかかっているように思える。

悲しい。


(11月18日(日)東京の東商ホールで今回の歴博展示に関するフォーラムが開催された。朧谷寿先生のお陰で作家の永井路子さんをお呼びすることができ、お二人に桓武朝から嵯峨朝を語っていただいた。会場は事前の申し込みで680人が一杯となり超満員のはずだったが、事務局の判断ミスで、後方に空席が目立った。どれだけ入るかよりもいざなんかあったときの責任が気になるのが事務屋さん。悲しい性。でも楽しいトークのお陰で午前中は大盛り上がりだった。)


とうとう空白の1ヶ月ができてしまった。
おそるおそる自分のブログを開いてみて、その最終記載日を見てみるとなんと9月21日とあった。59歳になってからブログが止まっていたのだ。

丁度2ヶ月である。この2ヶ月が余りに多忙であった。
9月18日 亀山市分布調査に伴う笹ヶ平古墳の墳丘発掘調査と滑り石古墳の確認調査の開始(28日終了予定が予定より早く、25日には終了)
9月22日 木津川市で講演会
10月1日 後期授業開始
10月5日から7日 愛媛大学にて研究発表
10月9日 国立歴史民俗博物館にてオープンする「長岡京遷都~桓武と激動の時代展」内覧会
10月13日 国立歴史民俗博物館「長岡京遷都~桓武と激動の時代展」講演会
10月14日 同上ギャラリートーク
10月18/19日 大宰府史蹟指導委員会
10月20/21日 放送大学三重学習センター面接授業
10月22日 木簡学会委員会
10月23日 伊勢湾・熊野地域研究センターにて洛陽調査成果の報告
10月27日 姪の結婚式
10月28日 大阪府埋文センター講演会
11月3/4日 広島での会合出席
11月5日 大学祭後の休み日を利用して学生を正倉院展・平城宮跡発掘現場、平城宮跡資料館に案内
11月10日 第9回壬申の乱ウオークバス2台100人で伊賀・信楽へ
11月11日 三大学学生交流会で報告


(フォーラムの会場はなんと皇居のすぐ前だった。当日は東京国際マラソンが実施される日で、朝早くからパトカーが走り回っていた。)
11月18日 国立歴史民俗博物館「長岡京遷都~桓武と激動の時代展」関連歴史フォーラム

来週の連休も科学研究費の分担研究者として、恭仁京・紫香楽宮・保良宮を踏査しなければならない。その上23日には奈文研でのシンポジウムで発言を求められた。
 それもこれも重要なことばかりなのでお断りすることはできないし、とても勉強になった。
 もちろんこんなの秋にはよくあることだから、そんなに大袈裟に言うことではないのかも知れない。
 ただ大半が発表がらみなんのでその前後の準備などに相当な時間を取られ、緊張のしっぱなしだった。例の病が再発しないか心配したが、頑強な肉体はそれを跳ね返してくれた。早く冬休み、お正月と言いたいところだが、沢山の原稿が待っている。頑張らねば!!
 
 そんなわけで、この間の情報をお伝えするため、少しづつブログを復活させようと思う。またよろしく。

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