yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

愛宕念仏寺羅漢さんお参りの条

2015-06-19 12:34:42 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は久しぶりの10年会でした。それに先立ち、10年会の中心だった故安藤栄里子さん作の羅漢さんの眠る愛宕念仏寺にお参りしてきました。

 お姉様のお話にユアと、もう三五年ほど前、愛宕念仏寺の復興を市民と共にと願った再興者西村公朝さんが五百羅漢を市民に彫ってもらって境内に置こうと考えられた。その公募にいち早く賛同されて参加されたのが安藤栄里子さんのお母様。ところが素人が石仏を彫るのは結構な難関。助けに入ったのが当時まだみんな元気だった三兄姉。まだ小学生だった栄里子さんも参加してできたのが以下の羅漢さん(どれか判りますか?)。

 愛宕寺は元々山背国愛宕郡に称徳天皇によって建立された寺だという。ところが当初の伽藍は鴨川の氾濫によって流失し、平安時代前期後半に千観によって六波羅付近に再建された寺に源を発する。ところがこれもいつしか廃寺と化し、ほとんどその偉容を失っていた大正11年に現在の地に移されたのだという。しかしその再興もうまくいかず、再び荒れていたのを、三十三間堂千手観音の仏像修理他全国の国宝級仏像の修理を手がけ、後に僧侶となった西村が、清水寺貫主大西良慶の勧めで再興にあたったのが今日の姿だという。

 たまたま日曜日は長く続いている十年会の久しぶりの集まりである。聞くところによると、十年会を引っ張ってきた故安藤栄里子さんがこの寺に羅漢さんを埋納したと聞く。そこで始まる前にお参りに行こうと言うことで有志で参ったのであった。

 事前にメンバーでもある安藤操さんに場所をお伺いしておいて、お寺へと向かった。

愛宕念仏寺の山門


説明板


本堂とその前に並ぶ羅漢さん達


安藤さんから事前に写真はもらっていたのですが、いざ来て見るとなかなか見つけられない。ウーンこの辺りなんだがなー・・・・


目標になるのが首をかしげた三列目の羅漢さんだというのでそれを探す。
どれもよく似ていてなかなか見つけられない・・・。オッツこれは似てる。首をかしげている左隣がそれだというからこれかな?!


 山裾にあるので、どれも山水の浸透で苔むしているのでなかなか判らなかったがついに突き止める。頭の苔は髪の毛のようなので残し、お顔をきれいにすることに。手で少し苔をむしり、カビのような苔も取っていくと眉毛や口、目のラインが何となく浮かび上がってきた。そこで奥の手?を。背広のポケットから出したのが例の歯ブラシ。たまたまもう棄てようかと思っていた歯ブラシと使用中の歯ブラシ二本があったので、その一本を使うことに。
 「安藤さんご兄姉、ごめんなさいね。」こうお詫びしながらゴシゴシ。
最後はお線香を捧げてお祈り。
 

 山際にない羅漢さんはこの通り。背中に彫られたお名前も読める。


本堂側から見ると。


再興した西村公朝さんのお墓。羅漢さんを上から眺めておられる。


 鐘をついて、お参りを済ませ、降りてくると丁度バスがいったところだったので、少し歩くことに。当日はとても蒸し暑くて、途中で休憩することに。嬉しいことにいちごのかき氷があった。躊躇なくこれを選択。美味かった。蜜の味は昔と全く変わらないが、少し違うのは上にミカンの缶詰から取ったミカンが数きれ乗っていること。そして中程にアイスクリームが仕込まれていること。だから贅沢なのだ。食べ終わる頃には身体が冷えてきて、大急ぎで外へ。
 

苔茂る羅漢の眉を刻む妹

愛宕から移りし羅漢苔茂る

妹たちの刻みし笑顔苔の花

五百羅漢 苔茂って妹が貌

 結局下まで歩くことに。久しぶりに清涼寺の境内を歩いてバス停へ。


 バスは道が混んでいて時間がかかったが無事十年会会場へ。本日は高級焼き肉。朧谷先生は体調を考慮して魚コース。ちょっと心配したが、この後いつもの二次会へ。終わったのが23時頃。でも事前に頂いた安藤薬局の漢方薬のお蔭で朝まですっきり。二次会にて。
 

 二次会が終わって出ようとすると山田博士が猛然と二回まで駆け上がる。何事かと思うと、二階の廊下でこんな展示が行われていた。もちろん全部レプリカなのだが、ホテルのロビーにこんな展示はとても珍しい。

 懐かしいガラス製釧


鏡のレプリカや環頭大刀まで。


何とも充実した一日となった。

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犬山市木之下城伝承館・堀部邸見学の条

2015-06-13 16:20:05 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 一昨日は犬山市にある堀部邸を見学してきました。
 特定非営利活動法人 古代邇波の里・文化遺産ネットワーク (赤塚次郎さん代表)が管理・公開する武家風屋敷です。明治初期(1883年)に財をなした堀部勝四郎が武家屋敷風の建物として建築した施設だという。その後離れなどの施設が付属増築されて現在にいたり、暫く管理が十分でなかったために荒れ放題であった施設を上記法人・通称「ニワ里ネット」が再整備を行い、今年から管理、活用することになったという。

 三重大学の卒業生がニワ里ネットの学芸員として勤務しており、以前から一度見に来るようにとの誘いを受けていたのが実現したものだ。

 6月3日オープンに会わせて紹介された朝日新聞の記事( http://www.asahi.com/articles/ASH5052VQH50OBJB003.html )によると以下のような特長があるらしい。
 
 犬山市にある国の登録有形文化財「旧堀部家住宅」が生まれ変わった。NPO法人が運営する「木之下城伝承館・堀部邸」として再始動し、一般公開も始まった。織田家の居城で、国宝犬山城の前身とされる木之下城を核に、町の新たな情報発信拠点を目指す。

 堀部邸は、犬山藩主成瀬家の家臣だった堀部家の住居。約1340平方メートルの広大な敷地には、木造2階建ての主屋や、養蚕に使われた作業小屋などが連なる。古いものは1883(明治16)年の築とされ、2006年、6件の建物が国の登録文化財になった。

 09年に建物を譲り受けた犬山市は、民間団体に貸し出し、建物展示やカフェなどの活用策を試行。今年4月、古墳など歴史遺産を活用した事業を展開するNPO法人「古代邇波(にわ)の里・文化遺産ネットワーク」(ニワ里ネット、犬山市)が3年間の管理・運営権を得て、本格的な活用が始まった。

 廷内に展示されていた堀部勝四郎夫妻?


 管理団体であるNPO古代邇波の里・文化遺産ネットワークのHP (  http://niwasato.net/home/ )でも詳しく紹介されているほか、あちこちで紹介されている。( http://horibetei.jimdo.com/ )

 以下昨日撮影した写真でその概要を紹介しておこう。写真よりもぜひ一度出かけて現物を見ていただければその魅力に引き込まれるに違いない。

  場所は国宝犬山城の城下町の南の外れ。正式名称は木之下城伝承館・堀部邸である。犬山城下町が形成される前に南部には木之下城が東西200m、南北350m程の範囲に形成されていたという。

 

その木之下城の西方部に設けられたのが堀部邸である。

 玄関
 
 特注のれん
 
 
 表庭
 
  
 
 
 中庭
 
 ボランテアの方々が荒れ放題だった庭をこの様に美しく整備して下さったそうです。


 トイレ


 離れ
 

 台所
 

 井戸
 
 今でも少し水がしみ出しています。
 

 女中部屋に使われていた渡り廊下部分です。わずか二畳の狭い空間です。かつて調査した長岡京左京の兵士の駐屯地も一人あたり二畳でした。イギリスのハドリアヌスウオール警護のためのフォートの兵士居住空間もそれくらいでした。二畳が人間の居住限界空間なのですかね。
 

 改装して近代的トイレに
 
 

 現代になって風呂に改装されたそうです。
 

 藏はギャラリー空間に利用
 
 
 
 堀部邸は国の登録文化財なのですが、様々なイベントに利用できるよう工夫されています。
 三時間利用して500円という格安でもあります。

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長岡京歴史散策の会の公式ブログ(HP)が誕生しましたの条

2015-06-07 23:52:20 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 長岡京歴史散歩の無事の出発を祝って、専用のブログとメールを作りました。
 今後はこれらを用いて行事の連絡や予定をお知らせすることにします。
 ぜひ一度覗いてみて下さい。
ブログ

 http://blog.goo.ne.jp/ngaokakyourekisisannpo

gmail

 nagaokakyourekisisannpo@gmail.com


 主にこの二つの事業を運営するための「長岡京歴史散策の会」も立ち上げることにしました。まだ、具体的な運営方法や運営者は定まっておりませんが、今後教育委員会の後援などをお願いするときに「会」と「代表」などがないと申請しにくいことを想定して作ることにしたものです。

 当面の事業は「長岡京歴史散歩」と「連続講座長岡京歴史よもやま話」を実施していく予定です。
 

 「連続講座長岡京歴史よもやま話」は現在詳細を詰めているところで、基本的に長岡京を主テーマに関連する考古資料や文献史料に関連する情報をスライド写真(パワーポイント)にまとめ講義と質疑応答による講座形式の事業の予定です。これも当面は私が講師を務めますが、いずれ、関係する研究者の方や調査関係の方にも参加してもらえればと考えております。

 とりあえず私が用います資料の大半は、三重大学時代に「教養部」の学生達に講義した考古学や古代史学の基礎的な資料をアレンジしたものとなります。
 車座になって、時にはお茶でも頂きながら気楽なサロン的な場にできればと思っております。

 詳細は数日中に発表します。乞うご期待!!


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第1回長岡京歴史散歩報告の条

2015-06-06 09:49:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 酷暑のなかたくさんの方に参加いただいた「長岡京歴史散歩」、ひとまず無事出発することができました。
 いろいろな人と再会することができ、応援の言葉も頂戴し、継続することに自信が湧いてきました。(懐かしいこんな方にもお会いしました!(お互いに歳を取りました!(笑)でもこうやって写真写りをみると体形は全く変わっていませんね。小学校の先生を辞めてしまって、今は自由人だそうです。)

 第1回の主な散策地は都の中軸である大極殿・朝堂を中心にその西側に広がる施設群でした。

〈第1ポイント・出発地点は朝堂院西第四堂跡です〉 国史跡朝堂院西第四堂跡及びその前方から発見された回廊・門闕跡を見学し説明しました。
「長岡京歴史散歩」を開催する趣旨は、発掘調査によって得られた情報を正確に、しかしわかりやすく伝え、情報を解釈する様々な視点を紹介して、市民の方々にも考えてもらうことにあります。。
この間たくさんの発掘調査が行われ多くの成果が出てきたのですが、私の感覚では余りに一方的な視点が強調され、特定の解釈だけが紹介され、あたかも決定的事実であるかのごとき説明が展開されてきているという危惧です。
 朝堂院前の回廊に付属する門闕も、詳しい検討もなされずに「」付きではあるのですが、「翔鸞楼」とされています。翔鸞楼は平安宮朝堂院の南門・応天門の西に付属する楼閣施設であり、その名称も含めて明らかに後世のものです.また、門闕がなぜ長岡宮朝堂南門に付属するのかについても何の議論もないまま、「桓武天皇による創建」とされて一般に流布されています。本当にそうなんでしょうか。限られた考古資料ではありますが、出土した瓦は難波宮で使用されたものが相当率含まれています。整地の解釈も慎重さが求められています。聖武朝難波宮に設置されていた施設を移建しただけということも十分検討しなければなりません。ある特定の見解だけを基に市民に説明を押しつけることが公共機関として正当なことなのか、少し疑問に感じています。説明ではそうした異論のあることも紹介しました。

 ガイダンス施設では「AR長岡京」という遺跡の3D復原をみるため、専用タブレットを借りて実体験してもらいました。コンピューター上で復原された3Dの朝堂院や門闕は相当な迫力があり、見学者に感動を与えました。特に、復原された施設群を様々な角度からみながら、遺跡を歩き回り、往時の偉容を辿る手法は、これまでの大金が注がれている割には安っぽい実物大復原よりよほど迫力があります。久留倍遺跡の整備がどうしてこの方法をとらなかったのか、本当に残念でなりません。

〈第2ポイントは朝堂と地鎮祭跡です〉 西第四堂から西の道路跡に出て宮内道路想定地を北上しました。調査や保存に私も含めた多くの人が苦心し、工夫し、苦労した朝堂院西第三堂・第二堂跡を見学し解説しました。西第二堂跡の一部が残る幼稚園前では、西にできた勝山中学校体育館での調査成果を紹介しました。発掘調査によって、乙訓郡衙跡→長岡宮第1次造成跡→地鎮祭跡→長岡宮第二次造成跡を確認することができ、長岡宮城の造成が大規模かつ計画的に進められた姿を明らかにしました。長岡宮城の造成が「ひな段」造成などという意味不明の造語で語られていますが、決して特異な造成を行って中枢部域や官衙域を形成したわけではないことはこの初期に行われた造成の様相から明らかなのですが、近年の調査担当者は新語がお好きなようです。
 ただし、失敗したのはその想定復原図を資料に入れておかなかったことです。何せ、資料を作るのも一人でしましたから、とても複数の資料を挟み込む余裕がなかったのです(言い訳は見苦しい!!(笑))。次回からはもう少し丁寧な資料作りに注意を払います。今回はお許し下さい。

〈第3ポイントは嶋院・島坂・島町・滝の下です〉 西第一堂のところで西に折れ、推定饗宴施設跡の眠る勝山中学校校庭を横目に見ながら島坂のある五辻へ向かいました。今回の散策の焦点となるポイントです。
 近年盛んに長岡宮の西辺部に当初の内裏・西宮があったという説がまことしやかに叫ばれています。文献研究者の中にはこれを積極的に支持する人も出てきて、あたかも市民権を得たかのような様相です。一般書や一般講演会でも主張され、多くの市民がそう信じておられるようです。しかし、これはあくまで特定の人物による仮説であって、まだまだ十分な検証を経ていません。断定できるものではありません。そこで、余談と偏見は置いておいて、その主張されている西辺部をじっくり歩いて市民に体感していただくことにしました。
五辻を南北に通る道はかつて西国街道と呼ばれた道で、長岡京期には朱雀大路の二本西、西一坊坊間大路の跡にも相当します。実はこの事実がとても軽視されているのです。
 五辻から南は急な下り坂になっており、中山修一氏の研究などでは、この坂こそが「島坂」に相当するのだとされています。当日は、島坂を北から見た後、五辻を西南西に延びる坂道を下っていくことにしました。坂道の南が小畑川の旧流路の痕跡であり、私が嶋院の苑池の跡と推定しているところにあたります。坂道に沿って長岡(向日丘陵)の南端の崖が露出しているのが見え、長岡宮が相当な丘の上に建設されていることを実感することができます。坂道がやや緩やかになる地点の崖際が滝の下です。参加して下さった元上司の島光男さんはこの辺りに住んでおられ、子供の頃は崖からこんこんと水が湧いていたと教えて下さいました。


 
 ここで参加者の中から思いがけない「つぶやき」を耳にすることができました。

 「そうか、だからこんなに大きな楠木がこんなところに育っているのか!!」

確信に満ちたその声の主は乙訓地域で造園業を営む方でした。乙訓の有名寺社の庭園の整備を積極的にやっている元気な方で、乙訓の地形は熟知しておられるのですが、さすがに我々がやる考古学の世界まではご存じないので、今回参加して初めてこの地がかつての河跡だと知られたのでした。彼曰く、地下に伏流水がたくさんあるから楠木はこんなに大きく育つことができたのだ!、と。

 やはり多様な見方が必要だな、とこの時強く感じたのでした。

嶋院の池が設置されていた可能性が高いと考えている長岡崖下の小畑川旧流路跡。今はこの様にびっしり家が建てこんでいるが、かつては壮麗な池が設置され、貴族達が儀式に臨み、饗宴を楽しんだところだと思うと気持ちも昂ぶる。



 滝の下の崖際まで降りて、今度は向日神社の本殿の裏へ崖下から急な階段を一気に昇ることにしました。しかしこれも良くなかったかもしれません。お年を召した方が相当いらっしゃって、本当に申し訳なかったと反省しています。ただ、皆さんこの道の存在を余りご存じなく、神社の裏がこの様になっていることに驚かれていたことは、目論見が当たったと言えます。
私の狙いはこの急な崖こそ、長岡宮城の西大垣なのだということを実感していただくことにあったのです。西大垣としての機能を自然地形を巧みに利用しているのだということを実感していただけたら成功だったのです。次回感想を聞いてみましょう。

〈第4ポイントは宮城西大垣推定地から見た崖下の施設群です〉 参加者の中には以前から疑問に思われていた方も相当の数いらっしゃって、
 「丘の上から丸見えなのにそんなところに「西宮」を造るのだろうか、不思議に思っていた」といわれます。実際に丘の上から見てその思いはより強くなったようで、「これは危険すぎるわな」という感想を一様に持たれました。
 向陽小学校で見つかった複廊遺構を「西宮」だとする人々は、一様に、宮城大垣を小学校の校庭の西端で検出された築地塀だとされます。丘の上の元稲荷古墳あたりが条坊制に従って推測する西大垣なのですが、なぜか、この位置に西大垣を想定することを拒否し、妙な形の宮城を復原するのです。
 つまり、向日神社や元稲荷古墳のある丘の上は右京域だというのです。不思議な説ですね。長岡宮城は丘の上から丸見えなのです。おまけにその崖下に天皇が日常的に住まいする内裏(「西宮」)があるというのです。信じられない説だと参加者の多くは納得して下さったように感じました。参加されなかった方こそ是非確認していただきたい事実なのですが、どうですかね。

 少なくとも「西宮説」が絶対でないことは伝わったように思います。目的の大半はこれで達せられました。

〈第5ポイントは私が考える当初の内裏・「西宮」跡です〉 複廊遺構の場所を確認し、複廊が東へ大きく伸びるという説に不利な宮内西一坊坊間大路西側溝の存在も紹介し、さらに東に向かって坂道を西宮・大極殿に向かって下っていきました。ここでも側溝を示す資料を添付しなかったのは私のミスです。第1回目はいろいろな課題を私に突きつけました。と同時に思ったことはこうした様々な作業を久留部官衙遺跡を考える会の皆さんは34回も、とても丁寧にやって下さっているのだ、ということを再認識しました。感謝申し上げます。



大極殿跡の公園が西側に拡張されるようでその工事の準備が始まっていました。長岡京研究の創始者のお一人小林清先生のお宅が史跡指定されたそうです。最近大極殿後殿が調査され、そうした成果も西宮との関係からご紹介しました。


大極殿の南の宝幢跡も注目の的でした。この20年余りで大極殿一帯がとてもよく整備されていっていることに感銘すら覚えました。ありがたいことです。




 本当は大極殿公園の石碑の下で記念写真を撮るつもりだったのですが、説明する内にすっかり忘れてしまい、大半の方が帰られた後、わずかの方で解散場所の西第四堂跡で記念写真を撮りました。これも失敗の一つです。なかなか何でもやるのはこの歳になると難しいことを実感しました。誰か、次回は写真係をしてくれないかな。また、今回の写真をお持ちの方は是非私まで送って下さい。コメントにその旨書いていただければ送り先をお伝えします。



 まだ報告しなければならないことはたくさんあるのですが、明日朝一番に病院で診察があるのでこれで休みます。
 次回はもう一つの新しい行事をご紹介します。乞うご期待!!


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 第2回は2015年9月26日(土) 12時45分阪急電車京都線 西山天王山駅改札口集合で、長岡京右京の経済的拠点、西市及びその関連施設を歩きます。旗持ちが欲しいので是非たくさんの若者の参加を願っています。


第1回「長岡京歴史散歩」50人で出発の条

2015-06-01 12:05:05 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 5月30日土曜日は記念すべき第1回長岡京歴史散歩の開催日でした。

 不安が二つ。
 1 天候
 2 参加者

 1の不安は雨だったのですが、結果的には雨が降った方がよかったと思えるくらいの晴天でした。とんでもない暑さで、おそらく30度は超していたと思います。一緒に歩いて下さった方には本当にありがたく思いました。



 集合場所の朝堂院第四堂跡のガイダンス施設は一杯でした。


 2の不安が参加者でした。事前広報を十分に行えなかったので、どれだけの方がおいで下さるのか、全く読めませんでした。ところが、前日に京都新聞が大きな誌面を割いて掲載して下さったのです。京都新聞楽再総局の記者の方にはお礼の申し上げようもありません。本当にあちこちの方々のご援助で実現することができました。感謝!!です。

 京都新聞洛西版5月29日朝刊

 また思いがけず、中山修一先生のご長男の忠彦様が参加下さったほか、向日市教育委員会時代の元上司島光男さん他、懐かしい方にもお会いすることができ、さらに、今後のお手伝いも申し入れて下さり、なんといえばいいのか、本当に嬉しいことばかりでした。
 ブログを見たとかで静岡からお出で頂いた方や、久留倍遺跡にいつも参加下さる方、三重大学の学生も一人参加してくれ、とても多彩な方々と歩くことができました。
 研究者仲間の吉水葉子さんにはご夫婦で参加下さり、旗持ちやら準備の手伝いやらいろいろなことをしていただきました。特に、終了後、帰り道だからと、幟やら、マイクやら、資料の残りやら、それなりにたくさんあった荷物を自宅まで届けて下さりました。後から思うとこのたくさんの荷物を手に持って電車で帰るのは大変だったな、と、より感謝の念で一杯になった次第です。いつかお礼の席を設けなければ。

 もちろん幟も大活躍しました。電車に乗って手に持って行くには重いので3本にしたのですが、5本持って行けばと後悔しました。

 



 ちょっとこれから出かけるので、散歩の内容や次回の開催予定、新しい企画についてはまた明日ご報告いたします。ご期待下さい。 

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