yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

2708洛陽見聞録-5  建春門から福先寺への条

2007-11-21 18:55:36 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 写真が見つかったので今回は「写真で歩く建春門から福先寺」と題して洛陽城東外郭一体をご紹介することにしよう。もちろんこれまでの全ての写真がそうであるように転載自由ですからこれを頼りに是非一度洛陽城を歩いてみてくださいね。

洛陽城、歩いてみようかなと思ったらランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。


① 建春門から真っ直ぐ西に延びる建春門路を東から見る。この先1.5kmに南市がある。ちなみにこの両側に広がる小さな村の名前は新華街で、線路の向こう東側が太平街である。


② 建春門の目印は洛陽から東へ向かう鉄道の線路側にそびえるこの給水塔である。もちろんにたような給水塔は村々にあるのだが、この給水塔は鉄道のガードを東から西へくぐった直ぐ南にそびえている。



③ この給水塔の辺りを東外郭の城壁が通っていると推定されているのだが、これに沿うようにして幅5mほどの河川が南北に流れている。城壁の内外にあった濠の址ではないかとも思うのだが、確証はない。



④ 建春門路をさらに西に進むと次の南北路に出る。名前は不詳だが、恐らくこれが次の懐仁坊と綏福坊の間を南北に走る道の痕跡であろう。もちろん道はさらに西へと南市の方向に伸びており、今も村人達が東西に移動する重要路として使われていることがわかる。

-1 研修門路を西へ


-2 次の南北路


-3 建春門路はさらに西へ南市まで


⑤ 建春門から想定東城壁に沿って北へ進むと土手が南北に延びている。すわ東外郭の残存か?と小さいという。この地割りはなんだろう?

-1 しばらく土手と水路が平行して北へ延びる。


-2この辺りで道は消える。


⑥ 建春門の東側の集落の庭先にはあちこちにこうした礎石や基壇化粧の石材が点在している。恐らく見聞録ー3で見たような永通門の礎石も何処かにあるに違いない。

-1 線路際のトウモロコシ畑の中に認められる石材



-2 民家の庭先に転がる基壇化粧の石材か?


-3 ホゾのある石材


⑦ 再び洛河を渡って外郭北東隅へ向かう。続きはまた明日ね。


福先寺早く見たいなと思ったらランキング登録もよろしく

2708洛陽見聞録-4  やっと発見建春門の「写真」条

2007-11-21 01:50:05 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
建春門写真見つかってよかったねと思ったらランキング登録もよろしく

 
 実はブログが中断した大きな原因が怒濤の二ヶ月にあったことは言うまでもないが、つまづきのきっかけが、「洛陽見聞録-3」で予告した建春門報告のための私の写真が何処かへ消えてしまったことにもよるのである。
 その後同行した先生から写真をお借りしてスキャナーで取り込み、ようやく手元にその写真の一部が手に入ったのだが、時既に遅し、怒濤の激務にお借りした写真すら使えないで2ヶ月が過ぎたのである。

 さて建春門に通ずる東西の道建春門路は、洛陽城左京の都市民の通行したメインストリートであった。建春門から西へ懐仁坊、綏福坊、永泰坊と約1.5km進んだところに南市がある。現在もとてもよく残っていて、村人達のメインストリートとなっている。建春門そのものの位置は諸説あるのだが、①現在の鉄道のガードを西へ越えたところ、②ガードの辺り、③ガードを東へ越えたところ等々、案内していただいた陳先生の説では洛陽城の外郭城壁はさほど大きな規模ではなく、基底部が3m位のもので、かつての調査ではガードを西へ入った北側の畑からその痕跡が出ているという。


(建春門推定地を西から見る)
 
 これが事実だとすると、洛陽城の羅城は築地程度の大変規模の小さな、防御性にも欠けるものだったことになる。なぜだろうか?
 建春門推定地のあちこちを歩き回ると線路の東側を中心にかつて門に用いられたであろう礎石や基壇の加工石材が散乱している。或いは甕城のように少し外に飛び出した門だったのだろうか。こうした点を確認するためにも測量が必要だと思うのだが、叶わないらしい。残念だ。



(建春門推定地の西側付近を南北に流れる川岸に用いられた石碑)
 
 建春門から西へ500m程進んだところに南北の道が残っている。恐らくこれが懐仁坊と綏福坊の間を南北に走る道の痕跡であろう。これも測ってみたい道である。
 ところで、建春門の直ぐ近くには公衆トイレが置かれている。相変わらずのオープンなトイレで、私が入っていたときにも村の若者がタバコをくわえながらズボンを下げようとするので、慌てて外に出た。人のいないところで写真を撮りたかったのだが、・・・。もう一つ残念だったのはこの近くで遊んでいた子供が突然しゃがみ込んでうんちをしだしたのである。
 「オーこれぞ『餓鬼草紙』伺便餓鬼の世界だ!と感動して写真を撮ったのだが、これまた何処かへ消えてしまった。悲しい!!


(可愛い坊やだった。これが普通の世界なんだろうなと思った。)


(うんちはちゃんとトイレでするんですよ、と言っても仕方がないよね、トイレも大して綺麗じゃないんだもの・・・・?)

 もっともっとここで探索したかったのだが、急いで次なる地点外郭城の北東の隅へ出かけた。上東門のさらに北、北東隅はこれまた洛陽城の特徴で、鋭角に折れ曲がっていた。線路と線路の間に挟まれて畑が残り、今の内に掘ればその姿を目にすることができるのだが・・・。
 そんな思いを抱きながら、直ぐ近くにある洛陽城でも著名な福先寺へ行った。空海も訪れたことがあるという名刹はもちろん古の姿は既に失っていたが、わざわざ開けてくれた伽藍の内部に入るとあちこちに往時の礎石が散乱していた。733年、天平の遣唐使として来唐した僧

 ここまで書いて急用ができた。やむなく中段である。

 4時間後、再開するために使えそうな写真を予め画像フォルダーにコピーしようとあちこちのフォルダーを探し回った。その時ふと目に留まったのが、建春門の直ぐ横を流れる河に降りるための階段に使われていた石碑の写真だった。

 「これ、借りた写真かな・・・?」

さらに数枚めくっていくと
 「出た!裸の幼児の写真だ」

エッ、ひょっとしてこれ、行方不明の写真?ドキドキしながら次々と写真を繰った。間違いない!出てきたのだ。

 福先寺に滞在したのは鑑真を日本へ招聘しようとして渡航した栄叡と普照だったことが判明した。2ヶ月の空白もあながち無駄ではなかったことになる。もしあの時点で諦めてブログを更新していたとしたら、恐らく当分の間は画像フォルダーのこの日の部分を見ることはなかったであろう・・・・。
 そう思うとブログに不思議な縁を感じてしまう。


(福先寺は733年に遣唐使として派遣された栄叡や普照、804年に渡った空海なども訪れた著名な寺である。今も数人の僧侶がひっそりと暮らしている)

 さあ、明日から改めて洛陽見聞録を再開することにしよう。

建春門の坊や可愛いね、と思ったらランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。