決して山田博士にけんかを売るつもりはないのだが、先の「平城京十条」をめぐる様々な議論(昨日からは外京の性格についての議論や北辺坊についての議論に展開しつつあるが)でも解る通り、一度平安京をご破算にする必要があると考えるのである。そうでないと私には桓武考古を書き続けることができないのである。
コメントで繰り返される日本古代宮都研究最前線の第一人者同士の議論には、ものすごい緊張感が感じられ、論争はこうでなければ!と思うのだが、そこでもう一声、提案したいのである。
山田博士の平城京外京や北辺坊の議論を見ていると、やはり平安京研究者だけあって、発想の根本が平安京に固定されているように見える。南北に長い長方形の都こそ日本古代宮都の基本形であるというのが博士のお考えのようである。そしてこれまでの宮都研究者の多くがこれを基本に発想してきた。しかし、先の平城京にしてもしかり、もちろん「藤原京」は誰もが認める通りである。南北に長い長方形から日本の古代宮都は条坊制を始めていないのである。歴史というのは基本的に古いものの影響を受けて新しいものができると考えるのが普通である。もちろんいつも、いつもスムーズに流れていくのではなく、時には急激に、時には徐々に変化していく。逆転現象もあってもいいのだが、しかしそう解釈する時はそれ相応の理屈がなければならない。
このような基本的思考方法を採ると、どう見ても平安京は最後の都なのである。日本の古代王権は、平安京を改造することはあっても、新たな宮都を造ることはしなかった。どう見ても平安京は宮都の型式変化かからみれば再末期の型式なのである。たまたま最後の型式でなおかつ、その枠組みを長く王権が利用し続けたために様々な文字史料が残されたから、解ったような気になっているに過ぎないのである。一体考古学から平安京はどれだけ解っているというのだろうか??
文字情報を無理に削除せよとはいわないが、もう少し冷静に、とりあえず一度、考古資料だけで平安京までの宮都を研究する必要があると思うのである。
よく考えてみると「北辺坊」なる用語を長岡京以前に用いるのも問題なのである(もちろん解りやすくするためにこの用語を私自身も使っているが)。平城京の北辺坊を山田博士のように解釈する思考回路ももちろん否定するつもりはないが、一度平安京のことを忘れてこの北部の条坊を分析してみると、上記の指摘が真実味を帯びてくると思うのだが・・・。
①「藤原京」は(どの説を採っても)宮城が北京極に接しない構造で建設される(これを誰も「北辺坊」とは呼ばない)→②平城京の宮城が北京極に接して建設される→③ところがその後、平城京の右京にそれまでの北京極の北に瘤のように方格地割が形成される→④長岡京では当初その瘤は忘れられているようで、平城京の基本形に戻される→⑤しかし長岡京後半期の本格的な造営事業になると右京どころか京域全体が拡大(厳密には宮城のみを南へ拡大し南北に長い宮城を形成し、その上で京極の北に条坊を付加した特殊空間を造成するのである)される→⑥このような改造による理念と形式の混乱を避けるために平安京では最初から「北辺坊」として京域を二町分付加した京域を形成するのである。
このような宮都の型式変化に目もくれず、後世の文献史料だけで平安京拡大説を出したのが瀧浪貞子氏なのである。考古学がこの説を認められないのはいうまでもない。
平安京が前代までの宮都の型式変化の延長戦上に形成されてきたことは本連載を通じて追々丁寧にご紹介するつもりだが、この他にも最近話題にしたもので言えば、宮城の外に広がる宮外官衙町の形成がある。最近私がこれを「諸司厨町」と呼ばないのは、言うまでもなく平安京以前からその基本型式が成立し、平安京はその型式変化の最後の姿だからである。
このブログでもしばしば登場する東院もまた、その成立・展開・解体を見ると、明らかに平城京で形成され、長岡京に継承され、変化し、平安京に受け継がれるものの、その理念は早くに忘れ去られているのである。一町の内部が細分化され、最終的に四行八門制となる姿もしかりである。例を挙げれば枚挙に遑がないのである。にもかかわらずどうして平安京を基準に発想するのですか?
もちろん平安京はまさに今週の土曜日から始まる中世都市研究の素材とされるように、京都として再出発する。その境目がどこかはこれまた膨大な研究史が必要だが、いずれにしろ、古代宮都とは異なる理念で都市の建設が行われるのである。しかしそうだからと言って、前代の平安京の型式を全く無視した新しいものを造るわけではない。古典的名著、秋山國三・中村研『京都「町」の研究』は実にそうした宮都から京都への変遷を見事に表現している。
私たち宮都研究に関与するものは、今少し視野を広げて、古代宮都から京都への変化を分析すべき時期にきていると思う。もちろん山田博士がその第一人者であることは言うまでもない。しかし博士自身が認めておられるように、博士の研究はどちらかというと後者に重点が置かれ、私は前者にウエイトを置いている。未だに(個人的友情とは別に)二人の間には深い溝が横たわっているように思える。
私が万難を排して今回の中世都市研究会に参加する気になれないのは(もちろん別に必要な研究会があるから岡山に行くのだが)、どうして宮都-京都研究が分断されるのか、その点に理解が及ばないからである。考古学をやっている人々も、どうも古代と中世とでは深い溝があるのである。この溝を埋めるための研究会をこそやるべきではないだろうか。平気で罵りあえ、懇親会では和気あいあいと酒が飲める、そんな研究会ができることを夢想している。
そのためにも考古学によるきちんとした宮都研究は不可欠である。でないと中世の膨大な文献史料に考古学は飲み込まれてしまう。
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