がじゅまるの樹の下で。

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尚泰久の元の墓とウミナイ墓

2013年11月23日 | ・琉球史散策/第一尚氏

尚泰久のお墓と言えば、玉城の富里に
長男の金橋(安次富加那巴志)と一緒にあるのですが(→

今の富里のお墓は移葬されたもの。

元々はどこにあったのかというと、
まぁ、首里の天山陵なんですが、
第二尚氏のクーデターの時、
第一尚氏の家臣が天山陵にあった歴代王の遺骨を持ち出して
方々に散るわけですね。

尚巴志・尚忠・尚思達は読谷の伊良皆へ、
尚金福は浦添の城間、
そして尚泰久は現うるま市の石川・伊波でした。

なんで伊波かというと、
尚泰久の乳母(母?)のゆかりの地(出身地)だったからだとか。

で、そこにずっとあったわけですが
明治になって子孫の方々が玉城の富里に移し、
現在に至る、というわけです。

この場所や経緯は、尚泰久の墓訪問をした後本で調べたり、
またまたコメントやメッセージもいただいたりしていたのですが、
この伊波のお墓(跡)が今もちゃんと文化財として残されているということは
最近になって知りました。

で、近くを通ることがあったので、ついでに行ってきました。

石川消防署の裏手。

…阿麻和利のお墓みたい…。

世間(第二尚氏)の目をはばかるため、
この墓は「乞食墓」と呼ばれていてそうなので
元々立派な見目ではなかったのでしょうね。

高貴な人が葬られていることを隠すために
乞食墓といって人を寄りつけないようにする
というのは良くあったみたいですよ。

阿麻和利の墓もそんなんじゃなかったっけな?通称・屋良墓だけど。

案内板もありました。

日本語、英語、中国語、韓国語の4ヶ国語で。

で、その尚泰久王墓跡のすぐ隣には
「ウミナイ墓」が。

尚泰久の母、もしくは乳母が葬られたと伝わる墓だそうです。

ウミナイだったら王族っぽいけどね。

石積みで囲われていて、古いけどそれなりに立派な感じです。

墓の調査もされていたらしく、ビックリ。



しかし残念ながら
尚泰久の母・乳母の墓という証拠はなかったみたい…。

こちらは尚泰久王墓跡とは違って
今でもお墓参りの対象になっているみたいで
線香のあともありました。

右がウミナイ墓、左が尚泰久王墓跡。

隣同士。

道沿いには案内板も出てたので迷うことなく
すぐに辿りつけます。

こんなにちゃんと整備されているとは思わなんだ。

石川は滅多に通らないからなー(^^;

探せばまだまだ色々あるのかもしれませんね。

 


ところで乳母頼りの墓とかなんとかって結構聞く。
尚金福の城間もそうじゃなかったかな…うろ覚えだけど。
帰る場所はやっぱり乳母強し、か?

今日もご訪問ありがとうございます。

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