フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 韓国ドラマ『春のワルツ』(→NHK『春のワルツ』ホームページへ)。言わずと知れた『秋の童話』『冬のソナタ』『夏の香り』に続く、ユン・ソクホ監督の4部作完結編です。
 4部作はこれで全部見ました。制作順とは違って、やはり有名な『冬のソナタ』から見たのですが、最後にこの『春のワルツ』を見て完結したという感じです。どれを見ても同じとも言えますが、にもかかわらず、不覚にも泣いてしまいました。4作の中で、私はこの『春のワルツ』が一番好きかもしれません。

 4部作に一貫するのは恋愛の純粋さ、中でも初恋を忘れずにそれをずっと追い続けるひたむきさです。『夏の香り』は少し違いますが、『冬のソナタ』では高校の同級生同士、『秋の童話』では幼なじみ同士が描かれているのからも、そのことがよくわかります。
     (幼い頃に出会ったスホとウニョンの物語)
 『春のワルツ』はさらに幼い二人、スホとウニョンが描かれています。加えて、『冬のソナタ』や『秋の童話』のように時間の順に描かれていくのではなく、大人になった現在から幼い頃の回想として、しばしば子ども時代のことが描かれるという構成になっています。第1回は現在のオーストリアが舞台。そこに住む2人の男性と、韓国からやってきた2人の女性が出会い、物語の主要な人物がそろいます。そこから一転して第2回は15年前の韓国・青山島。そこで出会った幼いスホとウニョンが描かれます。
 まだ見ていない方のために詳しいストーリーは書きませんが、私は全20回のうちの第14回が一番好きでした。それより前は4人の主要人物の恋愛模様がゆっくりとしたテンポで描かれ、人によっては少し退屈するかもしれません。しかし、この第14回においてそれまでわからなかったことがわかり、抑えられていたことが一気に溢れ出ます。その場面が韓国南部の美しい島、青山島(チョンサンド→青山島の写真)の自然と一面の黄色い菜の花を背景に描かれています。この場面は、このドラマのみならず、これまで私が見てきた多くのテレビドラマの中でも指折りの美しい、印象的な場面でした。
 この第14回以降は、前半とはかなり雰囲気が変わって、秘密を隠したり暴いたりといったストーリーが大きくなっていきますので、その意味でもこの14回に大きな転換点があるように感じました。子ども時代のスホを演じる子役と大人時代を演じる俳優さんが似てないにも程がありますし、他にも現実にはありえないような展開が多いことなど文句を言えばきりがないのですが、それはもう「お約束」であげつらうことでもないでしょう。個々の難点など超越して、それでもやっぱり見る人を泣かせてしまうところがユン・ソクホ「マジック」なのかもしれません。
 その「マジック」を支えるのは、物語の展開から言えばわき役になったイナとフィリップです。スホとウニョンが物語の中心だとしても、初めての恋をずっと心に持ち続けて成就させることは、ほとんどの人にはできない。誰もがそのことに憧れるとしても、実はわき役になったイナとフィリップのように何かをあきらめて生きていかなければならない。言ってみれば、夢のような憧れの世界と少しほろ苦い現実を映した世界が共存している。そんな二つの世界をあわせて描いているところが、ユン・ソクホの作品を支えているのではないかと感じました。

           
  (作りがわかってるのにウルウルしてしまった……)



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 2007年4月21日(土)に東京大学国語国文学会の公開シンポジウムがおこなわれ、その発表者の一人として参加しました。
 この会では毎年シンポジウムがおこなわれ、一つのテーマに関して、古典文学・近代文学・国語学の研究者が一人ずつ発表をおこない、それに基づいて会場の参加者と議論するという方式がとられています。今年度のテーマは「表現の演技性」というもので、古典文学から立教大学の小嶋菜温子教授、国語学から大阪大学の金水敏教授、そして近代文学から私が参加することになりました。
          
 小嶋先生は「源氏物語」松風の巻の一部分を取り上げ、その会話文が近年の研究者の説と古注釈とで異なっていることを指摘。そこから物語文学の語りという「演技」が時代によって異なる解釈をされる、という興味深い実例を提示されました。また、金水先生は現代語において性差を指し示す表現を役割語という観点から考察され、日本語の中でクロスジェンダー(たとえば男性歌手が女性の気持ちを歌うなど)の表現が持つ意味など、豊富な実例を使いながら発表されました。いずれもたいへん示唆に富む重要な問題提起があり、私もおおいに刺激を受けました。
 一方私は、与えられた「表現の演技性」という課題を近現代小説の語り方の問題としてとらえ、近現代の小説を出発期・展開期・現代の3期に分けて考察しました。そして、映画における演技の性格が時代によって変化するように、小説の語り方も時代によって変化するという私の考えを提示してみました。
 通常の学会と違って古典や国語学の方とのシンポジウムということで、私は大きな問題設定での発表を試みたのですが、小嶋先生や金水先生の具体的な考察に比べてやや枠組みの提示だけになってしまったかもしれません。しかし、司会の渡部泰明先生や会場からの有意義な御意見のおかげで、3つの発表のそれぞれの意図が質疑応答の中で関連してくるところがあり、私にとっては今後の研究につながる多くのヒントをいただいた公開シンポジウムとなりました。その後の懇親会を含めて、貴重な御意見をいただいた皆様には御礼申し上げます。
          



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 私と同じ中央大学文学部にお勤めの松尾正人さんが『幕末維新の個性8 木戸孝允』(吉川弘文館、2600円)という本を出版されました。
 木戸孝允は、もちろん幕末期に活躍した尊王攘夷派の長州藩士・桂小五郎です。幕末維新期に重要な役割を果たした人物でありながら、特に明治期になってからの木戸の果たした役割やその意味については必ずしも十分な研究がなされておらず、その面を重視してまとめられたのが、今回の松尾さんの本だと思います。
          
 私は明治期の文学の研究をしていますが、歴史に関しては専門家ではないので素人的な見方をしているところがあります。そういう目で見ていると、木戸(桂)というのはどうしても幕末維新の「わき役」という面があるような気がします。たとえば幕末維新期のドラマで考えると、主役になりやすいのは坂本龍馬・勝海舟・西郷隆盛・新撰組。あと大河ドラマで取り上げられた徳川慶喜くらいでしょうか。「明治ものはドラマで受けない」というのがテレビ界の常識のようです。そう言えば、大河ドラマ『徳川慶喜』で桂を演じたのは黒田アーサー、同じく大河ドラマ『新撰組』では石黒賢で、いずれもわき役の印象が残っています。
 ドラマというのはわかりやすい構図の描ける人がどうしても前面に出てくることになります。しかし、実際には明治政府ができてから木戸が果たした役割というのは、多くの人に知られていないだけで実はたいへんに大きいものがありました。その点を重視し、明治期の木戸の役割を十二分に追究されているのがこの本だと思います。
 なお、木戸の生涯の中では、西欧回覧使節団への参加と文明開化への姿勢に私は興味をひかれました。岩倉使節団とも呼ばれているこの視察団は、政府の要人を含めた人々が約2年間も欧米を回覧するという異例の使節団でした。この使節団に木戸が参加していたことくらいは知っていたのですが、木戸が西欧でその思想や文化にどのように接したのか。また、それによって木戸がどのようなことを考えたのか。それらが、木戸の日記などを通じてていねいに考察されています。そのことをこの本で勉強させられましたし、西欧の進んだ思想・文化に接した日本人が、あまりの日本との差に驚かされ、かえって急進的な西欧化に警戒感を持つところなど、後の森鴎外や夏目漱石に通じるところがあって、日本文学専攻の私には興味深いものがありました。
 松尾先生の真面目で誠実なお人柄は同僚としてよく存じ上げているつもりですが、そのお人柄通りの丁寧な記述で木戸の思想や果たした仕事が考察されています。また、シリーズ本の1冊ということもあって、多くの写真や資料が配されていて、当時の雰囲気がよく感じられるようにも構成されていました。歴史に少しでも関心のある方ならどなたにもお勧めできる本になっていると感じました。
          



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 今日、中央大学クレセントアカデミー20周年記念講演会がおこなわれ、盛況のうちに終了しました。
 私の講演タイトルは「村上春樹の〈謎〉を解き明かす」というもので、村上春樹の作品ごとに作家イメージがかなり変わっていくという〈謎〉と、作品内部に多くの〈謎〉が仕掛けられているという面と、二つの意味で〈謎〉という言葉を使って考察をしてみました。
 当日、用意した会場がかなり埋まるくらい聴衆の皆さんに来ていただき、盛況でした。比較的に年齢の高い方が多かったものの、若い方もかなりいらしたし、中には日本滞在中の外国の日本研究者の方もいらしていて、幅広い層の方に話を聞いていただけました。
 
私は普段、大学というところで大学生・大学院生と一緒に研究活動をおこなっていますが、今回のように大学という枠にとらわれずに多くの方に話を聞いていただけるのは、とても勉強になります。特に講演後に多くの方から質問や意見をお伺いし、どのような点に疑問や関心を持たれるのかよくわかりました。その熱心さに感心すると同時に、今後にとても参考になる御意見をいただくことができました。
 当日、会場にきてくださった皆様に心から感謝申し上げます。
          



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 今週末土曜日、中央大学のクレセントアカデミー(社会人向けのカルチャーセンターのような組織です)の企画で、村上春樹について講演をします。参加無料で申し込みも必要ありませんので、よろしければおいでください。
 なお、タイトルに「謎」という言葉を使ったのには、ちょっと意味というか仕掛けがあります。その点は、「当日にいらした方へのお楽しみ」です。

  
中央大学クレセント・アカデミー
  創立20周年記念講演会
    「村上春樹の〈謎〉を解き明かす」
    中央大学文学部教授 宇佐美 毅
  4月14日(土)14時から15時30分
  中央大学駿河台記念館(お茶の水駅から5分)
   2階 280号室
  入場無料・申込み予約不要
          

詳しくはこちらを御覧ください。(→
クレセントアカデミー総合講座



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 夕飯に和食を作りました。と言っても、メインは「さんまのみりん干し」を焼いただけです。その代わり、「ほうれん草のおひたし」と「切り干し大根の煮物」を自分で作りました。それに納豆・みそ汁・御飯。
 いつもこういう食事だと少し物足りないのですが、ときどきはこういうあっさりした和食が食べたくなります。おそらくカロリーも、低めに抑えられているのではないでしょうか。
            
 ちなみに、私が勤める中央大学にはヒルトップという食堂ビルがあって、1階から4階まで全部学生食堂が入っています。そのうち、おひたしや酢の物といった小鉢が選べるカフェテリアがあり、私はそこをよく利用します。学生食堂は安くて量も多くてとてもよいのですが、私の年齢になるとやはりもう少しあっさりしたものが食べたくなります。そこで、今回和食にしたのと同じような理由から、大学でもよくそのカフェテリアを利用しています。



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 早稲田大学教授の石原千秋さんから『百年前の私たち 雑書から見る男と女』(講談社現代新書、740円)という本をいただきました。
 この本は、簡単に言えば、明治・大正期の雑書からその時代のありかたを覗いて見た本と言えるでしょう。夏目漱石研究者である石原さんが、明治・大正期の雑書を必要があって二千冊ほど集め、そこからその時代の「常識」、つまり一般的な感性や感覚を考察してみたのがこの本ということになるのだと思います。
 そこで興味深いことは、現代において「常識」のように思っていることが、明治・大正期の感性や感覚を検討してみることによって、必ずしも「常識」とばかり信用しているわけにはいかないことがわかってくるという点です。
          
 ひとつ例をあげてみましょう。
 この本の第十章では「堕落女学生」という視点が設けられています。そこで、1980年代の「オールナイトフジ」や「夕やけニャンニャン」に代表されるような「女子大生ブーム」「女子高生ブーム」が取りあげられています。私たちは、このような「おバカっぽい」女学生ブームを、女性の進学率が飛躍的に伸びた現代の「時代的な産物」だと信じて疑いません。しかし、石原さんによれば、百年前にすでに同じような現象が起こっていたことが明らかにされています。
 そこでは、田山花袋『蒲団』を代表にあげ、他にも夏目漱石『それから』やそれ以前の小杉天外『魔風恋風』小栗風葉『青春』などが取りあげられています。ただし、それだけならこの本でなくても論じられることでしょう。この本の特徴は、『蒲団』のような有名な文学作品だけでそれを論じるのではなく、その時代に書かれた、『実地精査女子遊学便覧』(1906)『女学生訓』(1903)『女学生の栞』(
1903)『理想の女学生』(1903)『女学生の道楽』(1908)『女学校の裏面』(1913)といったさまざまな本の記述を引用しながら、それを論じているところです。まさに石原蔵書総動員による、圧巻の時代考証と言えるでしょう。
 引用が多いので、明治・大正期に詳しくない読者の皆さんには、新書のわりにとっつきにくいかもしれませんが、その引用こそがこの本の楽しさですので、ぜひその点を味わっていただきたいと思いました。
           



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