フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 






 中央大学大学院で日本の近現代文学を研究する大学院生たちの食事会をおこないました。
   
 大学院生たちの進路はさまざまですが、日本の文学を専攻する学生たちということで、日本人の場合は高校などの国語教員になることが多く、留学生の場合は母国に戻って日本語や日本文学・文化を教える仕事に就く人が多いと言えます。今年の修了者もそういう人が多くいました。この食事会は、そのような、今年で中央大学を離れる学生たちとのお別れの機会という意味を持っています。
          
 日頃は各自の研究成果に基づき、学生同士で真剣な質疑応答や議論をおこないますが、今日はそれを忘れてのんびりと飲食・歓談を楽しみました。
 修了する学生たちのこれからの活躍と幸せを心から願っています。
          




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 中央大学大学院博士後期課程に在籍する梁喜辰さんが、博士学位を取得するための申請論文「小林多喜二における「歪曲の言説」」を提出しました。それを受け、学位授与に関する最終試験がおこなわれました。
(試験は公開でおこなわれます。手前が見学者。奥の左が申請者・梁喜辰さん。奥の右が審査委員3人です。)


 博士学位は、大学が授与することのできる「学士」「修士」「博士」のうちの最高の学位です。申請論文はその学位を授与されることを希望する大学院生が、その研究成果を提出するもの。最終試験は、その論文と提出者が博士学位にふさわしいことを確かめるためにおこなわれる口述試験です。

 試験をおこなうのは、当該委員会(今回は中央大学大学院文学研究科)で選出された審査委員です。主査は大学院生の指導教員が務め、副査のうちの一人は外部研究者(中央大学大学院文学研究科以外に所属する方)にお願いすることになっています。
 それにしたがい、今回の審査委員は宇佐美毅(中央大学)・山下真史(中央大学)・島村輝(フェリス女学院大学)の3人が務めました。島村輝教授は、現在の小林多喜二研究、プロレタリア文学研究の第一人者と言ってよい方です。

 梁喜辰さんの論文は、小林多喜二の作品を「歪曲」というキーワードで考えたもの。「歪曲」とは、小林多喜二の作品がその同時代にも後代にも、さまざまな「歪曲」の力を加えられてきたことを指します。また、同時代にも政府による「外部的な歪曲」と身内から自重せざるを得なくなる「内部的な歪曲」とがあります。
 そのようなさまざまな「歪曲」の力によって、小林多喜二作品がいかにその内部世界を歪められてきたか。その力学を分析することを通じて多喜二作品を再検討し、作品の今日的な意味を考察した論文です。

 今後への課題はいくつかあるものの、審査委員は一致してこの論文の学問的意義を認めました。審査委員の判断は後日委員会(中央大学大学院文学研究科委員会)に報告され、そこで学位の授与に関する正式な決定がおこなわれます。



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 注目の映画『娚の一生』を試写会で見てきました。
          
 この映画は、西絅子の漫画作品を映像化した作品です。不倫の果てに実家に戻った元OL女性・堂園つぐみを榮倉奈々が、哲学専攻の大学教授・海江田醇を豊川悦司が演じています。
           
 映画公開前の現在、海江田(豊川)が堂園(榮倉)の足の指をなめる、独特のラブシーンが話題になっています。そのシーンの印象が強いせいか、かなりエロティックで濃厚なな恋愛映画かと思われているようです。しかし、実際に見てみたところ、ところどころに笑いの要素をおりまぜた、コメディタッチを含む、楽しくて考えさせられる映画でした。
           
 原作漫画のつぐみの年齢は30代です。この映画では20代の榮倉奈々が演じていて、そのこと自体は映画なりのコンセプトでよいと思います。ただし、20代の女性と30代の女性が50歳を過ぎた男性を恋愛対象にするのは違いがあります。もちろん、恋愛の好みは個人によって異なりますが、フィクションの世界でそれをリアルに(現実にありそうに)見せるためには、それなりの描き方が必要になります。それを可能にするためには、豊川悦司演じる海江田の人物造形と、それを演じる豊川の俳優としての魅力が不可欠だったと言えるでしょう。
           
 ただし、それでも映画にはいつくもの不透明な印象が残ります。
 いくら魅力のある男性だったとしても、なぜつぐみが海江田にそこまで魅かれていくのか。あるいはその逆も言えます。海江田は、変人ではあるものの、人間の気持ちをどこか深いところで見通すような賢者としての一面も持っています。その海江田がなぜ若いつぐみに、それほど魅かれていくのか。
 さらに疑問はいくらでもあります。海江田は、つぐみの祖母を慕っていた。その海江田が、慕っていた女性の孫と恋愛関係になるのはなぜか。年上好きとか、年下好きとか、そういうことではなく、つぐみの中に、かつて慕っていた年上の女性の面影を見たのかもしれませんが、そのことを映画では詳しく説明しようとしません。その意味では、作品に不透明なところが後あとまで残るのです。
           
 しかし、その不透明さが作品の欠点となるとは限らないのが、フィクション作品の不思議なところです。つぐみの生真面目さ、不器用さ、料理や染色への愛情、そして悲しい恋愛による心の傷。海江田の無遠慮さ、ひょうひょうとした京都ことば、その奥にある人へのあたたかさ、そして孤独な生い立ちによる人を遠ざけるような姿勢。そのような二人も持つものが触れ合ったときに、よくわからないけれども、ありえないような恋愛が生まれるかもしれないという期待を抱かせてくれます。
           
どんなに明快な答えを提示されても、その作品が魅力的であるとは限らない。逆に、どんなに不透明な箇所が残っても、それが欠点であるとは限らない。この映画は、そのようなフィクション作品が持つ不可思議さを教えてくれているのかもしれません。
           



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あけましておめでとうございます。
遅れましたが、新年の御挨拶を申し上げ、皆さまの今年1年の御健康をお祈りいたします。
          



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