プランニングにおいて、俺は昔よく「そんなところは、アバウトでええやん」という指導を受けた。納得できないところを細かいところまでつめて理解しないと、プランとして定着できないたちだったからだ。そういった指導を受けた若人は、もっともな話だと、その箴言を乾いたスポンジのようにがぼがぼ吸収し、「だから俺はダメなんだ。ちんけなことに拘泥する頭の悪い人間だ。もっと大ザッパに考えよう」といたく反省し、さっそくアバウト思考を実践にうつしていった。
ややこしいところはスポイルしていいわけだから、プランニングはサクサク進む。なんとか話が通じるなら、ちょっとややこしいところはブラックボックスのままでOK。なんとなく辻褄があっていないようでも、「そこんとこは、GOをいただければガシガシ詰める」ということで先送りする。しかし、最後の見せ場さえ押さえておけば、むしろ、「面白い!」ということで企画が通ったりもした。うん「アバウトでええやん」と確信した。
しかし、いくつかのプランニングをくりかえすうちに、あれ?なんかうまくいかない、ということが次第にわかってきた。アバウトに考えたって、ひとつもいいことはない、結果的にはなにも成功していないんじゃないか、と。最初に何回か受け入れられたのは、あくまで「たまたま」に過ぎなかったんだ、と。
そりやそうだ。アバウトにまるめこんだ部分は、やはりどうしてもプランの必然性やロジックが説明できず、20%程度しか考えていないことが即座に露呈してしまう。いくら、取材の結果のファクトです、といったところで、それは正しいかどうかもわからない帰納を構成するひとつの「たまたまの」要素にしかすぎない。アバウトなクライアントであれば、ことはそのままアバウトに進むだろうが、当然ながら世の中のクライアントといわれる人たちに、アバウトな人はそんなに多くない。たとえプランがアバウトであっても、口八丁であれば、その場は凌げるが、凌いだところで、あとがしんどいだけだし、そもそもそんな話芸を披露することは俺には無理だ。
だから、結局は、プランが実現にいたらないことが増えてきた。たとえ通ったとしても、総員の共感というよりは、どちらかといえば力技の無理やり感が否めなかった。そればかりか重大な叱責につながることもあったりした。俺はやっぱりばかだからアバウトの方向が間違っているのだろうか?と悩んだ。というより、方向もなにもアバウトにしか考えていないわけだから、考え方やロジカルな思考法がいっさい身についておらず、迷走するしか手がなかった。そして、プランニングのスキルどころか企画書作成のノウハウすら、いっさいなんにも残っていないという事実に愕然とした。
そして、これはやっぱりダメだ、と再帰する。一度も深く降りてゆかずディティールを考えないまま、案件を乗り越えても、何も残らない、といったシンプルなことにようやく気づいた。そのプランが通るとか通らないといった問題ではない。自分のために、アバウトなことはやってはいけない、案件にはもっと、こつこつ地道に、ときにはよれよれになるまで取り組まないといけないということがわかった。
それからは、「深く考えすぎじゃないか」という教育的指導を一切無視した。けっしてアバウトに考えることのない人に師事し、アバウトに考えることを徹底的に断罪してもらった。時間と工数はかかっても、いったんは深く降りていってみなければならないという意志のもとどこまでも深く降りていった。確かに、最初はたいへんだった。当然だけれど、プランニングの採算を大きく超えていただろう。
しかし、そういったプロセスを10ほどこなしたところで、ようやく勘どころのようなものがみえてきた。思考のプロセスはもとより、アウトプットの効率的な技法もわかってきた。プランが通るかどうかは別として発展的な議論ができるアジェンダが提出できた。たとえ、プランが通らなくても、別の機会にいかせるフレームが都度完成していった。むしろ再生産できないという点では、アバウトやり過ごすほうが効率が悪い、というのがよくわかってきた。結果的に、「アバウトでええやん」というポイントが見えてきた。
もちろんアバウトであることはときに重要でもある。しかし、アバウトにしか考えられない人、つまり詰めて考える「方法を知らない」人が、アバウトなことをやってしまうと、どうしようもないということだ。ディティールまで確実につめ理解したうえ、「アバウトに表現する」。このことがわかっていないと「アバウト」は、いっぷうもっともらしい、やっかいな示達になってしまう。
ややこしいところはスポイルしていいわけだから、プランニングはサクサク進む。なんとか話が通じるなら、ちょっとややこしいところはブラックボックスのままでOK。なんとなく辻褄があっていないようでも、「そこんとこは、GOをいただければガシガシ詰める」ということで先送りする。しかし、最後の見せ場さえ押さえておけば、むしろ、「面白い!」ということで企画が通ったりもした。うん「アバウトでええやん」と確信した。
しかし、いくつかのプランニングをくりかえすうちに、あれ?なんかうまくいかない、ということが次第にわかってきた。アバウトに考えたって、ひとつもいいことはない、結果的にはなにも成功していないんじゃないか、と。最初に何回か受け入れられたのは、あくまで「たまたま」に過ぎなかったんだ、と。
そりやそうだ。アバウトにまるめこんだ部分は、やはりどうしてもプランの必然性やロジックが説明できず、20%程度しか考えていないことが即座に露呈してしまう。いくら、取材の結果のファクトです、といったところで、それは正しいかどうかもわからない帰納を構成するひとつの「たまたまの」要素にしかすぎない。アバウトなクライアントであれば、ことはそのままアバウトに進むだろうが、当然ながら世の中のクライアントといわれる人たちに、アバウトな人はそんなに多くない。たとえプランがアバウトであっても、口八丁であれば、その場は凌げるが、凌いだところで、あとがしんどいだけだし、そもそもそんな話芸を披露することは俺には無理だ。
だから、結局は、プランが実現にいたらないことが増えてきた。たとえ通ったとしても、総員の共感というよりは、どちらかといえば力技の無理やり感が否めなかった。そればかりか重大な叱責につながることもあったりした。俺はやっぱりばかだからアバウトの方向が間違っているのだろうか?と悩んだ。というより、方向もなにもアバウトにしか考えていないわけだから、考え方やロジカルな思考法がいっさい身についておらず、迷走するしか手がなかった。そして、プランニングのスキルどころか企画書作成のノウハウすら、いっさいなんにも残っていないという事実に愕然とした。
そして、これはやっぱりダメだ、と再帰する。一度も深く降りてゆかずディティールを考えないまま、案件を乗り越えても、何も残らない、といったシンプルなことにようやく気づいた。そのプランが通るとか通らないといった問題ではない。自分のために、アバウトなことはやってはいけない、案件にはもっと、こつこつ地道に、ときにはよれよれになるまで取り組まないといけないということがわかった。
それからは、「深く考えすぎじゃないか」という教育的指導を一切無視した。けっしてアバウトに考えることのない人に師事し、アバウトに考えることを徹底的に断罪してもらった。時間と工数はかかっても、いったんは深く降りていってみなければならないという意志のもとどこまでも深く降りていった。確かに、最初はたいへんだった。当然だけれど、プランニングの採算を大きく超えていただろう。
しかし、そういったプロセスを10ほどこなしたところで、ようやく勘どころのようなものがみえてきた。思考のプロセスはもとより、アウトプットの効率的な技法もわかってきた。プランが通るかどうかは別として発展的な議論ができるアジェンダが提出できた。たとえ、プランが通らなくても、別の機会にいかせるフレームが都度完成していった。むしろ再生産できないという点では、アバウトやり過ごすほうが効率が悪い、というのがよくわかってきた。結果的に、「アバウトでええやん」というポイントが見えてきた。
もちろんアバウトであることはときに重要でもある。しかし、アバウトにしか考えられない人、つまり詰めて考える「方法を知らない」人が、アバウトなことをやってしまうと、どうしようもないということだ。ディティールまで確実につめ理解したうえ、「アバウトに表現する」。このことがわかっていないと「アバウト」は、いっぷうもっともらしい、やっかいな示達になってしまう。
この記事は何度も読み返しております。
暗唱できるレベル…というのは言い過ぎかもしれませんが、それくらい何度も読んでいます。
アバウトに考えるな。
重要な助言となっています。どうもありがとうございます。