考えるための道具箱

Thinking tool box

イメージする力。

2006-10-21 20:35:17 | ◎業
「イメージすること」の大切さについて書こうと思っていたのだが、2枚程度書いたところでこれでは、伝えたい人に伝わらないなあ、と思ったので、チャラにすることにした。話の起点を「言葉」と「他者」に対する「絶望」に据えたことに起因するのだが、そんなところからスタートすると、どれだけ書き連ねても話は終わらない。「イメージすること」は、仕事をしていくために、とても大切な話なのだが、いま書き直したところできっと同じようなところで考え倦む気がするし、そうそう時間もとっていられないので、いったんクールダウンし、失われた時間を取り戻すために、リストの作成を。

□営業組織のマネジメントモデル
:営業モデルに続き、マネジメントに焦点をあてる。現場取材からスタートするが、体系化に加え、短期間でもっとも効果的な教育方法を考える。毎回、思うのだが、本質的でなくても、御託を並べるよりは、ベストセラービジネス実用書のようなまとめ方がいちばんよいのだろう。少し、ベストセラー棚で、わかりやすいまとめ方のビジネス書を収集してみよう。
□営業モデル実践ツール
:営業パーソンがプレゼンテーションに使用できるパワーポイントのテンプレート。3種。
□販売会社のミッション・マネジメント
:引き続き。完全に顧客を中心にすえたミッション-ビジョン-バリューを描いてみる。描くのは簡単だが、具体策検討のためのプロジェクト進行が難題。ほんとうは手順を追ったほうがいいのだが、じつはこちらも、戦術レベルで、「必ず顧客がからんでくる」施策を考え、とりあえず実行してみることの方が早いような気がする。
□新規市場開拓商品の販売戦略
:(1)販売チャネル、WEBの活用レベル、テスト販売の本質追求、商品制約。(2)調査用材料 (3)商品コンセプトブック
□商品開発サポート(A)
:コミュニケーション・コンセプトの策定
□商品開発サポート(B)
:市場発見。これは少し難題。時間があれば、仮説検証型ではなく、仮説生成型の調査をすべきなのだが、そうはいっていられないだろうな。ただし、一度は市場観察が必要か。
□中期事業・商品戦略(ステイトメント)
:戦略を経営幹部と共有するための資料
□プロユース製品の営業戦略(新)

ところで、上記の仕事にちなんで、最近ひょんなことから、80年代に一世を風靡していたCI会社のその当時の資料を久しぶりにみる機会があった。ちょうど私が社会人になった頃の資料で、そのときは、「おお、これがコンセプトというもののまとめ方なのだなあ」といたく傾倒していたのだが、20年ぶりくらいにあらためてみてみると、感覚と気分だけでまとめあげたその杜撰さに驚いてしまった。なんの説明もなく唐突にあらわれしかも不良導体的にわかりにくい新造語、ツリーではあるがけっしてロジカルではない図解、具体策がいっさいイメージできない高尚なビジョン、なによりファクトの欠如。時代のせいとい言ってしまえばそれまでだけれど、こういった、いわゆる下手なイメージ戦略の積み重ねが90年代を空白にしたのだと考えるとくやしくてしょうがない。もっとも、巧い企業イメージ戦略というのも確かにあったわけで、それはきっと「イメージ」とは、いったい何か?ということに対する、確かな答えをもっていたか否かによるのだろう。

「イメージ」という言葉がでてきたので、ここでかなり強引だが、冒頭の「イメージすること」の大切さに戻る。もちろん、「イメージ」とは「ないもの」を像として結ぶ機能ではなく、「あるもの」を、できるだけ意図どおりに想像させる機能であると考えたとき、あながち強引なつなげ方ではない。
#
先日の社内の営業研修で「ホスピタリティ」という大切な考え方が提示された。それに続き、私は、営業コミュニケーションにおけるシナリオの必要性を説いた、同時にロールに自覚的であることの大切さにも触れた。また、私たちの仕事は、コミュニケーション(対話)を通じて、得意先の担当者が頭で考えていることに形を与えていくことだ、といったことを言ったような気もするが、これは言わなかったかもしれない。

そして、ホスピタリティ=慮る心を効かせるにも、シナリオを描くにも欠かせないのが、相手の思いや言動を「イメージすること」であり、これが営業コミュニケーションのうえで重要な行動規範になる。もちろん、企画制作の議論において得意先担当者の頭の中をイメージ、弁証的なアイデアを提起しながら、形にしていくというコミュニケーションはそんなに簡単な話ではない。ある程度のキャリアパスを経る必要がある。しかし、一方で、キャリアを問わずできることもある(問わず、というのは、キャリアがなくても、逆にキャリアがあるからといって怠らず、ということだ)。たとえば、イメージしなければならないのは以下のようなことだ。

◎進行案件において、特定のタイミングでしっかり理解を共有していないことで発生するワームホールの可能性。
◎あることを説明しないことで起こりうる問題。
◎資料や材料を何の説明もなしに手渡されたときに、相手はどう思うのか?
◎いきなり受信したメールを見たときの相手の反応。
◎そのツールは、販売の現場でどういったオペレーションをされるのか?どのような流れで配布されるのか
◎その資料は、得意先の会議において、どういうタイミングで、どんなスタンスで説明されるのか
◎この発言をすることで、相手が何を思い描くのか?
◎この流れで進んでいくと、一週間後には、どういった形でしわ寄せがくるのか?そのしわ寄せは誰がかぶるのか。
◎得意先担当者の社内におけるパワーバランス
◎得意先担当者は、なぜ、そのような発言したのか?それは、その担当者の全体像のなかでどの一角を占める発言なのか。

じつは、これらのことはイメージすることでなく、直接的に聞いてみれば解決することである。しかし、聞くためには、何を聞くことが要諦なのか?どういう聞き方をすれば先方の本意とこちらの本意が一致するのか?ということを、やはりイメージしなければならない。一意専心考え尽くして、場合によっては徹夜もいとわずつくりあげたものが、ほんのわずかなイメージ不足のために、まったく無駄になってしまうことはおろか、致命的な苦言の対象になってしまうこともありえる。

このようなことを書くと、私たちはそこまで得意先に従順にならなければならないのだ、という印象をもってしまう人もいるかもしれないので、念のために書いておく。私たちは得意先の指示に対して100%従う必要はない。しかし、得意先の思想と思考を理解することについては、100%の努力と慮りを発揮しなければならない。いや、これについては100%でも足りないくらいだ。そういったやりとりの中で培われた信頼のようなものがあってこそ、はじめて「お言葉を返すようですが」という具申が効いてくる。
#
もちろん「イメージすること」は、営業的なコミュニケーションだけでなく、企画やクリエイティブの作業においても大切である。これについては別の機会に。たとえば、最近、当社のAくんが創案した新商品のコンセプトコピーが、その最大の成果である。

ファクトという難題。

2006-10-18 20:42:05 | ◎業
得意先企業の事業戦略や商品開発について考えていると、当然だけれど、どうしようもない暗礁にのりあげてしまうときがある。企画書のわずか10数cm2のスペースを埋めるのに何日もの時間をついやしてしまうような隘路。もちろん、どれだけボリウムがあっても意外とすんなり作業が進行する企画ものもあるのだが、たとえば5~6程度の複数の企画を並行して考えていると、たいてい1つはこのような成果と時間の比例しない難題が混ざってくる。病根が深いと、他にも影響をおよぼすような思考のスランプを呼び起こしかねない。

もっとも、こういった難題にも対処法があって、それは、いつまでも頭と資料のやりとりに拘泥することなく、とりあえず離陸してしまうことだ。具体的には、よく考え方がまとまっていないにもかかわらず、まずパワーポイントにフレームを描いてみるといった作業になる。もちろん常時には、この、資料とロジックが完備されていない段階で、パワーポイントを起動するというのは、最大の禁じ手なのだが、熟慮の結果、いわゆる煮詰まった状態においては、ときに、このいきなりパワーポイントが功を奏することもある(厳密には「いきなり」ではないが)。これは、きっと、対話の対象を変えてみる、ということなのだろう。

企画は本来的には他者と対話しながら考えてくというのが、もっとも効率的で効果的なのだが、アジルでかつ、人の時間が潤沢に余っているわけではない状況下においては、いつもそういった方法はとれない。そこで、単独作業ということになるのだが、その場合も、じつは自分のなかではげしく対話を繰り返している。そして、何と何がどういう論点で対話しているのか?を明確に定着するために、「インスピレーション」のようなアウトラインプロセッサーや「ROHDIA」といった思考用紙などのツールを起用する。じつは、ここで、自分とツールが対話しているという解釈もできなくはないが、この2つ(アウトラインプロセッサーと紙)は、なんというか身体感覚的には自分の領域のようなもので、完全には分離していない。(片や思考をできる限りダイレクトに構造可視化するもの、片や筆記具を使って手で書くもの)。

それに比べて、パワーポイントは、ページという制約条件のなかで甘えを許さず図形構造化を強いてくる。アバウトに考えていたものに、それが正しいかどうかは別として、輪郭を与えないと受け取ってもらえない。これまで、左脳と右脳でばらばらに考えていたものを、完全に統合せよと命じる、ちょっと厳しい他人だ。この命令に対し、ああそうですか、じゃちょっとやってみますね、え、このスペースにそんなの入らない?うーん、じゃあ、こっちが枝だから切り落としますよ、あ、幹まで切っちゃいました?あれ?こんなに簡単に切れちゃうなんて幹じゃなかったんですよ、きっと、ちょっと新しい幹を探しに戻ってきます…といった具合にまあ場合によっては本筋ではない対話を繰り返すことによって(もちろん一旦はアウトラインプロセッサーと紙の世界に遡行しないといけないのだけれど)、閉塞していた議論が前に進むこともある。たんなる気分転換とも、ことを強引に進めているだけともいえなくはないが、なにも芸術作品を創っているわけではないのだから、ある意味これはこれで正解といえる。完全ではないとしても、とりいそぎ得意先の担当者と議論できる状態にもっていることが先決だぜ、と囁いてくれているのかもしれない。「立つ」という礼節を示さなければならないホワイトボードもこれに似た他人かもしれない。

と、ここまでしまりなく書いてきて恐縮なのだが、じつは書こうと思っていたのはそんな話ではなく、どのようなテーマのときに、企画作業が淀むのか?ということだった。
それは、もうあたりまえのことなのだが、ファクトを厳格に積み上げないといけない場合につきる。企画たるものすべてがファクトの積み上げじゃないか、というのは正論だが、現実的には、あまりにも自明なためファクトらしきもので間に合う場合もあるし、別の企画において共有化されているファクトデータをそのまま使える場合も多く、そういった場合は、ファクトを端緒におくとしても、比較的すみやかに進行する。
また本質的にファクトが手元にない場合は、調査・取材を含めた長期戦に突入するため、これはリングを変えて進行を別軸にできる。

問題は、すでにたくさんのファクトデータが出揃っていて、しかもごていねいなことに複数の仮説が提起されているなかで、もっとも蓋然性の高いストーリーをつくりあげていかねばならない場合、つまり「このあたりのデータからちょっと考えてみませんか」という場合だ。
集まっているファクトをいくつかの角度から見直してみると多くは仮説を支えるものとしても、中にひとつ期待を裏切るようなデータがあれば、そこで思考は一旦ストップする。自社・他社のデータはたくさんはあるのだが、決定的に顧客のファクトが抜けている場合があれば、本質的には、ファクト収集から作業をスタートしなおさなければならない。そこまで重要なものでなくとも、ある1点が抜けているため(それが通説でいわずもがなのデータの場合であっても)、先に進めなくなってしまうこともある。当初計画どおり順調にロジックが進行しているときでも、気まぐれで異質な情報をとりいれてしまったばかりにロジックの脆弱性が露呈し、すべてをちゃらにしないといけないことだってでてくる。

かように、ファクトは難題ではある。しかし、それだからこそ重要ということになる。そして、その重要性の本質は、こういった壁に突き当たらないとわからないところもあるが、突き当たるために、まず、すべての発想の起点をファクトにする、という行動原則を身につけなければならないともいえる。

しかし、宮崎哲弥の『新書365冊』を読んでいると、これは毎月60冊以上の新書を読むといわれる宮崎がその内容をbest-better-more-worstで格付けしている本なのだが、worstにあげているものの多くが、ファクトデータの不用意・不如意な取り扱いと指摘されていることに驚く。もちろん、ぼく自身がそれぞれを読んだわけではないので、真偽のほどは確証できないけれど、市場に大量に流通しているからといって、それがファクトとは限らない、ということもファクトの難題とはいえる。
やはり地道に、疑う目を養い、疑うことにより企画作業がたいへんな手間になるとわかっていても、勇気をふるわなければならないのだろう。トンデモ企画書と呼ばれないためにも。

メモ。小説について。

2006-10-15 23:56:10 | ◎書
じつは、小説という明確なジャンルはない、と思っている。たとえば、評論であれエッセイであれ、またなにか科学的・歴史的な見解をまとめようとしているノンフィクションであれ、その公表されているカテゴリーとは別に、読みながらこれは小説だなあ、と感じられるものは確実にある。しかし、ではなにが小説を定義するのか、ということに対する回答はおぼろげだ。

保坂和志は自著の『小説の自由』、『小説の誕生』(つまり「小説をめぐって」)を著すにあたり、よく、これは(この文章は)まぎれもなく小説だ、といったようなこと書く。そのときの定義はなんだったか、と気になり、探すものの、なかなか見つからず、ずっとやり過ごしたままになっている。いや、決定的に記憶に残っていないということは、はっきりと定義的なものを示していないのかもしれないし、そもそも定義されるものではないということだったかもしれない(かように、ぼくは本を読んでもほとんどのことを記憶しない。まあ、そもそも「小説をめぐって」は、保坂の主張を見失わないために、しっかり対話しながら読まないといけないような本なのだが、なかなかそういった読み方ができないという不幸もある)。

しかしともあれ、「小説をめぐって」という一連の文章を、小説だ、と言い切る保坂の言説には、同じ感覚をもつことができる。人から、なぜ小説が好きなのか?と問われたときに、「おもしろいから」と答えるだけでは、あまりにも芸がないので、このあたりで少し「感覚」以上の答えを用意しておこう。もちろん、すぐに正しい言葉が与えられるわけではないので、メモに過ぎないが。

□答えの出ていない難題に、なんとか答えをだしてみよう、と足掻く試み(そして答えは書き手と読み手の間に共有はされない)。
□言語化できないものを言語化しようとする試み。
□自分というものに(つまりは他者に)なにか明確な輪郭を与えてみようとする試み。
□現実、空間・時間をできるだけ正しく描写しようとする試み。

ぱっと読み返しただけでも、抜け漏れダブりの多い冴えない定義だし、こんなものはちょっとした文学理論なんかをみれば巨万と例示されているような気もするが、そこはメモということで許してもらうとして、とりあえずぼくは、小説は、「試み」、つまり思考実験のようなものであること考えているのだろう。たくさんの、じつのところ、そう役に立つものでもない思考の枠組みを知ることはやっぱり「おもしろい」のだ。いったいこいつは何がいいたいのかよくわからないという人は、そして、そんなことはいいから小説をただ愉しみたいという人は、『村上春樹はくせになる』を。あまり正しい手順ではないけれど。
#
ところで、今日はいったい何がおこっているのだろう。

すべては言葉から。

2006-10-14 15:16:45 | ◎業
私たちの仕事はものを製造することではない。クライアントのマーケティングとマーケティング・コミュニケーション策定作業をサポートするサービスである。したがって、商品や営業現場の実態、さらには事業構想について知見はクライアントにかなわないとしても、生活者への洞察、思考の整理法、コミュニケーション効率、正しい言葉といった知識については、たとえ微差であっても、つねにクライアントの先を行くべく努力を重ねなければならない。同時に、先にあげたようなクライアント固有の知識については、つねに教えを請う姿勢で臨まなければならない。

つまり、学び続けなければ私たちの仕事は成り立たない、ということだ。こういう言い方をするとすぐに、OK、じゃあ教えてください、研修を!といった発想になる人がいる。もちろん、研修といった制度的な学習機会は重要だし、学習の根源では人との対話がかかせない、いやむしろ対話こそが学習だ、といえるかもしれない。しかし、さらにもうひとつ根源の層がある。言うまでもなく、ひとり自分自身の学ぶ意志、学ぶという基本行動、そしてこれらに自覚的であることだ。こういった部分への認識がなければ、たとえ研修に参加したとしても、また誰かと対話を重ねたとしても、ただ成果のない時間を費やしただけという結果に終わる。クレクレ君がいつまでたってもクレクレ君のままなのは、手取り足取り教えてもらいすぎているからともいえる。研修は、あくまで、「聞く⇒自ら解釈しなおしてみる⇒対話する⇒さらに深める」のうちの「解釈しなおしてみる」「深める」ための補助線であり、魔法のような対処療法と考えるのはそもそも学ぶということの意味がわかっていない。厳しいことを言うようだが、ここで書いていることにいまいちピンとこないような人は、そもそも文章を書いたり、人に何かを納得してもらったり、企画のようなものをまとめる仕事にはむいていない。

では自ら何を学ぶのか?これまでの文脈で言えば、これも自分自身で考えればよいわけだが、ひとついえるのはそういったある意味「応用」に向かう前の「基本」として学びの手綱を緩めてはならないスキルがあり、それは、書く力だ。いやスキルとか力なんて、大それたレベルに至らなくてもいい。巧いとか下手といったことはこの際、問題ない(評価は軸の置き方によって異なるから)。「言葉」というものへの関心と細心の注意、まずそれだけで充分だ。現在の仕事の領域を考えたとき書くことだけが仕事ではない、という意見もあると思うが、それは考え方が間違っていて、私たちのすべての仕事は言葉を端緒としている、ということにまず自覚的にならなければならない。言葉というものを読み手だけではなく書き手の視点でみるという基本行動が大切だ。これが伝えるための言葉を学ぶ最初の一歩になる。

したがって、言葉の選び方に不用意であることを徹底的に戒めなければならない。紋切り型を盲目的に採用することを疑わなければならない。素人的な言葉の選び方は、意識的でない限り(計算された効果が期待できないかぎり)使うべきではない。人を説得するためには最終的には短い言葉でいいかもしれないが、そのワードを選ぶ前提には、それまでのプロセスにおいて、まず膨大で冗長な言葉を書き記す必要がある。いつもと同じ商品の訴求であっても、違った角度からのコピーライティングの可能性にトライしなければならない。自分が理解していない言葉を、ちょっとした小気味の良さだけで選んではいけない。なんとなく正しそうだけどほんとうはまったく正しくない言葉遊びに敏感にならなければならない。語彙を豊富にもつことを課さねばならない。

そして、言うまでもなく、これは「読む」ということに他ならない。まず、読むこと。読まなければ何も始まらない。もしこのことについてさらに深く考えたいなら『小説の誕生』を。

メモ。『決壊』について。

2006-10-11 01:02:00 | ◎読
さて、その平野啓一郎であるが、指摘のとおり、新しく始まった『決壊』は、さすがに自身で第3期の最初の作品と称するだけあって、ずいぶんと力がはいっているように思える。大くくりにすれば、あれに似ているとか、ジャンルはこれだな、といった見方ができるかもしれないが、厳密に言うと、これに似た文学はあまりみたことはない。
もちろん、構想に約1年かかり、最近ようやく書き上げることができた、といわれる作品のほんの冒頭だけで語り始めることは拙速なのだが、この『決壊』という作品は、「第一部 殺人」の「一 疑念」「二 沢野崇の帰郷」と、作品名やチャプター・タイトルからみてもわかるように、全編にわたり、角度を変え、レベルを変えて演出され挿入された、「不安定さ」に満ちていて、これが未知の小説と感じさせる原因のひとつかもしれない。それが、たとえば、阿部和重や中原昌也の作品にみられる不穏さとも異なるのは、不安定さにとりまかれているのが、ごく普通の良識ありそうな市民たちであるという点である。そんな人たちの中にも破滅的で刹那的な選択肢をとる人間もいるが、ここに登場する人物はそうではない。むしろ、意図的にそうではないことが強調されている。むろん、崇や彼らの父親には不安定さの予兆は感じられなくもないが、それは狂気とか暴力といったものとは少し異なり、一般的な暮らしのなかでとくに意識しなければ見過ごしてしまうようなズレに過ぎない。
不安定の要因となる不安を直接的に書いているわけでもなく、だからといって婉曲しているわけでもなく、種になるのかどうかもわからない種的なものを散りばめている。まだ小さい息子のアトピーや喘息、家族の国籍、父親の無為(?)、兄・崇の見過ごしてしまうような不可解さ。人が多かれ少なかれかかえている不安定さであり、むしろ何事も起こらないことのほうが多いのだが、起こってしまえばかなり深刻になる。でも、起こらないことのほうが多いため、みなが問題を先送りにしてしまうような憂い。
そんなことだから、結果として、全体として「不安定」なところがあるのかないのかよくわからないということになるのだが、それは平野が今回起用した、ストレートではないゴリゴリした文体によるところも大きい。そもそも彼の文体は読みやすいとは言いがたいが、今回は、ひとつひとつの文を時間をかけながら吟味し、さまざま形で修飾や意識の挿入を行っているかのように見える。まさに文章じたいが安定していない(もちろん、それが『決壊』の緊迫感というか切迫感を生み出している)。このことと合わせて、視点(主体)の容易な移り変わりもあり、またトポスを扱う小説の常として、斜め読みをまったく拒む。拒まれてじっくり読み出すと、そこにはさまざまな「不安定」が張り巡らせているということがわかる次第だ。
そこにあるのは(この小説の本意とはまったく関係ないが)、作家がweb2.0時代においても職業作家として小説を書き続けるということはどういうことなのか、そこで書く小説とはどういったものなのか、への答えかもしれない。総表現社会における審級としての新しい小説。惹句もあながち嘘ではない。今後、このことが確証できるような展開になることを愉しみに待ちたい。

▶こちらに、本稿以降の『決壊』についての感想をまとめています


メモ2。

2006-10-07 23:13:23 | ◎書
6月あたりから、だらだらと時には激しく続いてきた仕事の波濤の切れ目がみえつつある。実際に、切れたわけでもないのでまったく気は抜けていないし、たとえ切れたとしても、ほんのわずかな間隙であることはあきらかなので、もう今年は、本を読むためにまとまった時間をとるとか、そういった周辺でまとまったものを何か書くとか、というのはあきらめた。今年?って、まだ3ヶ月もあるのだから、なにもそんなに早くに決めなくても、とも思うが、巷のおせち料理のパンフレットや、来年度の手帳の話題で沸き立っているサイトなどをみていると、もうあきらかに今年は終わっている。正確なことを言うと、たくさんのことを並行して行うための今年は終わっているということになる。

そういった意味では、仕事においてもできることは限られているはずなので、再びリストを。「must」と「wish」で。なんだか、今年はもうリスト以外のブログは書かないような気がしてきた。

■TO DO リスト
□得意先企業の商品戦略の全体像資料作成
□得意先企業の中期的な商品企画サポート
□得意先企業の中長期的な商品企画サポート
~GIなど調査サポート
□得意先企業の中長期的な事業計画サポート
□得意先企業の営業モデル構築サポート
~プレゼンテーション用資料作成
★ディーラーのミッションマネジメント
★新規得意先へのコミュニケーション準備
⇒この2つはむしろ「must&wish」リストに近い。とりわけ下の方は、第3Qで、なんらかの口座開設を目指したい。

■must リスト
□自社売上利益管理:財務諸表学習
□自社内制度変革プロジェクト
⇒年内にはプレゼンテーションしたいところ。月2回大阪の事業所での会議に参加する往路の新幹線が学習時間なのだが、まあ、いろいろと問題がわかってきた。少なくとも、なんの覚悟も自覚もなしに、そして不用意に「金がモチベーションだ」なんて言ってはならない。
□自社内研修企画
⇒体系化なんて考え出すと話がなかなか進まないので、気になった人の気になったテーマで、語りあいの場をつくる、というのがよいかもしれない。創発が重要だ。
□自社営業計画
□組織体制
⇒レイアウト変えなんてのもmust。

■wishリスト
□Sleipnir からFirefoxへの乗り換え
⇒自宅で最近購入したDEll上では家族のみなさんに対しても、最初からFirefoxを義務付けていて、そこで、いろいろとplug-inなどを実験していこうと思っている。Sleipnirは、フルスクリーンとか認証、ポップアップウィンドウなどでいまいちうまくいかず変えたいなあとは思っているのだが、たとえば無意識のうちに有無をいわさずタブがどんどん追加されていくっていう機能の便利さに慣れてしまった今となっては踏ん切りがつきにくい。Firefoxにいちからいろいろなことを投入するのも面倒。ようは時間を確保できれば、という問題なんだけれど。
□お気に入りの整理
⇒かなりの混沌というか混濁状態になっている。
□自宅本棚の整理
⇒上記同様。
□会社の机まわりの整理
⇒上記同様。整理をすることで新しいアイデアが発露することもあるのだ。
□ノウハウの商品化
⇒正しいかどうかは別としていちおう需要があるので、なんとか商品化したいなあと思ってもう3年くらいたつなあ。
□経理・承認関係の円滑化
⇒ものすごく自覚はしているわけです。でも「wish」リストに入れているところが、なんともいえない脇の甘さを物語っているのかもしれない。
□超・整理手帳
⇒あの例のリフィルを買いたいのですが、なんで本体価格と同じくらいの送料がかかるんだ。
□京都
⇒この4ヶ月くらい、あまり休んでいないので、少し落ち着きを取り戻したい。
□映像関係
⇒前回あげたリストのものは当然みていないし、それ以外にもいろいろあるんだけど。


■最近、買って、斜め読みしている本
新潮 11月号
⇒もう11月だって。とくに目玉があるというわけではないが、他誌もさえなかったので(群像の加藤典洋は気になった)。平野啓一郎の新連載がはじまったわけだが、最近彼の言動は、大江健三郎との対談などたいへん興味深く、小説というものに向かうきわめて真摯な姿勢に好感がもてるのだが、では彼の書く小説はどうか?というと、じつは『顔のない裸体たち』は途中で投げ出してしまった。どちらかといえば、かなりトレーニング色が強い。つねに新しい境地を目指すという態度においてはいたしかたのないことかもしれないが、これについては、過去の『葬送』などに比べ、取り組みまでの「ため」が少なかったように思える。ただし、途中でやめているわけなので、この評価はなんの保証もない。「ため」が必要なのは僕のほうだ。新しい『決壊』に期待したいとろだが、惹句に踊る「911」「web2.0」の文字に一抹の不安を感じる。
小説の誕生/保坂和志
⇒面白くないわけがなく、連載中とはまた違った印象。なにが面白いのかと考えてみると、これは終わりとか休憩のない文学的ムダ話であり、たとえばこういったムダ話を飲みながら連綿と交わし続けることができる人がまわりにほとんどいないからだということになる。ここには膨大な小説のトピックスがあるが、何か明確なことを説得しようとしているわけでもないし、必ずしも正しいことを言おうとしているわけでもないところが、読み手のリラックスを誘引する。読まなければなにも始まらない、ということだけがわかればよいのだ。
わが悲しき娼婦たちの思い出/ガルシア=マルケス
⇒全作品の刊行開始ということで、長編はともかく短編については、自宅の本棚にあるものと照合しなければならない。訳者を見る限りは、過去他の出版社で刊行されていた作品を組み合わせを変えて集めたところもあるようなので、じつはそれほど多くの巻を買う必要はなさそうだ(新訳ならともかく)。ちなみに、わが家にある文庫を集めてみると『ママ・グランデの葬儀』、『族長の秋』(集英社文庫)、『青い犬の目』、『美しい水死人(ラテン・アンソロジー)』(福武文庫)、『エレンディラ』(サンリオ文庫)。ざっと見る限り「落葉」「悪い時」(新潮・現代の文学」版はもっていない)以外は一度は読んだということになる。
ところで『わが悲しき娼婦たちの思い出』は、もっとも最近の作品らしいが、冒頭60Pくらいでかなり引き込まれていて語りのうまさにはいまさらながら驚く。待望していた『コレラ時代の愛』は10月刊、そういえばつい最近『百年の孤独』の新訳をようやく入手したので、この再読を保坂的スタンス(※)で行うなんてことを考えると、今年はマルケスに絞る、ということになるかもしれない。
ティンブクトゥ/ポール・オースター
⇒買ってまだまったく読めていない。「わが悲しき…」のあと一気に。
アンチ・オイディプス(上・下)/ドゥルーズ、ガタリ(河出文庫)
⇒かくなるうえは『千のプラトー』も『襞』も文庫で。
1968年/糸圭 秀実
⇒うーん。「第4章 ヴァーチャルな世界のリアルな誕生」は、昔読んでいた頃の彼らしくて面白そうだが。『思想としての全共闘世代』もそうなのだが、そこにいなかった限りイメージできないものは確実にある。逆にいえば、そこにいたはずなのになぜこうなるのか、問いたい人は多い。
デリダ なぜ「脱―構築」は正義なのか/斎藤慶典(NHK出版)
⇒あれ、まだ、デリダって出ていなかったっけ。



(※)「私はいままで何度も、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』で、ブエンディア家に、アウレリャノという名前とアルカディオという名前が何人も出てくるからといって家系図を見て名前を同定しても、そんなことでは理解したことにならないと書いてきたが…」(『小説の誕生』)