考えるための道具箱

Thinking tool box

◎紅盤。

2007-03-25 01:22:54 | ◎聴
音楽を前にして、鳥肌を感じる。たくさんの人が、そういう瞬間を知っているだろう。
僕の場合、それは、浜田省吾の『ON THE ROAD"FILMS"』に収められた「On the Road」や、ブルース・スプリングスティーンの『Video Anthology』の「Born to Run」のライブ映像で10万人は入っていると思われる会場の観客を目の当たりにしたときであったり、ipodから唐突に始まり流れる『Miles in Europe 』の「Milestones」で会ったりする。「Jupiter」の冒頭のアレグロ(ジョコーソ)の部分も、いきなり始まればヤバい。宇多田ヒカルの「Final Distance」だって、たとえ商業的とはわかっていても、そのdedicated toを思うと子を持つ親としては自然に体が反応する。オアシスやスピッツはもちろん、甲斐バンドにだってそういう曲はある。日本のポップミュージックの場合は、おおむね詩との関係に負うところが多い。

こうしてみると、鳥肌の音は、決してハイブロウなものではなく、どちらかといえば、わかりやすい音の場合が多い。シンプルな音階の限りある順列組み合わせから、たまたま身体に影響を及ぼすコンビネーションが生まれる。そのことは、なにも豊穣さのようなものだけに比例するわけではない。ときに、チープにみえる取り合わせからのケミストリーもじゅうぶんに起こりえて、むしろそういった場合ほうが印象的だ。

斉藤和義の新しいアルバム『紅盤』に収められた「ベリー ベリー ストロング~アイネクライネ~」は、まさにそういったケミストリーの賜物かもしれない。『紅盤』は、コラボレーションやカヴァーを中心とする企画アルバムで、浜田省吾の「君に会うまでは」やサザンオールスターズの「真夏の果実」(w/Bonnie Pink)、沢田研二の「ダーリング」さらには「Jealous Guy」が日本語でカヴァーされていたりと、ずいぶん楽しめる構成になっているが、1曲目に配された「ベリー ベリー ストロング~アイネクライネ~」は、斉藤のファンでもある伊坂幸太郎の短編小説を元に創作されたオリジナル曲で、じつは、このアルバムの中で出色と思える。そして、この曲が僕に鳥肌を与えた。

いつものいい意味での斉藤和義のチープさ満載の曲で、唄いっぷりも、「very very strong」ではなく、まさに「ベリー ベリー ストロング」なのだけれど、そのサビの「ベリー ベリー ストロング♪~」に転じる瞬間に確実に震える。アルバムの最後に収められた「ウェディング・ソング」も、これから披露宴で幾千人かを泣かせ続けるだろうといわれているが、その比ではないだろう。
「ベリー ベリー ストロング」は、いわゆる美しい唄ではないではない。一聴、雑な曲に聞こえるかもしれない。しかし、その具体的な言葉の連なりと相俟った曲の転じ方が、確実に何か、何か清々しいものをイメージさせる。なんだろう?それは、生きているといろいろあるけれど、まあいいことのほうが多いよ、といったことかもしれない。fight songのような側面もあるのかもしれない。そういった意味では、流行りの感動シンドロームのように、ほんとうにチープな演出だ。しかし、僕は、こと音楽については、そんなことにすら、打ちのめされてしまう。
少し、疲れすぎているからなのだろうか。『ハゲタカ』の芝野の台詞「鷲津ファンドです」に落涙してしまうぐらいだからなあ。

◎本の話。

2007-03-19 01:13:03 | ◎読









●ああ、そういえば携帯の画素数があがっていたんだ、と思って撮ってみた。
●なによりの収穫は『ディアスポリス』。モーニングで連載が始まった頃、面白いなあと思っていたのだけれど、その後、すっかり忘れていた。第3巻が新刊平台に並んでいたので、この機会にまとめて読んでみたが、やっぱり面白かった。すぎむらしんいちは、連載時に『右向け左!』がピンと来ず、でも『ホテルカルフォリニア』は、いちおう次週が気になるような展開になっているなあ、と思いつつ、すっかり忘れていた。今回は、謎の原作家リチャード・ウー(じつは長崎尚志?さすが)の原作に負うところが大きいのかもしれないけれど、それでも、すぎむらの胡散臭い絵が、猥雑な異邦都市のカオスな具合とかなりフィットしていて、相乗している。細かい所々に抑制が利いておらず、雑駁な絵のディティールを見ているだけでも結構楽しめる。ストーリーが面白いのは勧善懲悪だからで、このある意味でシンプルなストーリーが、どうもいやな気持ちにさせる漫画が増えているなかで、清く光っている。
●30分ほど書店に滞在できる時間があり、ほんとうは『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』を抑えておこうと思ったんだけれど、パラパラみていると、ユタヤンだから避けられないのだけれど、どうも気分が優れず、じゃあどうしようかと思っているときに評判の『はじめまして数学』が目に入ったので購入。この原理的な物語は、混乱している頭をすっきりさせる。きっとこういうのを中学生の頃に読んでいたら、いまごろ、頭がかなりすっきりしてたんだろなあ、と思い、娘に勧めるも、どうもノリが悪い。
●今月の新書の新刊も始まっているようだったが、相変わらず表紙の違いに無用な混乱を呼んでいる講談社新書で東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』を見落とすところだった。発売から数年たっても馴染まないのだから、やっぱりダメなブックデザインだ。今回わかった最大の課題は、タイトルがヨコ組みになっているということで、新書にとっての命綱である商品名が大きく表示しきれない。きっとこれがこの装丁の最大の欠陥なのだろう。この5年に起こってきた文学的課題にふれている部分も多いようなので(終章が『九十九十九』)なので、興味が高まる。まあ、これはお決まりのようなものですね。
『月島物語ふたたび』もアマゾンから届く。30%くらいは造本の美しさで買ったようなものか。

◎信頼を高める打合せ、とりあえずの6つの方法。

2007-03-18 01:29:26 | ◎業
リストマニア、デイヴィッド・オグルヴィーに倣って。

(1) 最悪のシナリオ展開を具体的にイメージしておく。

まあ何とかなるだろうと、浮かれていてはいけない。そういったときに限って、何とかならないことが多いのは、何とかなるだろうと高を括って、何とかならなかったときのことがほとんどイメージできていないからだ。
プレゼンテーション、提案、資料のチェック…。いずれの場合も、あらかじめ、先方からでてきそうな質問、受けそうな指摘をこれでもかというくらい何パタンも予測しておかねばならない。それも考えに考えつくした最悪のコメントをイメージしておくべきだ。
ただし、これは、なにもそれに対抗するための口からでまかせの言い訳をたくさん用意しておく、といったこととは違う。ありうるべき、オプション策のすべてを、事前に考えておく、いちおうはすべてチェックしておくということであり、そこまで案件について、深く思考をめぐらせておけばたいていの弁証法的対話はうまくいく、ということだ。私たちが講じなければならないのは、糾弾・叱責を避ける策ではなく、会議のムードが停滞するのを避けるための策、それにつきる。

(2) 言い訳を言い訳らしくなく言う。

しかし、実態としては、言い訳をしなければならない状態に陥ることも少なくはない。これを、さもしい言い訳ではなく建設的な止揚として転化していくにはどうすればよいのか。そのポイントは、「こちらの考えのほうがよいと思う」というちんけな意識をいちはやく捨てることだ。
もちろん、こちら側としては、それなりの考えと主張をもって、案を提示しているわけだが、先方よりNGの指摘を受けたということは、その指摘の正しさは置いておいて、目標地点までにギャップや違和感があるということは間違いない。このことをまず真摯に受け止め、相手がそう考える理由を丹念に聴く。理解することが重要であり、理解を共有できたと感じてもらえれば、あなたのそれ以降の発言は言い訳にはならない。
そのうえで、それでもこちら側として、目的合理的に(つまり、クライアントや顧客のために)ゆずれないという一線があるなら、そのことと先方の指摘を合算したそれ以上のアイデアを生み出すための思考法に脳を切り替えなければならない。しかし、この状況適応は、現場ではなかなか難しい。「目的合理的に正しいアイデア」を通していくためにこそ、前項のようなシナリオをあらかじめ考えることが必要になる。
(場合によっては、増田の「聞き上手マニュアル」の一部が参考になるかもしれないなあ)

(3) 聞く耳。そして聴く耳を。

横書きのノートなら、まずページの左から2/3くらいのところに縦の線を一本引いてみよう。縦罫の左側には、相手が話すことを、キーワードを列記していくような形でメモしていこう。逐一リニアに書きつける必要はない。だって、ずっと下を向いてメモをとってばかりいたら、話もはずまないじゃないか。相手方も一方的に話すばかりならだんだんつらくなってくる。話が始まったらとりあえずひと息(まさにワンブレス)つくまで聞いてみて、要点と思える言葉だけを書いて囲んで線で結びつけ、話の中の要素の関係性や重要ごとを探ることにつとめよう。
でも、じつはこれはさして重要な話ではない。ほんとうに大切なのは縦罫の左側に列挙していくものだ。そこに書き込んでいくものは、話を書きながら感じた疑問・質問、つまり「聴く」べきことだ。打合せの場を盛り上げ、有効な場としていくためには、たとえささいなことであっても「聴く」ことがポイントになる。しかし「聞いて」「メモする」という2つのことが重なると、その場では「?」と思っても流れのなかでかき消され、忘れてしまうことが多い。そうなる前に、相手の話を聞いていて頭をよぎったことを、すかさずメモっておく。あとで見直してみたらほんとうにどうしようもなく聴くのも恥ずかしくなるような項目も多いかもしれない。しかし、その中には、必ず核心にふれるような疑問も入っているはずだ。そのひとつを見つけることができれば、次回に向け、打合せは大きく前進する。
もちろん、頭のなかを聞くだけの受動的な状態に弛緩させておくだけでなく、隙あらば「聴いてやろう」という積極的な能動状態にしておくことは言うまでもない。

(4) その場で図を書いてみよう。

ホワイトボードほど話を盛り上げられるツールはない。私なんかは、もう写生の画板のようにいつも首から提げていたいくらいだ。まず、もろ人をその一点に集中させることができる。自分の頭の中とメンバーの頭の中を可視化することで、一致とギャップが明確になる。プリントアウトすれば、なによりの議事録になる。加えて、立ち上がって話しをすることは、場の破調にもなり、参加しているメンバーのテンションがほぐれる効果もある。
しかし、残念ながら必ずしもそこにホワイトボードがあるとは限らない。だからこそ、メモはつねに対面にいる人に見せることを意識して書いておきたい。
別に美麗な筆跡を意識するとか、華麗な彩色を施す、なんてこともくろむ必要はない。ただひとつ。話の構造がわかるような書き方をしておくこと。つまり(これが前項でも触れた)、「図として書き残しておく」ということだ。そして、具体的にノートを見せて、「ここがこうで、これがこうですよね」と話をする。うまく話しが伝われば、相手も自分のノートを指差してくれるかもしれない。そうなれば、おおむね事態の共有化がはかれているだろう。構造図解さえ明確であれば、字は読めなくても話は通じる。
ときには、議案を箇条書きにしておくといった単純なことも必要だ。しかし、その際も、番号を打つことを忘れてはいけない。番号を打つだけで、文字の列記が、充分な図解に転ずる。

(5) メタも具も必要。

メタな話は重要だが、美しく聞こえるぶん用心も必要だ。具ももちろん重要だが、具体的な話だけに、そのわかりやすさに注意しなければならない。どちらの場合も、話の面白さに忘我した結果、帰社して復習してみたときに、ほんとうは重要なヒントがたくさんあったにも関わらず「たいした話じゃなかったね、わはは」と、ならないように手を打っておく必要がある。頭脳が鋭利な人ほど話はメタに寄る。行動が怜悧な人ほど話は具に寄る。(これらの分類はあまり正しくないかもしれないが、何かが優秀であることは事実であり)双方な優秀な回転についていくための準備が必要だ。メタだと感じたら、「具体的には…?」と追求し、メタの本質への確度を高めていこう。具体例が連発される場合は、自分の頭のなかでメタのフレームをつくりあげピースを埋めていき、全体像をあきらかにすることを意識しよう。いずれの場合も、その目的は、「ほんとうのところはどうしたいのか?」を正しく理解することにつきる。
裏を返せば、ほんとうのところを伝えたいのなら、こちら側も、具をつめこんだメタの話をしなければならない、ということだ。

(6) 友達に話すように話すな。

あたりまえのルールのように思えるけれど、意外と「ぶっちゃけたところ」とか「でも…」「ぼくは…」といったくだけた言い方や「とりあえず」といった「いい加減さ」をイメージさせるような言葉を無意識のうちに使っていることはないだろうか。おうおうにして窮地におかれとき、その場を凌ぐために「つい」使ってしまうことが多いのかもしれない。しかし、この手の言葉づかいは、台詞のように演出的に使う以外は、打合せの信頼性や検討の真摯さを著しく低下させる。もし普段からの口癖のようなものがあれば、あらかじめリストアップして、それを変換した別の言い回しをしっかり記憶しておこう。ビジネス上の打合せは、誰がどういおうと、基本的にオフィシャルなものだ。ただし、ある緊張感のあとに、ほんのわずかな素のプライベートを見せることが場をうまく締めくくる効果をよぶこともある。公と私の言葉の遣い方で、場を演出的に線引きするというのがいいかもしれない。

以上、とりあえずの6つのポイント。思いついたらまた整理します。もちろん、ミーティングやプレゼンテーションには、まったく予想もできない強大なワームホールが突如出現することもあるわけで、そうなった場合は、もうどうしようもないですけれどね。

◎『ハゲタカ』。

2007-03-11 00:54:43 | ◎観
NHKのドラマ『ハゲタカ』は、かなり面白い。というか、凄い、といってもいいかもしれない。これは、バブル崩壊後の日本再生を標榜し次々と瀕死企業の買収を重ね、金のなる木として変容・再生させていく外資系投資ファンドの日本社長と、彼に対峙するなかで銀行員を辞しターンアラウンド・マネージャーの道を選び企業再生の支援にかける男、という2人の登場人物を軸にすえた物語で、真山仁の同名の経済エンターテイメント小説をドラマ化したものだ。

まず、「企業再生」が中心となる物語じたいが、きわめてエキサイティングに構成されている。しかし、経済小説を読まないので、これはごくありがちなストーリーなのかもしれない。
確実に「凄い」と言えるのは、これはテレビドラマというものの「再生」ではないか、と思わせるほどの制作演出力にある。

ぼく自身、最近では『花より男子』以外は、ほとんどドラマはみていないので、過言であり、ひょっとしたら何かに乗り遅れているのだけなのかもしれないが、『ハゲタカ』で実践されているカメラワークやライティング、緩急の激しい編集は、アイデアにあふれちょっと尋常ではないと思える。撮り方と光とシーンの切り出し方で人の情をあらわせるほど、今のドラマは丁寧につくられているのか。これは、NHKにとってはごくあたりまえの技術なのだろうか。いや、わずかながら『華麗なる一族』を見たときにはこのような印象は残らなかったので、きっと『ハゲタカ』特有のものなのだろう。この物語展開であれば、1時間という時間がもっと短く感じられてもよいはずなのだが、映像への情報量の多さ・充満感、画面のめくるめく転調が、その速度を遅滞させる。

ひとつひとつの台詞もまた、ただならぬほどの丁寧さである。ぼくは、芝野(柴田恭平)が代読する大空電機会長大木(菅原文太)の末期の一書にこめられた企業経営者の思いを聞き涙してしまった。林宏司という脚本家を知るよしもないが、活躍の場を民放のドラマとしてきた彼のキャリアが炸裂したのか、だれかがさらなるケイパビリティを引き出したのか。

そして、役者の再生。もっとも、演じている俳優・女優は、現在でもさまざまな場で活躍している人ばかりなので「再生」であるはずはないのだが、それでも、彼らがこれまで見せたことのないフェイズが、いや決して見せることはないだろうと思われていた予想外のフェイズが引き出されているところを見ると、これを「再生」ないしは「脱構築」と呼ぶことを禁じえない。

筆頭は大森南朋。これまでは、良くいえば優男、悪くいえば、どうしようもないダメ男の見本のような役柄を中心的に演じてきた男が、この怜悧なファンド・マネージャーだ。徹底した厳しさ酷薄のなかに(真理)、従来の大森南朋がうまい具合に調合されていて(反論)、愛すべき鷲津政彦を演じきっている(脱構築)。これこそ、本来の大森南朋ではないかと錯覚させるほどの入り込みだ。そして、栗山千明。彼女が芯が強いだけでなくこれほどキュートな女性を演じたことは過去にあっただろうか。松田龍平は、いよいよ優作に似てきたなと思わせるばかりでなく、ぜひ優作の跡をついで優作でさえ成しえることのできなかった日本の役者を完成させてほしいと感じさせる強さと不気味さを身につけた。柴田恭平、宇崎竜童、菅原文太。この不良たちは、不良であったことで培うことができた滋味をいかんなく発揮してる。言うまでもなく、なによりの驚きは、舞踏家、田中泯の起用であり、これにはグウの音もでない。すげえ。いい。いずれも、NHKのキャスティング力、オファー力の賜物なのだろうが、それぞれの役者が、そのおだてに最大限にのせられ潜勢力を発揮している。

少なくとも、民放がドラマのサブストーリーとして無理やり制作する映画に比べ、コストはかかっていないだろう(どうだろう?)。しかし、それらの映画以上の価値を、TVドラマというジャンルで創り上げている。こういうことなら受信料を払うのもまんざらではない。誰かがいっていたように、アーカイブから過去の作品をダウンロードできるようになるのなら、受信料はもう少し高くてもいい。

残すところあと2回。土曜21:00、無事にテレビの前に座っていられることを祈りたい。というか、録っときゃいいんだ。

※追記:大森南朋については、「メジャーになりだした最近の」という注釈が必要でしたね。そもそもの狂気+不気味な優しさ・弱さ⇒マッシュアップ⇒上澄み⇒鷲津政彦 といったような図式でしょうか。

◎承前。

2007-03-05 01:25:02 | ◎読
(その1)ということなので、今日いくつかの仕事が仕上がったタイミングを見計らって、近所のSC内の大型書店に入ってきた。大垣書店豊中緑ヶ丘店。ここは開店当初は、人文系の棚も、立地のわりにはしっかりしていて、近くのほかのSCに出店している書店とはひと味違っていた(EX.カルフールの田村書店)ため、ぼくのなかでは一定の評価をもっていたのだが、さすがに開店から数ヶ月たつと、神の見えざる手が働き、郊外の住宅街に合わせたブロックバスター的な品揃えに変容しつつあった。1週間、書店に詣でていない気分はある程度回復できる物量ではあるのだけれど、それでも『一冊でわかる フーコー』とか、でていたら嬉しいなあと思っていた柴崎の『ショートカット』などは、発見できず。まあ、今週は、『ロング・グッドバイ』やちくま系や、文芸誌系などでたいへんになりそうなので、さほど拘泥せず、『論座 4月号』『別冊宝島1389 僕たちの好きなウルトラセブン』を。

前者は、またぞろの本屋特集(大垣書店 豊中緑ヶ丘店もとりあげられている)、吉本隆明、鶴見俊輔、柄谷行人、さらに森達也などパフォーマンスが高そうだったので。ちなみに吉本らを含む特集は「グッとくる左翼」。読んでいないので立ち位置はよくわからないけれど、二極分化した社会・民衆が右傾やリバタリアニズムなどを経て、彼岸に向かう、というのは少し浅慮という気がしないでもない。しかし、そんなような現象が起こっている、というのもこれまたありえる話でもある。本屋特集は、本屋にいけないときの慰みになるか。

後者『僕たちの好きなウルトラセブン』は、かなり充実したデータ集。おそらくこの手のものは、これまでもほんとうにたくさん発行されてきたと思われるが、全ストーリーが詳解されているにも関わらず手軽なので、少し前からねらっていた。久しぶりに読み応えのある雑誌(ムック)で、あらためてウルトラセブンのシナリオのバリエーションや間テキスト性などに感心する。ちなみに、いまこれを書いている机上には「700キロを突っ走れ!(恐竜戦車)」、「湖のひみつ(ミクラス)」、「明日を捜せ(ガブラ)」、「史上最大の侵略(ゴース星人)」、「盗まれたウルトラアイ」などのフィギュアが鎮座してる。つまりセブンがたいそう好きなわけだ。

(その2)ということなので、なにを選ぶかずっと迷っていたアマゾンのギフト券を四方田犬彦の『月島物語ふたたび』にあてる。もう文庫も入手できないみたいだし。ついでに、これもいまさらだけれど多和田葉子の『アメリカ―非道の大陸』もようやく。

◎先生とわたし。

2007-03-04 02:18:48 | ◎読
たとえそれがどのような内容であっても、ぼくにとって本を読むということは、エンターテイメントであり、トレーニングである。また、書店に行くということは、気分の切り替えであり、アイデアの収集である。だから、読めない時期や書店に通えない時期が続くと、本質的に疲弊していく。インプットもないから、スループットもないし、アウトプットもやせ細っていく。そういった意味で、この2~3週間は、かなりタフである。よく、いつ読んでいるのか?と聴かれることがあるが、正直なところ、読んでないよ、と答えるしかない。

対処療法的に、5分、10分のほんのわずかな断片でも本に目を通すようにしているし、初めての街でみかけた、ちっぽけな本屋を覗いてみたりはしているけれど、初期段階の回復の呪文のようなもので、Lvは、すぐに枯渇してしまう。

救いは、5分でも入り込める本が手元に入り込めること、昨日や今日、書店に並んでいる本はもとよりずいぶん先の新刊情報までを紹介してくれるたくさんのブログやWEBページがあるということかもしれない。
#
その「5分で入り込める」最近のもの。ひとつは、『新潮』3月号に掲載されている(もはや「いた」か?)四方田犬彦の「先生とわたし」だ。5分、10分を積み重ねあと数ページのところまできている。以前にも、「ラインガウ」の件で少し触れたが、本格的に読み始めると、由良君美についてまったく知らないぼくにも、そこはさすがに四方田犬彦、彼の人となりだけでなく、一挙手一投足までが伝わる巧みでくわしい表現力により、かなり面白く読める仕上げとなっている。あたかも造形のような由良君美の人物像に惹かれ、嫌悪し、それが実在した人物であるということに、はっと気づき、あの時代性と文学・思想の学究のレンジの広さ、そしてまさに師たる師の存在に羨望している自分がつねにそこにいる。

おそらくこれまでの彼の書と同じように、周辺にいた人々からは多少なりとも異論はあるかもしれないし、例によってフィクショナルなところも結構ありそうな気もするが、それについて立証の必要がない一読者としては、単純に楽しむほかはない。師との決別についても、自己への憐憫の部分も多いかもしれないが、四方田の感じた寂寥感はとてもよくわかる。

また、高山宏や久保覚などとの関係などの未知の情報、さらにこの長編をたんなる伝記ではなく評論として昇華させている後半の「間奏曲」と題された部分にある師弟関係というものについての考察、とりわけ、ジョージ・スタイナーの『師の教え』(※)の解題は勉強になる。フッサール-ハイデガー-ハンナ・アーレントの関係なども、そこまでのものとは知らなかったので興味深い。スタイナーの
◆「
なぜ、多くの師が書物を著すことを厭い、もっぱら口頭で弟子に接してきたか。世俗的な技術の伝授と超越的な世界観への帰依との違いは何か。一子相伝とは、また教えることの拒否とはいかなる行為か。インターネット時代において師弟の関係にどのような変化が予想されるか。
」◆

といった問いかけ、さらには、『師の教え』の最後の言葉には、考えさせれる部分が多い。
◆「
われわれは、師とは過ちを犯しやすいものであるということを見てきた。嫉妬、虚栄、虚偽、背信が、ほとんど避けがたく忍び寄ってくる」と、スタイナーは『師の教え』の最後の頁に書き付ける。だが、希望を新たにし、完璧さを欠いた驚異こそが、われわれを人間の尊厳へと導いてゆくのではないか、と彼は続ける。最後にこの書物は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の詩の引用で幕を閉じている。「師とは過ちを犯しやすいものである」という一節は、それまでこの書が例証してきたさまざまな師弟の物語を総括してあまりある含羞をもっている。
」◆
完璧さを欠いた驚異。このことに、なるほどわかる、と納得しているぼくのような人間はどう考えても、どう足掻いても「驚異」にはなりえないのだろう。しかし、「完璧さを欠」くことが許されるのは、救いになる。しかし、まあ「驚異」の人は、「完璧さを欠い」ていることも自覚していないのだろうけれど。

そういった意味では、四方田自身も、「完璧さを欠いた驚異」であるような気がしないでもないが(自身がこの評論で公開しているような自戒以上のものをもっていそうな気がする)、それが、彼の文筆を魅力的しているのかもしれない。
#
師といえば、おそらく多くの人たちの師となっており、「完璧さを欠いた驚異」の可能性も高そうなのが、デイヴィッド・オグルヴィだろう。ぼく自身も仮想的には師と感じている人ではある(仮想なのでまったく意味はないけれど)。すでに新訳で『ある広告人の告白』が復刊されているが、同じ海と月社から『広告の巨人オグルヴィ語録』が発売された。これが「5分で入り込める」2冊めだ。買ってから気づいたのだけれど、これも新訳復刊で、前書は『創造力と知恵』というメインタイトルで、開高健が監訳(監修)していた。手元の初版を見ると1989年の本なので、20年近く前といっても言い過ぎではない。リスト・マニアぶりを発揮している、オグルビーの箴言を、いま、仕事人生の中間地点で読み返してみるのも悪くはない。オグルヴィに習ってリスト・マニアになるのもの悪くはない。同書については、役に立つ部分も多いのであらためて紹介していこう。ところで、この「海と月社」は『売る広告』なんかも狙っているのだろうか。

(※)じつは、由良君美はスタイナーの書をいくつか訳している。しかも面白そうなタイトルだ(『言語と沈黙―言語・文学・非人間的なるものについて』、『脱領域の知性』)。そんなこと5章まででは書いていなかったはずなのに、ぼくの読み落としか?