Boys Be Unbalance♪

Doblogからの避難民です。
バイクやらダンスやら興味の向くままに書き連ねていきたいと思います。

自分の手は汚さない人々。

2010-05-30 | うにゃ
■伊藤園・資生堂、動物実験廃止へ…欧米に配慮
(読売新聞 - 05月29日)

先ず、反論不要。
良い悪いの判断は自分でします。
企業として動物実験を廃止する決断は結構大変ではないかなぁと思います。
考えられることとして、今までの蓄積データ(物質)の組み合わせで何とかする、代替法を使う、天然由来成分を使うといったところかなぁ。
それでも(法として)定められた手法でスクリーニングできないのは研究開発に多少なりとも影響を与えるのは間違いない。
動物実験やったものは使いませんっていう人々を見ると、某宗教団体の死んでも輸血しませんが思い浮かびます。
信念はあるのかもしれないけど、倫理観が狭すぎる。
現代社会から離脱して暮らせばいいのに・・・
日本にいたらそれはできないとかそれこそ言い訳かなぁと思います。
動物実験やってたらそれこそ人じゃないような言われ方とか・・・うんざり。
自分はそれこそ動物実験を生業にしてますが、それこそ可哀想という気持ちだけで職務を放棄する気はさらさらありません。
会社が動物実験やめますと言ったら、それに従いますけどね。
動物実験やってる自分の信念はひとつ。人の安全が第一です。
本音で言えば今より給料くれるならやめるけど、代わりの誰かがこの仕事をやることになるなら、今できる自分がやります。
動物実験をやってるからこそ代替法とかにも目を向けています。
動物も大好きです。
時々、マウスのケージ交換をしながらマウスの仕草に微笑んでます。
話しかけちゃったりもしてます。
世の中0か1かだけで決められることなんて無いと思うし、一面だけを見てその固定観念を押し付けてくるのは迷惑です。

追記:毒性についての学問をトキシコロジーと言います。トキシコロジーにおいて毒とは物質そのものの性質ではなく、量によって決まります。砂糖や塩でも致死量はあるんです。一般的には毒性の出る量が少ないもの(つまりは少量で強い毒性がでるもの)が『毒』と言われます。食品でも薬品でもある物質を添加するとき、その物質の安全な量を決める必要があります。動物実験の内で最も多いのはこの量を決める安全性試験です。

あと、一度某大学で講師として授業をした際に動物実験の代替法として細胞を用いた試験系を紹介したときに出た質問『細胞だって培養液の中で生きていると思うのですが?』。この質問にまだペーペーだった(今もぺーぺーですがw)私は『ある面からみたらそうだと思いますが、私としては細胞を代替として使用する意義があると考えています。こういう言い方はずるいかも知れませんが、これからもっと勉強してあなた自身で“生きている細胞”を代替としていいかどうかを決められるべきだと思います』と答えました。その方が今どういう答えを出したかは定かではないですが・・・

なんか取り留めもない話になってきたのでこの辺で〆。

可哀相という言葉。

2010-05-24 | うにゃ
日本語は難しい。
『可哀相』という言葉、相手に同情する、哀れに思う。
使い方を間違えると上目線のすごく嫌な言葉になる。
どうにかしたい、なんとかしたいと頑張っている(少なくともお互いの存在を認識している)一個人に向けて『可哀相』と言う人は、事をどことなく対岸の火事と捉えているというか無責任な感じを受ける。
最近では良くない状況を茶化して『可哀相な奴』といった使われ方が多いので余計にかもしれないが、私はこの言葉が嫌いだ。
とある人を前から余りよく思ってなかったけど、この言葉を吐いた事で嫌いであることを再認識したという話でした。