梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

別れは、出発。

2017年03月26日 | 日記
説教題:別れは、出発。
説教箇所:創世記13章8節-18節

起、別れ
 2016年度も今週で終わりになります。小学生は、6年間の小学校での生活を終え、その生活に別れを告げることになります。同様に、中学生、高校生は、それぞれ3年間の生活を終え、同様に、その上の学年、例えば短大生や専門学校生、大学生、大学院生も、・・それぞれが与えられた年期を終えて、・・・学校生活に別れを告げていくことになります。・・・・その区切りが卒業式になります。

・・・卒業式というなら、教会の関係では、CS幼小科の牛島健登君が小学校を卒業しました。また、結城 波さんが高校を卒業しました。・・・・・大変、おめでたく嬉しく思います。また、卒業ではありませんが、永山辰原神学生が城西教会での2年間の学びを終えて、原田 賢神学生が1年間の学びを終えて、いわば別れを告げていくことになります。また、湯川洋久兄が、城西教会での1年の教会生活でしたが、新しい職場が決まったため、教会に別れを告げることになりました。これまた、大変、名残惜しく、残念でもあります。

 こうした別れが目の前にありますが、また別の別れもあります。長い間、それも生活そのものとも言える仕事、職場との別れがそれです。そこにも、「御苦労さまでした」、と言って差し上げたいと思います。

 また、私たちはこれ以外の別の別れを知っています。今までの紹介した別れとは比べようもない、この地上での生涯を終えた人との別れです。その方々は、もうこの地上にあっては、私達と一緒に食事をすることも、私達に話しかけることもできません。その内の一人、私達の教会員だった森 栄子さんは、礼拝堂のいつもの「あの席」にいません。聖歌隊のいつもの並びの中にもいません。また、城西教会への転入会を直前にして亡くなられた浅海健一郎さんも、もうあの優しい語り口で話しかけてはくれません。・・・・・こうした大事な人との別れを、どういい表しらいいか、適切な言葉を持ち合せていません。・・・・・・敢えて申し上げるなら、「淋しいです」とか、「残念です」、という言葉になるのではないでしょうか。

 さてこのようにこの時期、私達は、「別れ」を経験します。・・・・しかし、別れは別れに留まらず、・・・新しい出発でもあります。そのことは譬え、・・・この世の生涯を終えた人に於いても例外ではありません。その方々も新しい出発をするのです。


承、創世記13章より
  今日の聖書の個所も、「ロトとの別れ」、という小見出しがついているように「別れ」の話です。登場人物は、アブラム、後のアブラハムとロトです。以降、アブラムはアブラハムと申し上げます。そしてこのアブラハムという名はアメリカの16代大統領リンカーンのファーストネームでもあります。アブラハムという人は後代にそういう影響を与えた人物でもあります。一方、「ロト」はアブラハムの兄弟であるハランの息子です。ですから、二人は叔父と甥の関係になります。

そういう二人が飢饉のため、逃れていたエジプからUターンして、ネゲブ地方に戻ってきました。そしてもう少し旅を続け、かって初めて祭壇を築いた場所、今でいうと死海の北東部、エルサレムの北側あたり、聖書では、ベテルとアイの間、と称された場所・・・そこに来ました。そこが今日の物語の舞台となったところです。・・しかし、そこはアバラハムとロトにとって、適切な所では有りませんでした。
なぜなら、彼等は、多くの羊と牛を持っており、・・それらの家畜を養う上においては、・・その場所は狭すぎたのです。・・・彼らにはもっと広い場所が必要でした。・・・・そういう訳で、家畜に食べさせる草と飲ませる水ゆえに、アブラハムとロトの陣営で争いが起きたのです。・・・・・大げさにいえば、叔父と甥の間で、いわば「骨肉の争い」が起きたのです。

そこでアブラハムはロトにこう言います。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。 あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右にいくなら、わたしは左に行こう」(創世記13:8-9)・・・・このアブラハムが言ったことは3点にまとめられます。1)親類同士だから争うのは辞めよう 2)ここで別れよう 3)あなたがいい方を取っていい 、ということです。 

 そしてロトは、アブラハムの言葉に甘えるように、ヨルダン川低地一帯を選んで移り住みました。ヨルダン川低地一帯は、目を上げて眺めると、・・・主の園のように、エジプトの国のように見渡す限り潤っていた、と称された所でした。すなわち、牧草となる草と汲みあげる水が豊富にあったのです。ロトは、「いい方」を選んだのです。・・・・・ただ、ロトは少し欲張りすぎたのかもしれません。悪名高い、「ソドム」という町まで、自分の縄張りを広げたのです。・・・・後になって、このことが彼に災難を及ぼすことになりますが、・・・この時のロトには、・・・「目の前の牧草と水」しか見えていませんでした。・・・・
・・・ともあれ、アブラハムとの別れを経て、・・・ロトは新しい出発をしたのです。

転、
 さて、ここで、「別れに際し」、アブラハムがロトに対して取った態度、それを考えてみたいと思います。私達もおそらく、これからも数限りない別れを経験すると思います。アブラハムの取った態度は、そうした状況で、・・・キリスト者である私達がどうあったらいいか、というその参考になると思うからです。

アブラハムとロトは、繰り返しになりますが、叔父と甥の関係にありました。ですから、何事をするにも、年長者として当然、アブラハムの方が先に選ぶ、という優先権があったのです。それは多くの社会でもそうであるように彼等の社会にあっても常識でした。そして、ロトが財産を沢山持っていた、というのは実は、アブラハムのお陰でもあったのです。と言うのは、彼らがエジプトに避難していた時、アブラハムの妻サラが、「アブラハムの妹と偽った」が為、エジプトのファラオに気に入られ、王宮に召し入れられた、ということがありました。その為、アブラハムは、ファラオから特別な配慮を戴くことができました。彼らが財産持ちだった、というのは、実はこの時期に財産を増やすことができたからです。そういう訳で、ロトはいわばそのおこぼれに与ることができたのです。・・・ですから、ロトには、その事情からしても、「自分の方が先に選ぶ」、という権利はなかったのです。

・・・そういう事情の中で、アブラハムは、当然、自分の方が選択権を行使できるにもかかわらず、・・・・いわば、その権利を、「譲った」のです。
・・「君の方が、いいと思う方を取れ」、と。・・・・これは、結果としてアブラハム方が、「困難を引き受ける」、ということを意味しています。・・・「にもかかわらず」、というこの時のアブラハムの態度は、実はイエス・キリストが、・・・その生涯において「そう生きられた」、という、・・・いわば、「予型」、「模範」、ということができます。

  その事を、後に、使徒パウロは、フィリピ信徒への手紙の中でこう記しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:5-8)

・・・・創世記とこのフィリピの手紙、この二つの神の言葉は、私達、キリスト者が何かを選ぶ時、「君の方が、いい方を取れ」、と敢えて言う自由を教えてくれています。そしてまた敢えて、「自分の方が、困難を引き受ける」、という自由をも教えてくれています。・・・・・だから、その自由において、「あなたもそうしなさい、」とキリストは言われるのです。

・・・ただ、それは、「そうするあなたを放ってはおかない」、という神さまの確かな裏書き保証があるのです。聖書にはそのことも証言されています。・・・神さまは、困難な方を引き受けたアブラハムに、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」、とそう祝福の言葉を語られています。また、神さまはイエスさまに「それ故、キリストを高くあげ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのです」、と同じようにイエスさまも祝福されているのです。・・・・・・私達、人間は強くはありません。むしろ弱いです。ですからこの神さまからの裏書き保証なしには、困難を敢えて引き受けるようなことはできません。・その祝福と約束が信じられるが故に、わたしたちも何かを選ぶに際して、・・・「ちょっと、損する方を選ぶ」、ということが現実としてできるのです。


結、別れは、出発。
 それにしても別れというものには、どうして、「悲しみ」が付きまとうものでしょうか。・・アブラハムにとってロトとの別れは、二重三重の悲しみであったと思われます。二人は、メソポタミヤ、聖書では「ウルの地」と称される所から、何千kmもずっーと行動を共にしてきた仲でした。その甥であるロトとの別れは、子のいなかったアブラハムにとって、わが子を失うに等しい悲しみであったに違いありません。・・また、アブラハムには、明らかに好ましくない方向に進んでいったロトを見て、・・単にいい土地をロトに選ばれたという思いを越えて、何よりもロトとの肉親としての間関係が破綻した悲しみの方が強かったに違いありません。別れはこのように、人の心に悲しみの気持ちを起こさせます。

 私事ですが、今から23年前、・・・・私も、当時、3歳と4カ月になる娘と生き別れをしました・・・・妻との間に絶え間ないいさかいがあり、私は止もう得ず、離婚を選択しました。その選びをした為、確かに、いさかいは無くなり、家庭には平穏が戻ってきました。しかし私は、もう娘を抱くことはできなくなりました。抱いた時、この腕に伝わる太もものふくよかさ、ほっぺのふくよかさ、・・・・それを喪いました。リビングのカーテンを開けた時、遊園地のジャングルジムで大声をあげて遊んでいる娘の姿を見ることもできなくなりました。・・・それは私の人生にとって、最も辛い出来事の一つで、私はその為、「鬱の状態」にもなりました。・・・別れは私にも、このような言葉に尽くしがたい悲しみを齎しました。
・・・この時期、私達も、親しくしていた人と別れが待っています。・・・・・・別れは、このように、私達に、「悲しみ」の思いをもたらします。

・・・・しかし、別れは新しい出発でもあります。・・・別れは、私たちを大抵、新しいステージに連れて行ってくれます。・・ロトは、アブラハムから別れを告げられた時、人生で初めてと言っていい程の大きな決断をせざるを得ませんでした。それまでは年長者であり、叔父でもあるアブラハムの言うことさえ聞いていれば、問題なかったのが、自分で考え自分で決断する、・・そうせざるを得ませんでした。・・好むと好まざるにかかわらず、それはロトにとっての自立の第一歩でありました。新しい出発は、このように人を自立へと促すのです。

 わたしも娘と別れて、いつか娘と再会した時、娘から、「このお父さんで良かった」、とそう思って貰えるような生き方をしようと心に誓いました。そのように生きれた、とは言いません。しかし、そう決意したということは、私の心の中で、いくらかでもちゃんと生きよう、という心の歯止めになっていたと思います。娘と別れての新しい出発は、「いつか会えるその時に」、という緊張感と「いつかは会える」、という希望とをもたらしたように思います。それはわたしにとって生きる力となっていきました。

・・このロトのように、私の経験のように、・・新しい出発をすることは、自分の生き方が試され、自分の決断が試されることでもあります。例え、その結果が、マイナスとでても、プラスとでても、それは自分にとって「相働きて、益となる」、と考えるなら、また経験値を積み上げたと考えなら、・・・新しい出発は間違いなく、成長の一歩になる、ということができるでしょう。
 
 ただ、新しい出発をすることは、ある意味、過去との決別が必要です。もし、自分が望んだ会社ではなかった、・・・あの会社に行きたかった、と過去を引きずるなら、・・・新しい出発にはなりません。また、ある意味、自分が持っている能力や知識に拘り過ぎるなら、・・それも同じで新しい出発とはなりません。

・・・私が在籍していた栗田工業という会社は、多少、変わった会社でした。今でいう「森友学園」チックな社風がありました。新入社員研修の最後の日、新入社員を皇居前に並ばせ、「敬礼」、をさせていました。幸い、その慣習は、私が入社した年には廃止されました。
しかし、面接で、「君はどこを希望するか」、・・・・「私は理系なので研究所勤務を希望します」、と答えた新入社員を、わざとのように「営業に回す」、ということをしていたのです。つまり、人は一人でに自分の枠を作り、その中に自分を納めようとする所があります。しかし、栗田工業は、その人の得意とするところを一端、捨てさせ、取っ払い、・・・全く新しいところに挑戦させる!・・そうしてみても、結構、人間はやっていける。いゃ、却って自分の可能性の広さを見出す!・・・そういうことがあるということを何故だか、信じていたのだと思います。それもあり急成長した会社だったのです。ただ、最近の栗田工業は人並みの会社になり、新入社員の希望をよく聞いてそれに沿うような人事配置をしているようです。

・・・・・ともあれ、新しい出発をするなら、後ろを振り向いたらいけません。・・・前を向くのです。結婚したら、実家に帰りすぎてはいけません。就職したら、出身大学を自慢してはいけません。新しい教会に行ったら、前の教会の話をやたらしたらいけません。・・今を、前を、・・向くのです。

別れは新しい出発、・・・・これはこの地上での別れをした人への言葉でもあります。第二次世界大戦の末期のドイツ、・・・ヒットラー暗殺計画に加わったとして、神学者にして牧師だったディトリッヒ・ボンヘッファーは捕らえられ、絞首刑を宣告されます。執行される直前に、ボンヘッファーはイギリスの友人宛てに最後の手紙を書いています。・・・・「This is THE End, but for me IT is the beginning of life.」・・・日本語にすれば、・・・「これが終りです。・・・・しかし、・・・・わたしにとっては、  これが命の始まりです。」と。

・・・・・この地上で命を閉じたとしても、・・・・キリストにあるなら、・・・それは命の始まりです。神さまは、天の御国で、待ち構えてくださり、・・・「よく来た」、と抱き上げてくださったに違いありません。・・・・


  お祈りしましょう   
この時期、多くの別れがあります。・・しかし、別れは新しい出発、新しい出会いでもあります。過去により頼むのではなく、どうか、前を向き、・・あなたの将来に期待して私達を歩ませてください。
 新しい出発に伴う、苦しみを引き受ける勇気を与えてください。共にいてくださるあなたが、必ず支えてくださるという信仰をお与えください。
                 これらの祈りを主イエス・キリストの名によって祈ります。    アーメン。



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