梅﨑良則

これから城西キリスト教会の礼拝で話された説教を掲載します。

「主文、死刑を言い渡す」

2017年04月09日 | 日記
説教題:主文、死刑とする!
説教箇所:マルコによる福音書15章6節-15節


起、今日から受難週
  キリスト教会の暦で言えば、今日から受難週に入ります。受難週とは、イエスさまが大歓呼の声で迎えられ、それから十字架刑にて殺される1週間までのことです。棕櫚の主日と称される今日は、大勢の群衆が、イエスさまを、棕櫚の木の枝を持って熱狂的に迎えた日として記念されているのです。
 
承、聖書から
 さて、ユダヤの宗教指導者たちが、どの理由をもって、「イエスさまを死刑」にしようとしたのか、・・・それはイエスさまが、・・神を冒涜した、いう理由でした。しかし、その罪状は、ローマ総督府にとっては、いわば内輪の宗教上の問題でした。そこで彼らは知恵を絞り、「ユダヤの王を自称している」、「これはローマ帝国に対する反逆罪だと」、・・・イエスさまを政治犯として訴えました。・・・いわば、今日でいうところの法廷戦術であります。・・・
 
ここでの裁判官は、ローマ総督でもあるポンティオ・ピラトです。かれは絶対的権限をもっていました。だから、彼自身、実際、「俺次第で、お前はどうにもなるよ」、というようなことをイエスさまにも言っています。このピラトのことは4福音書のすべてに書かれています。後に教会は、使徒信条というものを作りますが、その中にも、「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみ」、ということで記されている人物です。良くも悪くも、彼の名は、おそらくキリスト教が続く限り、覚え続けられるでしょう。ともあれ、4つの福音書を読んでそこから透けてくるピラトの人物像は、「凡庸な人ではなかった」、と言えましょう。だから、彼は、・・・ユダヤ人達の訴えが実は単なる口実で、その本音は、ねたみからでたことであると見抜いていました。だから、ピラトは何度か、「この男に罪は見いだせない」、と釈放の提案をしているくらいです。
 
 しかし、群衆は「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」、と叫び止みません。そこで、ピラトはそれ以上、イエスをかばい立てすることが、自分の利益にならないとして、妥協して、バラバを釈放し、イエスさまを十字架につけることを了承したのです。・・・・ここまでが今日の聖書のあらましです。・・これが説教題、「主文、死刑を言い渡す」の背景です。
 

転、
 さて、今日の聖書個所に登場する人たちの人となりを、それぞれ見てみたいと思います。6節には、ピラトが出てきます。7節には、人殺しをした暴徒、・・バラバと言われる人物がいます。8節には、群衆がいます。10節には、祭祀長がいます。15節には、具体名は記されていませんが、イエスさまを引き取った兵士が登場します。

まず最初の人物のピラトは、先程申し上げたように、この裁判の本質が、「ねたみからでたこと」、とよく解っていました。ピラトの言動からして、彼は、次々と起きる物事の本質が何であるか、あるいはその時の人々の心がどうであるか、手に取るようにわかる人だったと思います。それであるからこそ、彼は高級官僚として属領、ユダヤの支配者として君臨できたのです。役人の常として彼は、・・・用心深く、利益とリスクを絶えず天秤にかけ、・・・・いつも利益をとっていくタイプだったと思われます。・・・・・だから、これ以上、イエスさまをかばい、もし、暴動にでもなれば、ローマ帝国から、管理能力のない総督だ、として烙印を押されてしまう、・・・・そんなリスクは負いたくないし、負わない!・・・・ 妻があの男には手をくだすなというけど、たかが一人のユダヤ人ではないか! 冤罪だとわかっていても自分の身を守るためなら、だれかが犠牲になることは仕方がない、・・・こう考えたでありましょう。・・・・こう考える人なら、今でも、・・・どこにでもいます。

 暴徒とは、暴動の時、人殺しをした人物として描かれています。・・・・聖書学者は、バラバを当時の宗教団体、ローマから独立を勝ち取ろうと活動した熱心党の党首だった、と考えているようです。だから、自分達の理想実現のためには、敵対する者を殺してもいい、・・・・・読みこみすぎかもしれませんが、・・・バラバはそういう人物だったのかもしれません。・・・・・であれば、かってのオーム真理教の狂信的な宗教指導もそうでありましょう。また、北朝鮮のような全体主義体制もそうでありましょう。・・・・・こういうことなら、今日も、色の濃淡はあれ、・・・そう言う人、団体はありましょう。

 群衆とは、・・・・この群衆は、ほんの数日前は、イエスさまを「ホサナ」、(ああ、救い給え!)と大歓呼で迎えました。ところが、その群衆が、今度は祭祀長達の扇動で、・・・「十字架につけろ」、と180度、態度を変えてしまうのです。・・・・ところでどうして扇動されたのでしょうか・・・・当時、モラルが低かった時代、人を動かしていたのは、「賄賂」でした。・・・・「十字架につけろ!」、と大声を出すだけでいいならそうしよう。と、そう思ったのかもしれません。・・・・・この頃はうるさくなりあまりききませんが、・・・「・・・・○○に1票いれてくれたら、1万円くれるというなら、・・誰にもわからないし、そうしよう」、・・・こういう話ならつい最近までありました。

また、群衆は、ユダヤ各地から集まってきていました。過ぎ越しの祭りにはそうしたのです。群衆は、今日の私たちと同じように出身も違えば、考えも違います。・・・・・しかし、彼ら、群衆にも共通した思いがありました。それは、異邦人、ローマ帝国を追っ払って、かってのダビデ王朝を復活してくれる「真の救い主の到来」、だったのです。・・・この人がそうだと期待し、大歓迎もしたのに、・・・・何のことはない、「神の国など」、・・目に見えない訳のわらないことを言って、・・・・自分達が待ち焦がれた救い主ではなかった!・・・・全く期待が裏切られた!・・・かわいさ余って憎さ100倍!
・・・・・・・2014年の衆議院選挙で民主党が敗北しました。その選挙で、民主党に×をつけ、自民党に○を付けた人達も、自分たちの期待が裏切られたということにおいて、これに近いのではないでしょうか。・・・・一般化していうなら、このように群衆は豹変します。・・・・自分の期待に応えてくれる限り満足し、期待を裏切った人などは、何の価値もない、落ちぶれようが、死刑になろうと知ったことではない・・・・それが群衆だと言えましょう。・・・・今日のマスコミ、・・・褒めちぎっておきながら、ある時から、一転して叩きまくる、・・・・それならそれも、今日の日常風景であります。

 ・・・・しかし、「豹変しなかった人」はいたのです。・・それはイエスさまの故郷、ガリラヤからついてきた群衆だというのです、・・・彼らは最後まで、その数は多くはなかったようですが、・・・・イエスさまに対する思いを変えなかったのです。それは、マルコによる福音書の15章40節に、小さく記されている人々です。その人たちのことを聖書は控えめに「この婦人達は、イエスがガリラヤにおられた時、イエスに従ってきて世話をしていた人々である」、・・・・いつの時代も、見捨てる人がいれば、このようにどこまでも付いて行く人がいる、・・・・それも群衆というものではないでしょうか。・・・群衆とは、・・・・「あれだ」、と決めつけるものでもなく、・・「あれであるし」、「これでもある」のです。

 次に、祭祀長たちです。資料を読むと、ユダヤ人の最高議院は、サドカイ派、パリサイ派、長老、という人々、・・12名程度の人々で構成されていたようです。彼らは行政権と裁判権をもっていました。だからこの人達がイエスさまを裁いたのです。・・・しかし、聖書には、その彼らが、「イエスさまをねたんだ」、ということを明白に記しています。このようにねたみの気持ちは、それも男のねたみは、・・人を死に追いやるのですね!・・ところでねたみとは、・・自分が欲しいものを、相手がそれ以上に豊かにもっている、・・・・そう思った時、・・起きるようです。・・そういえば、音楽の才など全くない、とそう自任しているわたしは、・・・上手に奏楽している人を見て、ただ素晴らしいと思うだけで、ねたみが起きたことはありません。・・・でも、同業の牧師の働きに対し、あるいはすばらしい説教をされることに対し、・・・ねたみがないとは言いません。自分も牧師として、多少「何者か」、という自意識があるからでありましょう。
・・・・・・ともあれ祭祀長たちは、民衆から今までのように尊敬の眼差しで見られていたかった、・・しかし、民衆はこぞってイエスさまの方にその心が向いてしまった!・・・ヨハネによる福音書には、「見よ、何もしても無駄だ、世をあげてあの男についていったではないか!」、(ヨハネ12:19)、とねたみの感情を通り過ぎ、憎々しげに語る、彼らの心の内が描かれているのです。

 最後は、ローマの兵士です。彼らは肩書さえも、ましてやここでは名前さえ記されていません。ただ、イエスさまを「十字架につけるため引き取った」、役割上の人物としてそこにいた、とされる人物です。彼らは、権力のある人物には、表向き従順です。しかし、弱いものには態度を180度変えて、今度は自分が権力者となってしまうのです。・・・・弱い立場になってみて、弱い人のことはよくわかるはずなのに、今度は自分が弱い人に対する支配者になってしまう。・・・・人間とは何と悲しい動物なのでしょうか。・・・ローマの兵士たちも、自分が小さなピラトになり、権力を好き勝手に行使しています。16節以降に記されていますが、・・・イエスさまを散々、なぶりものにして自分達の憂さ晴らしをしています。・・・・・・こういう姿をみると、今日、いじめられっ子だったのが、今度は、いじめっ子になる構図と似ているように思え、・・・わたしは人間の罪深さを思われ、悲しくなるのです。

 
結、わたしも死刑判決に同意した!
  使徒、パウロは、ローマの信徒への手紙というのを書いていますが、その中で、「正しい人はいない!一人もいない!」、・・・・とそれこそ断罪しています。その意味は、人間の本質として、神の前には、「正しい人はいない」、・・・それも強調していうなら、「一人もいない」、ということです。

今、ピラト、暴徒、祭祀長、群衆、兵士とみてきましたが、その内、・・・誰一人、神の前に正しい人はいませんでした。誰もが、罪を抱えていました。ピラトは、自分を護るためには正義を貫くことを犠牲にしました。暴徒は自分の主義主張のためなら人も殺しました。群衆は、自分の望みを叶えてくれないとわかると態度を豹変させました。祭祀長は、自分のプライドを守るためなら、人を扇動し、殺してしまうことなど厭いませんでした。兵士は、弱い立場にある人をなぶりものにしました。・・・・・これらの者たちに、もし櫛をさすなら、・・・・突き刺さる、それは「自己中心性」、だということができましょう。そのすべて者たちに、「自分中心」を見ることができます。使徒パウロは、これを罪と呼びました。

ところで、私たちはこのように彼らの罪深さを、一様に、えぐり出すことができました。・・・・・しかし、そういう私たちも、今度は、彼らから、・・・・ピラトから、暴徒から、祭祀長から、群衆から、そしてローマの兵士から、問われるのでありましょう、・・・・「あなたもイエスの十字架の傍にいなかったのか」・・・・・・と。

・・・・そう言われれば、私たちも本質として、小さなピラトであり、小さな暴徒であり、小さな祭祀長であり、・・・・小さなローマの兵士ではないでしょうか。・・・・・・自分だけは違う、といえる人はいるでしょうか!
・・・・だとすれば、私たちもイエスさまも死刑判決に、・・・小さく頷いた一人であります。

しかし、イエスさまは、・・・・・ただ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と叫ばれて十字架にて絶命されました。小さく頷いた私たちを責められていません。

後に、このイエスさまの十字架の死が、・・・「私の罪のあがないのための死だった」、「この人の受けた傷により自分は生かされているのだと」、ということが、弟子たちにもやっとわかったのです。

それから、人々はこのことを、・・福音、すなわち「よき知らせ」、と呼ぶようになりました。なぜなら死ぬべきは、罪びとであったわたしであったのに、・・・・・代わりにイエスさまが死んでくださったからです。

私達は、この受難週、・・・何をもって、  これに応答するのでしょうか


お祈りしましょう。    全知全能にして不変なる方、み名を讃えて心から讃美します。
今日も聖書から、私たちが罪多きものでありながら、イエスさまの十字架の恵みによって、救われていることを思い起こさせてくださり心から感謝します。

ぞうぞ、この週、イエスさまの受難を自らのことして歩む週でありますように。

 この祈りを主イエス・キリストの名を通して祈ります。
                                               アーメン。

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