ウマさんの気ままな行動日記(その2)

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日本100名城巡り No.81 松山城

2011年05月16日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月16日(月)


松山城は松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城で、別名を金亀城あるいは勝山城という。
山頂の本壇にある天守(大天守)は、日本の12箇所に現存する天守の一つとして名高い。

今回が二度目の登城となる。
2年前に訪れたときには、100名城のスタンプのことを全く知らなかったため、今回再度訪れた次第。
かみさんは登りが苦手なため、ロープウェイを利用して東雲口から登城した。

ロープウェイを降りて東雲口登城道を進むと、大きな石垣が現れた。
迫力を感じる石垣である。曲線が何とも云えぬ美しさを見せてくれる。
石垣の上の建物は、位置関係から推測すると隠門と思われる。


大手門跡
門を出て左側を進むと、黒門口登城道を経て二之丸に下ることになる。
帰りにこちらを通って下りることにした。


待合番所跡付近から太鼓櫓を見たところ。
待合番所は、東雲口からの登城道と二之丸からの登城道の合流する地点に、
警備のために設けられたが、場所ははっきり特定できていないそうだ。


戸無門
本丸の大手登城道に設けられた門である。


創建当初から扉を持たなかったことから、戸無門と呼ばれる。
高麗門の造りになっている。後ろに見えるのは、太鼓櫓。


筒井門
本丸大手の重要な固めで、城内で最も堅固な建造物の一つである。
筒井門は脇戸付の櫓門で、慶長年間(1596~1615)の築城に際し、
正木城から移築されたと伝えられる城内最古の建物であった。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十四年に焼失したため、同四十六年に復元されている。


隠門
正門である筒井門の奥の石垣の陰に隠された、埋門形式(うずみもん)の櫓門で、
戸無門を通過して筒井門に迫る寄手の側面を急襲する策略が秘められている。
慶長年間(1596~1615)の築城時に建てられており、創建当時の技法が残されている貴重な建造物である。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十五年(1950)の法改正により重要文化財になっている。


内側から見た筒井門西続櫓同東続櫓


内側から見た隠門続櫓


太鼓門
本丸大手の正門と位置付けられている脇戸付の櫓門
太鼓門は、巽櫓や太鼓櫓とともに防衛線を構築しており、隠門と筒井門とその続櫓による第1の防衛線に続く、
第2の防衛線となっている。


太鼓櫓
本丸の西南隅に配置された矩折(かねおり)の二重櫓で、巽櫓・太鼓門と合わせて一連の防衛線となっている。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十年(1945)に焼失した。同四十八年に復元されている。


巽櫓
本丸南東(巽方向)に位置する二重櫓で、太鼓門と一体となって防衛線を構築している。
これは、本丸側(南東)からのアングルのため、巽櫓の特徴である千鳥破風は残念ながら撮られていない。


井戸
築城時に谷だった場所を埋め立てるのに合わせて、泉を掘り下げて造られた。
深さ44.2m、水深は9mあり、当時の技術では、通常、掘ることができない深さがある。
戦前までは釣瓶が備えられ、冷水を汲み上げて飲むことが許されていた、そうである。


正面に本丸がその雄姿を見せてくれた。
直ぐにでも入りたいが、その前に紫竹門乾門野原櫓などを見て廻ることにした。


本丸入口では城のマスコットキャラ”よしあきくん”が迎えてくれる。


紫竹門
本丸大手と搦手を仕切る脇戸付高麗門で、本壇北側にあった中仕切り門と合わせ、搦手を固める重要な門である。
後ろに小天守閣が見える。


門の前面、小天守下に紫竹が植えられていたことから、この名がつけられた。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十五年(1950)の法改正により重要文化財になっている。


南隅櫓(右側)と北隅櫓(左側)
その間は十間廊下と呼ばれる渡櫓で繋がっている。


乾門東続櫓は、搦手の防衛を担っていた。


東続櫓は、慶長年間(1596~1615)の築城時に正木城から移築されたと伝えられる。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十年に戦災で焼失したため、同五十七年に乾門と合わせて復元されている。


乾門から南隅櫓・北隅櫓を見たところ。
中央に屋根だけ見えるのが、天守閣である。


野原櫓
本丸の北に配置された二重櫓で、小筒櫓とともに城の北側に対して防衛を担う櫓である。
質素で機能的な武装建築の手法が採られている、そうだ。
屋根の上に物見を載せた望楼型二重櫓で、全国で唯一の現存事例とのこと。
望楼型櫓が発展して天守が生まれたとする天守望楼起源説を裏付ける資料として注目されている。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十五年(1950)の法改正により重要文化財になっている。


南隅櫓
南隅櫓は本壇の西南隅に位置し、乾門方面を防衛するとともに、二ノ丸・三ノ丸を監視する二重櫓である。


北隅櫓
本壇の西北隅に位置し、乾門・野原櫓および北郭方面を防衛する二重櫓である。


天神櫓
本壇東北の隅に位置し、艮櫓(うしとら)・艮門および小筒櫓を防衛する。


艮門同東続櫓
本丸の北東(うしとら方向)に配置された脇戸付の櫓門と二重櫓で、城の東側の防衛を担っている、
また、ここから出撃し、大手や搦手に迫った寄手の背後を急襲するという役割も担っていたと考えられている。
明治時代に取り壊されたようだが、昭和五十九年(1984)に復元された。


紫竹門を入り、城内をぐるっと一周したところで、いよいよ本壇へ入城だ。
本壇は天守を中心とする城郭建造物群の中枢である。
本壇入口から天守広場までは、一ノ門ニノ門三ノ門筋鉄門が設けられ、それぞれに塀と櫓を伴っている。

まずは一ノ門
脇戸付の高麗門で、本壇の入口になるので、この名がある。
二ノ門南櫓・三ノ門南櫓・小天守閣から射撃される構えとなっている。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十五年(1950)の法改正により重要文化財になっている。


続いて二ノ門
本壇における第二番目の門で、薬医門の形式を持つ。
天守閣三ノ門東塀から射撃される構えとなっている。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十五年(1950)の法改正により重要文化財になっている。


小天守閣
天守閣に次ぐ重要な二層二階の櫓で、大手・搦手を防衛する絶好の位置にある。
慶長年間創建当時は着見櫓と云われていた。
天明四年(1784)雷火のため焼失したが、安政元年(1854)に復興された。
国宝に指定直前の昭和八年(1933)に放火によって焼失。同四十三年に復元された。


そして三ノ門
本壇における第二番目の門で、薬医門の形式を持つ。
天守閣三ノ門東塀から射撃される構えとなっている。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十五年(1950)の法改正により重要文化財になっている。


さらにその先に筋鉄門がある。
脇戸付の櫓門で、門の柱に鉄板が張ってあるのでこの名がある。
櫓は天守閣と小天守間の通路となり、三ノ門を防衛する構えとなっている。
昭和八年(1933)に放火によって焼失。同四十三年(1963)に復元された。


筋鉄門東塀
一ノ門南櫓一ノ門小天守閣を防衛する。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十五年(1950)の法改正により重要文化財になっている。


南隅櫓十間廊下
南隅櫓は本壇の西南隅に位置し、乾門方面を防衛するとともに、二ノ丸・三ノ丸を監視する二重櫓である。
十間廊下
北隅櫓と南隅櫓を結ぶ廊下となっており、その桁行が十間あるのでこの名がある。


北隅櫓
本壇の西北隅に位置し、乾門・野原櫓および北郭方面を防衛する二重櫓である。


本壇
慶長年間、加藤嘉明が松山城郭を創建した当時、天守閣は五層であった。
嘉永十九年(1642)松平定行が三層に改築したが、天明四年(1784)に雷火のため焼失。
安政元年(1854)に天守閣の復興工事が完成。
三重三層地下一階附の建造物である。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十五年(1950)の法改正により重要文化財になっている。


穀倉
天守閣の地下一階にあたり、俗に米蔵という。
約二千俵の米を収蔵できる。現在は、天守閣の入口に使用されている。


天守閣に登る前に内門玄関多聞櫓を見ておくことにした。
内門は、天守閣の西側に位置し、仕切門との間は桝形になっている。
上の櫓は天守閣と玄関多聞の通路となっている。
天守閣および玄関多聞の戦力によって防衛される。


仕切門
脇戸付の高麗門で、天守閣の北側に位置し、内門との間が桝形になっている。
天守閣・玄関多聞によって防衛される仕組みとなっている。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十五年(1950)の法改正により重要文化財になっている。


仕切門内塀
乾門方面に対する防衛の構えとなっている。
天明四年(1784)に雷火のため天守閣とともに焼失したが、安政元年(1854)に再建された。
昭和十年(1935)に国宝に指定されたが、同二十五年(1950)の法改正により重要文化財になっている。


天神櫓
本壇東北の隅に位置し、艮櫓・艮門および小筒櫓を防衛する。
松平家の先祖である菅原道真の像を安置し、城の安全を祈ったので、この名がある。


穀倉を入って最初の階段を登ると天守閣一階になり、武具や・・・


甲冑などが展示されている。


順路に従って、内門渡櫓玄関多聞櫓北隅櫓十間廊下南隅櫓多聞櫓小天守筋鉄門櫓を通って天守閣ニ階に行けるようになっている。
我が国の代表的な連立式城郭と云われる所以である。

小天守閣から見た多聞渡櫓と北隅櫓


二階では、録画で城の歴史が上映されていた。


二階からの眺望
一ノ門・一ノ門南櫓・二ノ門南櫓・ニノ門・三ノ門が見える。


さらに階段で天守閣最上階に上がる。


天守閣最上階はかなり広い


天守閣からの眺望(その1)


天守閣からの眺望(その2)


天守閣からの眺望(その3)


大手門まで戻り、ここから黒門口登城道を下ってニ之丸跡に進む。


石段が続き、周りは緑に包まれており、静けさが漂う。
標高132mの城山は築城当時ははげ山であったが、植林されて現在は松山城山樹叢として県の天然記念物に指定されている。


多くの人は東雲口へ向かうため、こちらはあまり人が通らないようだ。


5分ほど下ると、素晴らしい石垣が現れた。尾谷門付近と思われる。


さらに下ると一段と素晴らしい石垣が現れた。
持弓櫓付近で、左側は西大砲台で、かつては大砲が据え付けられたところであろう。


槻門(けやきもん)跡
本丸大手への登城道とニ之丸搦手への道の分岐点に位置する重要な門で、城内最大の櫓門であった。
これが本来の登城道であったと云われている。


ニ之丸公園
ニ之丸史跡庭園の前に広がる広大な公園である。


ニ之丸史跡庭園
ニ之丸は、本丸を防備するための施設で、南と西側には内堀があり、
高い石垣と強固な櫓や門、それらをつなぐ塀に寄って囲まれ、内側には、
藩主の生活や政務のためのニ之丸邸があった。


大井戸遺構
発掘調査によって、東西18m・南北13m・深さ9mあることが分かった。
防火用水として備えられたもの。


貞享四年(1687)に新たに三之丸邸が完成し、藩主は三之丸邸に移ったため、
ニ之丸邸は世継ぎの方の屋敷として使われた。


明治になって一時期、ニ之丸邸は藩庁・県庁として使われたが、
明治五年(1872)に焼失し、ニ之丸邸はその歴史の幕を閉じている。
当時の部屋の間取りが遺構の上に表現されている。


県庁方面からニ之丸史跡庭園を望む。


前回訪れた際には、短時間でさらっと見ただけだったので、天守閣以外の建物あまり気にしなかったが、
今回は一通り見て回り、見所の多い城であったと感じている。
実に多くの建物が残されており、”素晴らしい城だった”というのが実感である。
再び「国宝」に、の声が上がってもおかしくないと思うがいかがだろうか?

この後、ロープウェイ乗り場近くのレストランで昼食を摂り、次の「湯築城」に向かった。


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