ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.88 吉野ヶ里

2011年05月12日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月12日(木)


吉野ヶ里遺跡は、今から1,700~2,300年前、およそ約600年間続く弥生時代の全ての時期の
遺構・遺物が発見された学術的価値の高い遺跡、というふれこみである。
現在復元されているのは、今から1,800年前頃の吉野ヶ里の姿で、弥生の世界を見ることが出来る。

吉野ヶ里歴史公園の入場門
近代的な何かのテーマパークのような印象を受ける。


右手遠くに北内郭(きたないかく)が見える。一際高い建物が天守閣か?


環壕集落の入り口は、周りを環壕と城柵で囲まれている。
小学生の一行が説明を受けているところだ。
小中学生が学習のため大勢訪れていた。


逆茂木(乱杭)
敵の侵入を防ぐ役割をする。
米作りが盛んになるにつれて、水や土地を奪い合う争いが起こるようになる。
人々は自分たちの集落を守るため、集落の入口の特に重要な区域には、
とがった木の枝や幹でバリケードを築き、より厳重に守っていた。
これを逆茂木(さかもぎ)と呼んでいる。


環壕と木の丸太の塀で囲まれている。
近代城築における堀と石垣の原型ともいえる。


中に入ってしばらく進むと環壕集落の南部に「南のムラ」がある。
ムラは吉野ヶ里の丘陵一帯に分散的に誕生し、南内郭の外にあり、
庶民が暮らす村で一般の人々の居住地となっていたところである。


竪穴式の復元家屋が建ち並んでいる。
人々は農耕や生活に必要な様々な道具作りを行いながら、北内郭や南内郭の支配層の生活を支えていた。


内部は中央に火を燃やす穴が設けられているだけの簡素な建物である。
半地下式土間になっているため、夏は涼しく冬は暖かい、そうだ。


ムラ長の一家
「南のムラ」をまとめていたムラ長一家の敷地には、住居や倉庫以外にも
大型の倉庫や集会所などの建物があった。


食料用の倉庫などは、高床式の建物となっている。


南内郭(みなみないかく)の門
吉野ヶ里の2つの中心区域のうち、南側にあるものを南内郭と呼ぶ。
弥生時代後期になり、ムラからクニに発展し、南内郭と北内郭をもつようになる。
集落の発展とともに防御も厳重になってくる。
四方に盾が置かれ、兵士が出入りする人たちを見張っていた。


南内郭は、吉野ヶ里の集落を集め、周りのムラムラを治めていた王や支配者層が
住んでいた場所と考えられている。
壕と柵で厳重に囲まれ、内部には物見櫓も設けられている。


南内郭の物見櫓
南内郭の中の4か所に建てられている。
集落に近づく者たちの見張りをしていたところである。


物見櫓からは周りの集落などが一望に見渡せる。


南内郭の物見櫓から見た倉庫群。
この一帯では市も開かれていたことから、吉野ヶ里のクニの交易の中心地であったと考えられている。


動画で見たところ(その1)


動画で見たところ(その2)


大人(たいじん)の住居
大人は、南内郭の中で暮らしながら国の政治を執り行っていた。
大人たちの中で最高の権力者が「」と考えられている。


家の内部は、先程のムラよりもいろんな物が揃っており、やや広い。


の住居
特別な柵で囲まれている。


内部は、大人の住居よりさらに「王」の権力を示す品々が揃っている。


酒造りの家
女性たちがその年に収穫された米を蒸して、祭りや儀式で使う酒をつくる家


南内廓の見張り台から見た、北内郭


北内郭(きたないかく)の入口
南内郭より厳重な木の塀で囲まれていることから、南内郭より重要な場所であることを示している。


北内郭(王の宮殿)
当時、まつりごと(祭りや政治)が行われた中心部と考えられている。
一段と高い建物は、天守閣ではなく、儀式を執り行うための建物であった。


二階には、中央に王が座り、左側のムラ人と右側の支配層が向かい合って、
田植えや稲刈りの時期などを決める儀式を行っている様子が展示されている。
戦いや狩りの祈りなど、重要な事柄は全てここで決定されたと考えられている。


三階には、祈りなどの儀式が執り行われている様子が展示されている。
最高司祭者(巫女)が、祖霊からお告げを授かるために蔓を頭や身体に巻き、
手に小笹を持って、琴の音に合わせて神がかりしようとしている。
巫女の発するお告げを聞きわけ、伝える人が控えている。


斎堂
斎堂は、主祭殿と東際殿との間に位置することから、祭りの時に身を清めたり、
祭りの儀式に使う道具などが置かれていた施設と推定されている。


高床住居
神聖な区域の中にあり、高床倉庫と違ってほぼ正方形に近い形をしていることから、
吉野ヶ里の最高司祭者の住まいだったと考えられている。


最高司祭者は一般の人々の前にはほとんど姿を現さなかったと考えられており、
まさしくプライベートな空間だった。


北内郭の物見櫓
この区域の特色から、見張るため以外に、四方を祭る役目も持っていたと考えられている。
南内郭の物見櫓と少し形が異なる。



甕棺墓列
弥生時代中期の一般の人々の墓地「甕棺墓列」などが多数発掘されている。
吉野ヶ里遺跡では、3,500基以上も発掘されている。


北墳丘墓
銅剣や管玉など数々の副装品を伴っていることから、吉野ヶ里を治めていた歴代の王の墓と考えられている。
北墳丘墓の周りには空白地帯があり、一般の甕棺墓列とは隔絶されていた。
埋葬内容などから既に二つの階層(首長・祭事者たちと統括・指導される人々)が存在していたことが想定される。


縄文時代には、人が亡くなると地面に穴を掘って、直接遺体を埋めていたが、
弥生時代になると石棺木棺甕棺などに遺体を収めて埋葬することが始まる。


北墳丘墓では、大型甕棺を2個合わせて、そこに大人の遺体をおさめるという
葬法(大型合口甕棺)が用いられた棺が14基出土している。
組み合わされた甕棺の長さは2mにもなる。



既に16時半を回り閉館時間も迫ってきたので、最後に「中のムラ」を通りながら、出口に向かうことにした。
「中のムラ」は、祭り、政治、儀礼などの道具を作る場所である。

織物の倉
祭りや儀式で使われる織物や衣類を収める倉


供物倉
祭りや儀式のときに、お供えする食物などを収める倉


稲穂の倉
その年に初めて収穫し、安芸の祭りで特別にお供えする稲穂を収める倉


養蚕の家
祭りや儀式で使う、絹織物の糸を生み出す大切な蚕を大事に育てる家


蚕を大事に育てている様子が伺える。


駆け足ではあったが、何とか時間内に吉野ヶ里を一回りした。
ムラ・南内廓・北内廓・北墳丘墓などを周り、古代の城へ思いを馳せた貴重な時間であった。


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