ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

旧水戸街道を歩く 第3回 松戸宿から柏へ

2011年06月26日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年6月26日(日)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回、9回に渡って歩こう、というものである。

出発地に集まるのには電車を利用することから、できれば朝の通勤ラッシュは避けたい。
そのため、本来は月末の木曜日のところを都内・千葉県を抜けるまでは、日曜日に実施することにした。

第3回のこの日、松戸宿(松戸駅)から柏駅までの約12.5Kmを歩いた。

松戸駅西口に集まった参加者は、9名。


9時ちょうど、柏駅目指して出発!!
駅前から旧水戸街道(流山街道)へ通じる道。


神輿だ。しかし、夏祭りにしてはちょっと早いような気がする。
調べてみると、例年6月30日に、秋葉神社(松戸神社)の例大祭が行われる、とのことなので、その準備かもしれない。


旧水戸街道(流山街道)を柏方面へ曲がって進む。
通りは日曜日のためか、車・人通りは少ない。
この辺りは古い家などは全く見当らず、宿場町の面影はない。


2歳10ヶ月になる孫が、我々一行を見つけて大はしゃぎ、愛嬌を振りまいていた。
事前に通過時間を知らせてあったので、出迎えに来てくれたのだ。


歩道橋が見えてきた。かつては、ここに踏切があったらしいが、今は歩道橋になっている。
車専用道路はこの先にある。


歩道橋を通って、常磐線を跨ぐ。
下を常磐線の電車が頻繁に走り抜ける。


孫とはここでお別れし、旧水戸街道を進む。
『バイバ~イ』


歩道橋を渡り終えて数分、この日最初の訪問地、「雷電神社」だ。
雷神信仰の神社で、祭神は別雷命(わけいかづちのみこと


鳥居の下に不動明王らしき庚申碑があった。
後ろに天保十三年(1842)壬寅年が読み取れる。


先ずは「雷電神社」にこの日の無事をお参り。


常磐線を跨ぐ道路
左側は山崎製パン松戸工場へ、右は国道6号へと通じている。


5分ほど歩くと国道6号に合流した。
ここからしばらくは国道6号を歩くことになる。


北松戸駅前交差点を通過。


ここで左に曲がり、旧水戸街道は馬橋駅方面へ向かうことになる。


栢日庵立砂の居宅跡”の碑が建てられている。
栢日庵立砂(はくじつあんりゅうさ)は、馬橋の俳諧人油屋(大川)平右衛門のことで、別号を栢日庵(はくじつあん)と云う。
一茶のよき理解者であり、また庇護者でもあった、そうである。
一茶が15歳で江戸に奉公に出て、20歳の頃に馬橋の油商を営む俳人大川立砂(おおかわりゅうさ)の許に奉公しながら
俳諧の道に入った、そうである。


萬満寺の山門
松戸市馬橋の萬満寺は臨済宗大徳寺派の寺院である。
創建は建長八年(1256)というから古い。


仁王門
仁王様の股くぐり”が有名とのこと。


仁王像(金剛力士像)は鎌倉時代の作と云われ、国の重要文化財に指定されている。
毎年3月27日~29日と10月27日~29日にかけて行われる祭礼の日に仁王様が御開帳される。
この期間に仁王様の股(両足の間の隙間)をくぐれば、病魔災害を防ぎ丈夫になるというのである。
かなり窮屈そうな感じがする。


立派な本堂。
本尊は、阿弥陀如来である。


萬満寺を過ぎて旧水戸街道を進む。
この先でまた国道6号に合流する。


国道6号脇にぽつんと道標が建てられているのを他の会員が発見。
道路の反対側の歩道橋の脇だったので、危うく見過ごすところであった。
八ケ崎交差点の歩道橋から国道6号を見たところ。
正面が国道6号(松戸方面)で、右が旧水戸街道(馬橋萬満寺方面)、左が印西道。


ちょうど水戸街道と印西道の分岐点である。
この碑は、今から200年以上前の文化三年(1806)に建てられたもの。


左水戸街道、右印西道の文字が刻まれている。


しばらく国道6号を進む。
軽やかな歩きだ。


蘇羽鷹神社そばたかじんじゃ


創建以前、この地には千葉孝胤が治めた三ヶ月(みこぜ)の馬橋城が建っていた。
馬橋城の廃城後に千葉氏の加護を受けてこの神社が創建された、とある。
千葉氏は陰陽道に則り、本城の亥鼻城(千葉市立郷土博物館)の鬼門に曽場鷹大明神を祀って
災難除けにしていた、とのこと。曽場鷹が転じて「蘇羽鷹」と呼ばれるようになった、そうである。


昭和五十一年(1976)に火災で焼失したが、同五十五年に再建されたそうだ。


境内の片隅に三十八貫(約140Kg)の力石があった。
江戸の昔、若者が力比べをして持ち上げていた。


蘇羽鷹神社前の国道6号を反対側へ渡って右へ進むと、JR武蔵野線が走っている。


焼き物の甕が石垣のように積まれている。
常滑市の”やきもの散歩道”を思い起こさせる風景である。


道端の庚申堂


『いやぁこれは見事な木だねぇ!』
きれいに剪定されている。何という木だろう?
この辺りは旧水戸街道の小金宿で、良く手入れされた立派な庭の家が多い。


虚無僧寺一月寺
松戸市小金に所在する日蓮正宗の寺院で、山号は金龍山(きんりゅうさん
普化宗の関東総本山という地位にあって、正嘉年間(1257-1259)に金先古山禅師によって創建されたと伝わる。
徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めたとのことだが、明治政府の方針により、幕府と縁の深い普化宗が廃止されたため、
僧侶は僧侶の資格を失ってしまった、そうである。
普化宗は、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。


小金宿の旅篭「玉屋
小金宿は、江戸時代より旧水戸街道の宿場町として栄え、成田街道でもあったことから、旅篭が多かった。
鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で江戸後期の旅篭の原型を留めているとのこと。


表の案内板によると、
『当時の小金宿では鈴木、月見里、綿貫、湯浅、芦田、安蒜、大熊が役職に従事していたが、未だ姓は現存している』
とのことである。
この近くには、ここに紹介された名字の家が多いのだろう。


東漸寺とうぜんじ
東漸寺は、浄土宗のお寺で、今から約530有余年前の文明十三年(1481)、経譽愚底運公上人により、根木内に開創された。
その後約60年後の天文年間に現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林(浄土宗の僧侶養成機関・学問所)の1つ
とされた名刹である。
前方に見えるのは、総門。


総門の先にもまだ長い参道が続く。
参道は掃き清められ、緑に包まれた広大な境内に感嘆の声が上がる。
『こんな立派な参道は初めてだよ。素晴らしいねぇ』皆感心するばかりである。


山門
文化元年(1804)に楼門造りとして再建され、昭和五十二年に営繕されている。


山門の先に中雀門が続く。
紅葉の時期(12月初旬)の中雀門は、それは見事だそうである。
あらためて紅葉の時期に訪問してみたい、と思う。


中雀門を通ってようやく本堂に辿り着いた。
徳川家康の加護を受け、十八檀林というだけあって、立派である。


本堂前の松の枝ぶりも素晴らしい。


小金宿に生まれ育った明治維新の志士 兄竹内廉之助(左)と弟哲次郎(右)兄弟の碑が建てられている。
兄弟は、幕末天保年間に小金宿に生まれ、父に学問・剣術を学び、やがて二人で江戸に出て、漢学や剣術の修行に励んだ。
哲次郎は、尊皇攘夷思想に目覚め、水戸天狗党の筑波山挙兵に兄と共に参加したが、1864年24歳で死亡。
兄廉之助はその後、新政府の赤報隊幹部になるなど、明治維新で活躍した。1868年、31歳で死亡、と案内されている。


東漸寺を後にして、北小金駅方面へ向かう。


スーパーイオンの前に道標があった。
一つは右水戸道中と記されていたが、もうひとつは読めなかった。
(右水戸海道と記されているそうである)


そろそろお昼時である。
昼食は柏駅に着いてから、と考えていたが、柏駅まではまだ少し距離がありすぎる。
適当な店を探しながら進んでいると、国道6号との交差点に牛丼の「吉野屋」があった。
グッドタイミング、迷わずここで昼食を摂ることにした。


昼食後、国道6号を横断し、根木内城址へ。


根木内城址(ねぎうちじょうし)は、今は鬱蒼とした空堀と、


土塁くらいしか残っていない。
盛り上がっているのが、土塁だ。


土橋を渡ると、その先には広場があり、今は公園となっている。


城址の説明に見入る皆さん。


かつての城址は国道6号建設で真っ二つにされてしまったことが分かる。
右の昭和24年当時の城址は、現在の倍近い広さがある。
斜めの直線は国道6号に予定されていることを示している。
左が平成15年の城址だが、国道6号線で真っ二つになっており、左側半分は既に住宅が建てられてしまっている。
そのうちここも無くなってしまうのだろうか?


根木内城址から少し進むと、道路の右手に庚申塔があった。


バス停の名前も「庚申塚」になっている。


しばらく進むと香取神社があった。
香取神社は、江戸時代初期創建の旧向小金新田の産土神(うぶすながみ)である。


青面金剛(しょうめんこんごう
人間の体内には三尸という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行くという。
そのため、三尸が活動するとされる庚申の日(60日に一度)の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は、
人々が集まって、徹夜で過ごすという「庚申待」の風習があった。
青面金剛は、三尸虫の昇天を押さえ、人を助けてくれる、ありがたい神なのだ。


一里塚碑
かつてはここに一里塚があり、榎の巨木あったが何年か前に枯れてしまい、植え継がれている、とのこと。


香取神社の真っ赤な鳥居と拝殿


南柏駅付近
車の往来が多くなってきた。


今谷上町稲荷神社


茅葺きの屋根が特徴だ。屋根の形も少し変わっている。


八坂神社
水戸街道は、水戸藩士の通行や旅人の往来に使われていたが、広大な原野である「小金牧」を通過するため、
道に迷うことがあったそうだ。
そこで、水戸藩から資金を与えられ、街道に千本の松を植え、道しるべの役割としたのが、松並木の始まりと云われている。
昭和50年代までは、当時をしのぶ松並木が見られたが、付近の環境が変わり、松も老木となったりして切られ、
現在では残っていない。(案内板より)


南柏駅前交差点を過ぎ、数百m行くと、別雷神社・稲荷神社わけいかづちじんじゃ)がある。
ここは豊四季、柏駅も近い。


豊受稲荷ゆたかいなりじんじゃ
豊受稲荷本宮は全国でも珍しい神仏習合の稲荷神社である。
地鎮祭や七五三、神前結婚式、お祓い、人生相談、占い、各種祈願護摩など何でもござれだ。


本宮と名乗るからには、さぞや大きな神社かと想像していたが、境内?は極めて狭い。
拝殿の半分は普通の家屋に隠れている。
どうしてこのような窮屈な建て方になったのだろう?


表から見ると半分しか見えないが、奥まで行くと、このような具合だ。


白蛇弁財天もあった。


東武野田線の鉄橋を過ぎると、柏駅はもう直ぐだ。
霧雨が降ってきたが、大して気にならない。


だんだんビルや家が建て込んできた。


柏神社
羽黒神社と八坂神社を合祀した神社である。
大きな銀杏の木が印象的である。枝はかなり切り詰められている。
柏のど真ん中と云う場所柄、伸び放題にしておく訳にはいかないのだろう。


途中で足がつって痛くなってきたので最後まで歩けるか内心心配していたが、無事到着して一安心。
とりあえず無事到着を報告した。


歩行者天国の突き当りが柏駅だ。


目の前に柏駅が見えてきた。


次回の紹介を周知し、再会を誓い合って、この日は解散とした。
『今日は大変お疲れ様でしたっ!!』




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瀧を満喫 滝川渓谷の滝巡りハイキング

2011年06月24日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2011年6月24日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く同好会「健康ウォーキングの会」が主催する、
本年第22回「滝川渓谷の滝巡りハイキング」に参加した。
この日は福島県中央の「一切経山ハイキング」の予定であったが、放射線の影響を心配して中止。
その代わりに同じ福島県の滝川渓谷となった。
「滝川渓谷ハイキング」は、当初5月6日(金)に予定されていたが、東日本大震災から日が浅く、場所が福島県、
ということもあって、慎重論が相次ぎ、実施が見送られていた。

しかし、『福島県といっても茨城県境で原発からはかなり離れているし、放射線の量も茨城県より少ないっ』
会長の説得が功を奏し、今回実施の運びとなった次第である。


荒川沖駅前で「常南交通」の貸切バスに乗り込み、7時ちょうどに出発。


この後、天川団地・土浦市民会館と廻り、総勢22名が乗り込んだ。
当会会員のみでは定員に満たなかったため、他の会からの応援参加で料金低減に一役買ってもらうことに。


早速、朝食の弁当が配られた。
『おいなりさんより美味しい』と評判は良い。
「常南交通」バスハイクでは、しばらくは、この弁当が続くものと思われる。


10時10分、滝川渓谷大(おおぬかり)口に到着。
ここまでの行程は3時間10分、バスの旅としてはちょうど良い時間といったところ。


昼食の弁当を受け取り、いつもの準備体操をして・・・


10時25分、出発だ。
通常は”環境整備料”として200円必要なのだが、”大震災の風評被害の影響”で無料となっていた。
なんだか申し訳ない気持ちで一杯である。


登り口を入り、”もみじの森”を進む。


しばらく手入れされた美しい杉林が続く。


沢に架かった最初の橋を渡ると、滝川渓谷の滝巡りが始まる。


小さな神社(滝川神社)があったので、この日の無事を祈って、深々と最敬礼!


先ずは一丁目の”おぼろ滝”(一番瀧)だ。
白い水しぶきが廻りの緑に映えて美しい。


沢に沿ってなだらかな山道を進む。


次は、二丁目少し手前の”鋸歯の滝


登りだけかと思ったら、下りもある。
変化に富んだ山道である。


三丁目付近の滝だが、特に名前は付けられていないようだ。


この日は30度を超す気温。
滝の冷気も多少は感じられるが、さすがに汗が噴き出してきた。
こまめに休憩を取り、水分補給が必要だ。


小休止の後、山頂を目指す。


三丁目


炭焼きの窯跡があった。
かつては、ここで炭を作っていたのだ。
コースに沿って、10ほどの窯跡が残っているらしい。


三丁目を過ぎると沢を渡る橋がある。
絵になる風景である。


今度は、右手に滝を見ながらの道になる。


東屋があったので、ここで小休止。
こまめな休憩を取りながら進む。


見返りの滝”(蛇淵瀧:ジャブチノタキ)
この辺りが四丁目になる。


小さな滝が次から次へと現れるので、飽きることがない。


沢に沿って歩くのは、本当に気持ちが良い。
癒される風景・空間である。


みすじの滝


みすじの滝を過ぎると五丁目だ。
数字から推測すると、半分歩いたことになる。


五丁目から六丁目にかけては、急な登り降りが続く。
鎖が付けられているので、しっかりと掴まらないと危ない。


六丁目手前付近。
昨年は、前日の雨で水量が増えて危険を感じたため、この辺りで引き返したとのこと。
この日は、瀧としてはちょうど良い水量ではないだろうか。


3度目の休憩だ。
皆、汗びっしょりであるが、疲れはあまり感じていないようだ。
滝を見ながらの山歩きは実に気持ちが良い。


沢のような緩やかな流れに変わった。


六丁目に差しかかる辺り。


六丁目を過ぎると”せせらぎの滝”だ。
緩やかな流れの滝である。


しばらく”せせらぎの滝”に沿って進む。
せせらぎの音が心地良い。
景色だけでなく音も癒しの効果があるのかも知れない。


この辺りは、”滝”というより”沢”のようだ。
滝川渓谷四十八瀧”の一つなのだが、
ここは、いくつの滝があるのだろう?


七丁目手前の最初の橋を渡る。


もうひとつの橋を渡ると、七丁目である。


乾杯の滝”を通過。


木々の間から”乾杯の滝”を見下ろしたところ。


次は下りである。


水と緑と苔の生えた岩が美しいハーモニーを演出してくれる。


階段を上る。


小さいが、水量が豊かで立派な滝だ。


八丁目


沢の途中から水が湧き出ているように見える。


つづら折りの道。
『もしかしてこれが最後の坂道?』 願望らしき声も漏れ聞こえる。  


急な下りに転じるところを見ると、まだ終点は先のようだ。


最も滝らしい滝が現れた。”銚子の口滝”(臥竜淵瀧:ガロウフチタキ)だ。
豪快な流れである。


動画で見ると迫力が伝わってくる。


道は急に緩やかになった。
まるで「奥入瀬」を想い出させるような景色である。


もう少しゆっくりと時間をかけて、景色を味わって歩きたいところだ。


一口飲んだ感想 『冷たくて美味しいっ』


静かな流れに変わった。


ちょうど12時、終点に到着である。


早速、弁当を広げる。


この日は、大子町で仕入れた弁当だ。
見栄えもなかなか豪華で味も良い。皆さんの評判も上々である。
やはり、弁当は少しくらい高くても美味しい方が嬉しいものである。


山頂の店「滝川の里」
土産にと袋一杯に”山ふき”や”竹の子”を買う人も。


普通であれば、折り返して出発地点まで戻るところだが、
馬渡戸口の第2駐車場には既にバスが到着して待っていた。
片道では少し物足りない、といった声も聞かれたが、早めにひと風呂浴びることに。


東館温泉「ユーパル矢祭」で汗を流す。


風呂上がりの一杯は、格別である。


K子さんのたっての希望で、大子町の「こんにゃく関所」に立ち寄った。


理由は、”おから”が無料で持ち帰りできるからだそうだ。


青大豆の”おから”は、珍しい。
『俺らも、おから大好きなんだっ』


皆さん、土産ものの品定めに余念がない。
自分も名物の”さしみこんにゃく”を買い求めた。


帰りのバスには、満足そうな表情が溢れる。
『滝川渓谷 最高だったわねぇ』
『おからも手に入ったし、言うことないゎ』


滝川渓谷が県境で近かったこともあり、まだ明るいうちに到着だ。
『皆さん、今日はお疲れ様でしたっ!』



滝川渓谷は、「福島の遊歩道50選」にも選ばれており、一度は訪れてみたい場所であった。
昨年は都合で参加できず、今年も一時は見送りとなり、半ば諦めていただけに、今回の実施は有難かった、
というのが実感である。

心配された雨にも降られず、”南東北の秘境”の自然を満喫した一日であった。
「奥入瀬渓流」と「西沢渓谷」を足して2で割ったような景色は”素晴らしい”の一言に尽きる。
また違った季節に訪れてみたい場所である。その時は、出来れば往復ハイキングを楽しみたい。

この日は高速道料金と環境整備料が無料となり、会費が少しばかり余ったため、
皆さんのご好意で”震災義援金”として拠出することにした。
『ご理解、ご協力ありがとうございましたっ!』


ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次

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駒止湿原ハイキングとひめさゆり

2011年06月19日 | ウマさんの気ままなバスハイキング
2011年6月19日(日)


常南トラベル(株)が主催する日帰りバスの旅「駒止湿原ハイキングとひめさゆり」に参加した。
「健康ウォーキングの会」からは、自分と会長の2名が参加した。

5時40分、荒川沖駅前からバスに乗り込んだ。
早速朝の弁当が配られた。
あまりお腹は空いてはいなかったが、石岡ICから高速に乗る前に食べておいた方がいいだろう。
焼きそばとハムが盛られたホットドッグは、初めてである。


常南交通バスは、28人乗りの中型である。
この種の企画であれば、45人乗りの大型が普通だが、行き先が福島県ということもあるのか、やや少ない。
数人が体調不良で不参加のため、結局、全部で19名の参加となった。


常磐道・北関東道・東北道を乗り継ぎ、東北道西那須野ICで降りてからは塩原温泉郷から会津田島を抜け、
10時25分、ようやく「駒止湿原」(こまどしつげん)に到着。

途中、昼食の弁当が受け取り先の会津田島への配達が遅れる、というハプニングもあったが、
荒川沖から4時間半、取手から参加した人は5時間もかかったことになる。
やはり南会津は遠い、ことを実感した。


この日は日曜日のため、駒止湿原の駐車場は満杯だ。
溢れた車が道端にずらりと駐車されたままである。


駒止湿原入口の看板の前は大勢の人で賑わっていた。
尾瀬ほどではないにしても結構な人出である。


ここが駒止湿原の入口になる。


震災復興への支援協力金になれば、と、有料(200円)の小冊子を購入。


湿原内は平坦な木道で、距離も短い、ということで準備体操は省略である。
先頭きって颯爽と歩く、我らが自慢の「健康ウォーキングの会」会長


入って直ぐに小さなブナ林があり、そこを抜けると・・・


湿原らしき広い場所に出た。


参加者たちは、盛んにシャッターを押していた。


大谷地(湿原の固有名詞)に差し掛かると、一面にわたすげが咲き乱れていた。


わたすげの湿原を進む。
この辺りは一方通行だが、木道は細くて、避ける場所が少ないため、ゆっくりと立ち止まって鑑賞している余裕はない。
どんどん前に進むしかない、といった状態である。


しかし、これほどのわたすげの群生を目の辺りにするのは初めてだ。
『素晴らしいわネっ』あちこちから感嘆の声が上がる。


ひと際大きく咲いて目を引くコバイケイソウの花。


緑に包まれた湿原の景色は、一味違った感動を与えてくれる。


緑の中に白樺の真っ白な幹がアクセントを添える。


ところどころに置かれたベンチには既にたくさんの人が一休みしていた。
この分では空きベンチを見つけるのは、難しそう!


大谷地を過ぎ、小さなブナ林を抜けると・・・


白樺谷地水無谷地方向を示す標識がある。


白樺谷地・水無谷地への道は、砂利道になっている。


白樺谷地からは、一本の木道を両方向からの人が歩くため、互いに道を譲り合いながら進むことになる。
木道に人の列が続く。


ベンチは、ご覧のような状態である。


撮影が終わるまで待たされている人も。


3つ目のブナ林を抜けると・・・


水無谷地の広い湿原が広がる。


ここでもわたすげの群生を見ることが出来る。


尾瀬沼とはまた違った風景だが、素晴らしい。


ところどころに咲いているレンゲツツジの朱が色を添えてくれる。


湿原の真ん中に立つ枯れる寸前の木も景色の大切な要因だ。


水芭蕉は、既に終わっていた。
まら次の年もきれいな花を咲かせて目を楽しませてくれるのだろう。
『水芭蕉の咲く頃に来てみたいわねぇ』の声があちこちから聞こえた。


水無谷地の突き当りがこの日のコースの折り返しポイントになっている。


バスの添乗員からは、『水無谷地の突き当りの木陰で昼食でも』と勧められていたが、
それらしき適当な場所が見当たらないため、引き返すことにした。
バスまで引き返してバスの中で昼食、ではせっかくの弁当も方なしである。
ちょうどうまい具合にベンチが空いたので、ここで弁当を広げることにした。


おにぎりとおかずが2段重ねになっており、味もまあまあといったところ。
しかし、廻りの景色を見ながらの弁当はやはり美味い。
(一口ほど食べた後で、写真を撮っていなかったことに気がついた。食べかけをお見せするのは心苦しい)


昼食後、出発地点を目指して歩いて来た道を進む。


帰りの道は、途中で湿原から少し外れる。
木道ではないが湿原とはまた違った視界が広がる。


白樺の並木道”とでも名付けたい風景である。


ブナの植樹が行われている。
何十年か後には、立派なブナの林ができていることだろう。


駒止湿原を歩き終え、次の目的地、ひめさゆりを求めて「高清水自然公園」に向かったのだが・・・
(写真はバスの車窓から見たホテル南郷)


ホテル南郷からほど近い南郷スキー場駐車場の案内には、”20日からオープン”の表示が。
今日は19日なので、ここから先は進めない???らしい。
しばらく地元の案内人と常南バス添乗員の押し問答が続く。
漏れ聞こえる添乗員の話では、17日に現地に確認済み、を強く主張しているように聞こえたが・・・


地元の案内人から、高清水自然公園のひめさゆりはまだ全く開花していないので、案内しても申し訳ない、
南郷スキー場であれば少しは開花しているので、南郷ロッジまで別のバスで送迎するよう手配したい、
との提案があって、それで話がついたようだ。
後から添乗員に聞いた話だが、せっかく福島まで来て貰ったのに、手違いでひめさゆりを見ないで返すのは申し訳ないため、
何とかひめさゆりを見て貰いたい一心だったとのこと。
しばらくして19人乗りのマイクロバスバスが我々一行を迎えにきた。


バスを乗り換えて、10分ほどで南郷ロッジに到着。


ゲレンデ一面にひめさゆりが咲き初めていた。


草の丈ほどの可愛らしいゆりである。


ひめさゆり1


ひめさゆり2


ひめさゆり3


何とかひめさゆりを見ることができ、一応満足して戻りのバスに乗り込むと、
運転手さんは、さらに一段高い見晴しの良いゲレンデまで案内したい、という。
観光客を大事にする地元の人の心意気には頭が下がる思いだ。

『素晴らしいわねぇ』『最高の景色だねっ』 あちこちから感嘆の声が。
高清水自然公園からの眺望を期待していた人達からも、この眺めには絶賛の声が上がっていた。


思い思いにカメラに納めて大満足だ。


最後に思い出に残る素晴らしい眺めを提供してくれた運転手さんの臨機応変な対応に、拍手を送りたい。
しかも、バスの提供から送迎まで”全て無料”というから、恐縮してしまう。


山口温泉きらら289」で汗を流して帰路についた。


北関東道の壬生ハイウエイオアシスに立ち寄った頃には、日もとっぷりと暮れていた。



この日は、出発してから15時間半という長い一日であった。
昼食弁当が遅れたり、予定していた高清水自然公園のひめさゆりとは出会えなかったりした小ハプニングはあったが、
最後に素晴らしい景色を堪能することができ、思いでに残るバス旅行となった。


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雨中のゆりまつり 常陸風土記の丘

2011年06月17日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2011年6月17日(金)


毎週金曜に地元土浦周辺を歩く同好会「健康ウォーキングの会」が主催する、
本年第20回「常陸風土記の丘のゆり祭り」と称して「常陸風土記の丘」周辺を歩くウォーキングに参加した。
当会としては、これまでに何度か歩いたコースとのことであるが、自分は初めてである。
ゆりの季節ということで選ばれたコースであるが、果たして満開のゆりが見れるのか?

昨夜来の雨が朝から降り続き、普通の会であれば、中止となってもおかしくない天気だが、
当会では、この程度の雨では中止となることはないのである。

この日、第一集合場所の土浦市民会館第二駐車場には10名が集まった。
全員傘をさしてご挨拶。


2台の車に分乗し、「常陸風土記の丘」に向かった。


結局この日集まったのは合計14名だ。
この日の天気としては、上々の参加人数と言えるかもしれない。


9時45分、雨具を付け、傘を差しての出発となった。
スパッツも穿き、完全防水姿の人も。


金龍橋を渡る。


金龍橋から透かしゆりの花壇が見えるが、花はまだ半分程度しか咲いていない。
パンフレットには、「ゆりまつり」は6月11日から26日までとなっているが・・・


時の門をくぐると古代へタイムスリップすることになっている。
これは中世を表現している。


こちらは古代を表現した時の門


ふれあい広場へ向かうと、大きな獅子頭が見えてきた。


『うおぉ、でかいっ!』
「石岡のおまつり」に巡行する獅子頭をスケールアップしたもの。
台座からの高さは14m、幅10m、奥行き10m、日本一の獅子頭だそうだ。
階段にはロープが張られていて、上れなかった。


右側はこの日登る予定の「龍神山」だが、雨のため登るのは断念。
「常陸風土記の丘」をぐるりと一周することにした。


キャンプ場へ通じる林道へ入る。


”で~んでんむ~しむし か~たつむり~”


波付岩付近
碑の後方に岩のようなものが見えるが、入口が分からない。
雨でなければ笹・雑草を掻き分けてでも入ってみるのだが、ここも断念、素通りするしかない。


『この雨じゃしょうがないねっ!』
皆さん、納得の表情だ。


金山池付近


金山池の両側には、枝垂れ桜の木が。
『ここの枝垂れ桜は素晴らしいよ』、と評判である。
『来年は、是非桜の時期にっ』との声も。


大賀蓮は、昭和26年に千葉県検見川町の泥炭層から丸木舟と共に発見された蓮の種子を、
大賀一郎博士の努力によって開花した”奇跡の花”と云われる。
大賀博士は、この古代蓮を2000年前のものと推定したが、米国の原子力研究所では、
放射線炭素の測定により、3000年前のものと想定している。(案内板より)


花菖蒲が見頃である。


木道など整備して欲しい、と願うのは無理?


会津民家
福島県南会津郡下郷町から移築したもの。


会津民家で一休み


会津民家の縁側に展示されている”水石”に見入る皆さん。


那珂川石
どこの河原にでもありそうな石、なんて言っては失礼だろう。


透かしゆり
間もなく満開・見頃を迎える。


各種ゆりの花
いっせいに揃って咲いていると、なかなか迫力がある。
満開になると、辺りは目の覚めるような色合いのユリの花で埋め尽くされる”そうである。
今年は、見頃は20日過ぎとのこと。
ちょっと早かったようだ。


ブラックアウト?
深紅の花びらが印象的だ。


こちらのやまぼうしも見事である。


雨の日には紫陽花が似合う。


何とかゆりの花も見ることが出来て、満足の様子。
雨も上がり、『良かった良かった』


旧坂家住宅 曲家
曲家は、岩手県南部と茨城県に見られ、県内の代表的な民家形式のひとつとなっている、そうだ。
蕎麦・うどんなどの食事処となっている。
お昼には少し早かったが、小腹が空いたので、軽い食事をしていくことにした。


大盛ざる蕎麦を注文。味はまあまあで、値段(650円)も安い。


風情のある土間で蕎麦・うどんをいただく皆さん。


食事の後、入口の土産物店で、思い思いに土産を買って帰路についた。
『皆さん、お疲れ様でしたっ!』



あいにくの雨で「龍神山」には登れなかったが、来年リベンジすることを確認し合った。



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旧水戸街道を歩く 第2回 千住宿から松戸宿へ

2011年06月12日 | ウマさんの「旧水戸街道」を歩く
2011年6月12日(日)


「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回、9回に渡って歩こう、というものである。

出発地に集まるのには電車を利用することから、できれば朝の通勤ラッシュは避けたい。
そのため、本来は月末の木曜日のところを都内・千葉県を抜けるまでは、日曜日に実施することにした。

第2回のこの日、8名が常磐線に乗り合わせ、出発地の北千住駅に向かった。


目指すは松戸宿。千住宿からは約15Kmはある長い距離である。
9時5分前、この日のゴー松戸宿(松戸駅)に向けて出発だ。


北千住駅前通り。


千住二丁目交差点を右折すると、宿場町通りに入る。
千住宿は江戸四宿(東海道:品川宿中山道:板橋宿甲州街道:内藤新宿
日光街道(奥州街道):千住宿)の一つとして繁栄した。
ここから前回の続きになる。


日曜日の朝ということもあって、殆どの店はまだ開店前のようだ。


千住二丁目交差点から間もなく、宿場町通りの中ほどに、「千住宿高札場」の由来が書かれた案内板があった。
宿場の掟などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていた、と案内にある。


横山家住宅
屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
街道に面して、間口が広く、奥行きが深い、”伝馬屋敷”の面影を今に伝える、商家である。
また、戸口は一段下げて造る(お客様を迎える心構えの表れ)のが特徴である。(案内板より)


こちらは、千住絵馬屋・吉田屋
江戸時代より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを手書きで描いてきた際物問屋。
当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、
江戸時代からの伝統を守り続けている、とのこと。
ガラス戸越しに絵馬屋の看板が見える。


槍掛けだんご”のかどや
『北千住に来たからには是非食べたいわねっ』、と大きな期待を口にしていた女性陣。
早朝なのでまだ開店していないのでは? と案じたが、心配は無用であった。
『一口味見してみるかっ』と買った一串90円の団子。もっちりと柔らかくてなかなか美味かった。
女性陣は、『お土産にしようっと!』とみたらし団子も追加注文だ。


千住5丁目の信号の脇に日光街道と水戸街道の分岐点を示す碑がある。
ここから右が”旧水戸街道”(佐倉街道)だ。


数十㍍行くと、右側に千住本氷川神社があった。
徳冶二年(1307)千葉氏によって、氷川神社として創建されたというから700年以上の歴史がある古い神社だ。


先ずはこの日の安全を祈願しておこう。


常磐線の下をくぐると・・・


東武線の手前に”槍掛けの松”で有名な清亮寺がある。


参勤交代の大名行列の際、槍持ちは、いかなる理由でも槍を横に倒すことは許されない。
しかし、街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れない状態だった。
そこで、街道に張り出した松を切ろうとした時、見事な枝振りを見た水戸藩主・徳川光圀公は
『名松を切るのは惜しい、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから
槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない』と、粋な計らいをした、そうである。
以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名行列は
門前で松に槍を立て掛けて休むようになった、という逸話が残っている。
水戸光圀公ゆかりとなった松だが、樹齢350年余りを迎えた昭和20年頃に、残念ながら枯れてしまったそうである。


境内には、明治初年日本医学のあけぼのの時代、明治三年(1870)小塚原刑場で処刑された囚人11名の解剖が行われた。
それらの死罪人の霊を弔うために明治五年に建てられた墓が、後ろにある解剖人墓である。
その墓が破損してきたため、昭和四十二年(1967)新しく石碑が建立された。
解剖人墓は、昭和五十七年(1982)足立区の有形文化財に登録されている。


荒川の土手に出ると視開が開け、気持ちの良い風が吹き渡る。
梅雨とはいえ、実に爽快な気分である。


かつては千住と小菅間に”小菅の渡し”があったそうだが、今はない。
対岸に渡るため、約1Km下流の堀切橋まで行かなければならない。


日曜日とあって、河川敷のグラウンドは、大勢の子供達や若者達の練習などで賑わっていた。


サッカー、ラグビー、野球などなど・・・


堀切橋を渡る。


堀切橋の下流を走っているのは、首都高6号向島線である。


堀切橋を渡ると目の前に首都高中央環状線が見える。
左側が小菅JCTになる。


首都高中央環状線と綾瀬川に沿って進む。


小菅JCT東京拘置所近くの首都高中央環状線をくぐり、旧水戸街道へ進む。
この辺りは道幅が狭い。
当時はこの辺りは人家など殆どなかったと思われる。
近年になって建てられた家ばかりで、水戸街道を偲ぶものは見あたらない。


水戸橋を渡る。
昔、この川に架かる橋のたもとに妖怪が出没し、元禄八年(1695)水戸黄門が妖怪を退治した。
「後日再び悪行を重ねることのなきよう、この橋を我が名をとって水戸橋と命名し、後の世まで調伏するものである」
と自ら筆をとった、と云われている。


水戸橋から複雑に入り組む首都高小菅JCTを見たところ。


さらに進むと、左側に”鵜森橋”がある。


流れているのは古隅田川で、整備されていて公園の風情がある。
もう少し水がきれいであれば、云うことなしだが・・・
鵜森橋から上流方向を見たところ。


常磐線の綾瀬駅と亀有駅の中間ほどに突き当たり、線路に沿って進む。
この辺りは大きくカーブしているためか、”大曲り”と云われているそうだ。


北千住駅を出発して1時間20分余り、団地の小さな公園で一休み。
未だ1/3を過ぎた辺り、まだまだ先は長い。軽食で凌ぐことに。


西亀有の曳舟川親水公園の案内板に見入る。
曳舟川親水公園は、江戸時代に作られた曳舟川を、親水公園として整備したもので、全長3kmに及ぶという。
平成12年度建設省「手づくり郷土賞」を受賞した、とのこと。


ようやく旧水戸街道の碑が現れた。
下調べはしており、道は間違っていないつもりなのだが、このような碑を見ると、ひと安心である。
(実は、先ほどの”大曲り”への途中で道を間違えて、教えてもらったばかりだ)


亀有の一里塚
江戸日本橋から三里、千住宿からは一里のところに位置する。
旧水戸街道に相応しく、水戸黄門様ご一行の顔が彫られている。


現代の亀有のシンボル?と言えば「こち亀」であろう。
末長く残って欲しいものである。


中川橋手前の大型ショッピングセンターが見えてきた。
環七通りを過ぎると間もなく中川に差し掛かる。


中川橋を渡る。
3月11日の東日本大地震の時に、亀有で電車が止ったため、松戸まで歩いたのが思い出される。


中川の下流を望む。


中川橋を渡って新宿(にいじゅく)に入って間もなく、新宿日枝神社がある。
江戸時代には山王大権現と呼ばれていた。


鳥居は山王神社形式の特色ある形式になっている。


祭神は日枝大神(大山昨神)で、永禄二年(1559)頃に創建したものと推定されている。
元はやや西方にあったが、享保十四年(1729)中川開削工事のため、現社地に遷座。
明治時代になってから日枝神社に改められた、そうである。
平成二十年(2008)に本殿、神楽殿、山門鳥居等が一新されたばかりで真新しい。


地蔵菩薩石仏等
道路拡幅工事のために地蔵や菩薩や石仏などをこの地に移転したものだ。


平成十年建立の記念碑には、
『地蔵菩薩石仏等十三体、並びに八大竜神石碑を旧水戸街道道路拡幅、及び
旧上下之割用水埋設工事に伴い、新宿四丁目二番地先より現在地に移転』と書かれている。


地蔵菩薩石仏等の隣には、「帝釈道」と刻まれた道標が。


帝釈道の道標の直ぐ先に、JR新金線貨物線の”浜街道踏切”が。
旧水戸街道は”陸前浜街道”に続いていたので、この名が付けられた、と思われる。


この辺りまで来たところで、12時を過ぎてしまった。
当初松戸に着いてから昼食を、と考えていたが、このペースではまだ2時間近くはかかるため、
水戸街道(国道6号)沿いのファミレスで昼食を摂ることにした。


プレミアムハンバーグ(ご飯・味噌汁付で\1,280円)を注文。
お腹が空いていたので、うまかった。


昼食も終わり、再び松戸を目指してしばらく国道6号を進む。


京成金町線の踏切に差し掛かった。


左手は京成金町駅だ。
発車前の電車が停まっているのが見える。


こちら右手は柴又方面
上を国道6号線が跨いでいる。


葛西神社
始めは香取宮と称していたが、明治維新の際に香取神社となり、明治十四年に葛西神社と改められている。


葛西神社は、祭礼に欠かせない祭り囃子すなわち葛西囃子発祥の地として知られている。


葛西囃子は、葛飾地方に古くから伝わる郷土芸能のひとつで、今も東京地方に行われる祭礼の囃子である。
昭和二十八年(1953)東京都の無形文化財に指定されている。


江戸川の土手を進む。
遠くに松戸市街の町並みが見えてきた。


葛飾橋をいったん通り過ぎ、少し先に「金町関所跡之記」の碑があった。
金町松戸関所”と称され、水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関門であった。
対岸の松戸宿との間には渡船が常備されていた。


江戸川河川敷のゴルフ練習場は大勢の人で賑わっていた。


この日三つめ、最後の大きな橋、葛飾橋だ。


葛飾橋を渡る。


葛飾橋中央付近から江戸川上流を望む。
松戸駅周辺のビル群がはっきりと見える。


葛飾橋を渡り、松戸宿を進む。


松戸神社
寛永三年(1626)の創建とされ、松戸市の総鎮守とされている。
近隣には陣屋も置かれていたため、水戸徳川家より篤い崇拝を受けた。


もとは御嶽神社といい、明治十五年(1882)に松戸神社と改められた、とのこと。
お宮参り(初宮詣)である。初孫なのだろうか?


松戸宿当時?の古い家がところどころに見られる。


商家だったのであろうか。


松戸駅は目の前である。


14時50分、松戸駅に到着。千住宿を出発してほぼ6時間を経過していた。
さすがに疲れた、というのが実感である。



この日は途中で昼食を摂ったこともあるが、かなり時間を要してしまった。
万歩計は25,000を計測していた。
一応ここで解散とし、皆さんとは別れた。『皆さん、今日は大変お疲れ様でしたっ!』
近くに孫がいるので、久しぶりに顔でも見に立ち寄って行くことにした。


ウマさんの「旧水戸街道を歩く」の目次”に戻る。

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