ウマさんの気ままな行動日記(その2)

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日本100名城巡り No.80 湯築城

2011年05月16日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月16日(月)


松山城を後にし、次に向かったのが松山城から車で5分ほどの湯築城(ゆづきじょう)である。

坊ちゃん」でも有名な道後温泉のすぐ側にある「道後公園」の西口が湯築城跡の入口になっている。


幟が建てられている。
その先に復元されたものなのか? 土塁が見える。


湯築城は、伊予国守護河野氏の居城で、中世城郭で堀や土塁が現存するということで、
平成十四年(2002)国指定史跡となっている。


正面入口から中に入ると、右手に管理事務所があったが、あいにくこの日は休館日だった。
中には、発掘された出土品や戦国時代の湯築城主「河野氏」に関しての説明などがあるそうだ。
100名城スタンプ」は果たしてどこにあるのかが気になったが、館の入り口に置かれてあった。
ひとまず一安心だ。


湯築城は、南北朝時代前半の建武三年(1336)伊予国守護河野通盛によって築城されたものである。
築城当時は丘陵部に三段の曲輪が設けられた丘城であったが、
戦国時代に丘陵部を取り囲むように内堀と外堀が設けられた。

二重の堀と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つという「平山城」の形態をなしている。
中世伊予国の守護河野氏の居城として、約250年間続いた。
現在は、松山市が愛媛県の政治や文化の中心であるが、1350年頃は道後が伊予国の中心となっていたのだ。
伊予湯築古城之図


湯築城の歴史は概略以下のとおり。

河野通盛は、足利尊氏に臣従して戦功を重ね、鎌倉時代の旧領と伊予守護としての地位を固めた。 
 この過程で、高縄山城から本拠を湯築城へと移し、以後、河野総領家の代々の居城となったのである。

・応仁の乱以後、河野氏は伊予守護であったが、伊予国は河野・宇都宮・西園寺氏によって三分され、
 抗争が絶えなかった。
・天正二年(1574)に土佐統一を成した長曽我部元親が四国統一を目指して伊予へ進攻し、河野通直は元親と交戦。
・天正九年(1581)には東予に勢力を誇った金子山城主金子元宅が長曽我部氏に従った。 
・天正十二年(1584)河野通直は長曽我部氏の軍門に降った。

・天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国征伐が始まると、秀吉の命により小早川隆景が伊予に進攻、湯築城を包囲。 
 河野通直は、約1ヶ月の篭城の後に降伏。湯築城を開城して秀吉に降り、河野氏は滅亡してしまう。
 湯築城は、戦功により伊予一国を得た小早川隆景に与えられた。 
・天正十五年(1587)小早川隆景は筑前名島城(現福岡市)へ移り、湯築城には福島正則が入城するが、
 居城を府中城(国分山城:現今治市)へ移し、湯築城は廃城となった。
 
・慶長七年(1602)松山城の築城が開始され、以降、加藤氏(のち蒲生氏、松平久松氏)が伊予国松山藩主となった。


湯築城の外堀は、ほぼ完全な状態で残されている、そうだ。
これは、入口近くの外掘。


城山への道を進む。


内堀に沿って、その外側を土塁が廻らされている。


北側の内堀は、綺麗に手入れされた庭園となっている。


つづら折りの緩い坂道が、城山の頂上まで続く。


山頂は、本丸と思われるが、今は公園広場になっており、散歩を楽しむ人などが見られる。


一段高い(天守台?)ところには、通常天守閣がある筈であるが・・・


展望台が建てられていた。


展望台からの眺望
それほど高くはないので、まあまあの眺め、といったところ。


午前中に登城した松山城の天守閣が見える。
直線にして2Kmくらいであろうか。


城山を下ると小さな神社があった。
岩崎神社と云い、大蛇を祀っているといういわれがあるそうだ。


説明板によると、
昔、お爺さんが竹の子を掘ろうとしていると、おかしな事に急に眠くなってしまった。
そばの木の根元に座ってタバコを一服しながら休み、吸殻をポンと木の根っこに落した。
すると木の根っこがぐらっと揺れて遠くの方から『あっちっち』という声が聞こえたような気がした。
良く見ると、木の根っこと思っていたのは、実は大蛇だったのだ。
お爺さんはあまりの怖さに気を失い、蛇に食べられてしまったのである。

この蛇は大変大きく、この蛇の長さは、この神社より寺に届くぐらいだったそうだ。
その後大蛇は暴れ回り、何人もの村人を飲み込んだり、村中を荒らし回ったそうだ。
困り果てた村人はどうしたら良いか相談し、神社を造り蛇を祀ることにしたのである。
それからは、蛇は暴れることもなく、村は平和になった
、そうである。



右側は、外堀の土塁であり、左側は遮蔽土塁である。


遮蔽土塁は、外堀と内堀が最も狭い場所に築かれており、
その目的は、大手からの視線を遮ることと、上級武士居住区への容易な侵入を防ぐことにある。
土塁の間には、門があったと考えられている。


上級武士の居住区
区画が表示されている。


発掘調査に基づいて、上級武家屋敷の一部が復元されている。
武家屋敷2の中には、当時の資料(出土品や絵)などが展示されているそうだが、
休館のため中には入れなかった。


池の跡なども発見されており、復元されている。
かつては、庭園が造られていたようである。


上級武家屋敷付近の内堀
内堀の幅は11~12m、深さは3mほど、とのこと。


内堀土塁
武家屋敷街と丘陵の間には内堀と土塁が復元されている。
内堀を造った時に掻き揚げた土を盛って土手(土塁)を造っている。
内堀土塁の基底幅は7m、復元高は2m。


復元された塀


竹が生えているが、この辺りが当時のゴミ捨て場だったようである。
土師質土器の皿が大量に出土し、また、破損した陶磁器や魚骨・貝類などが見られることから
ゴミ捨て場として利用されていたと考えられている。


武家屋敷1の門
家臣の住居には、このように門があった。


武家屋敷1
中は、当時の家臣たちが寄り合って相談していたという推測で人形が復元されている、とのこと。


円形石積遺構
武家屋敷1の近くで発見されたが、何の目的で造られたかは不明(謎)だそうだ。


湯築城を一回りし、車を停めた湯釜薬師方面へ向かう。
綺麗に手入れされた庭園で、散歩にはもってこいの場所だ。


湯釜薬師
道後温泉の湯釜は温泉の湧出口であり、道後温泉本館が建つ前の温泉場で使われていた。
河野通有の依頼により一遍上人が「南無阿弥陀仏」を頂部に彫ったと伝えられている。



直前に松山城の堂々たる石垣や天守閣・櫓を見た後なので、やや物足りなさを感じる。
管理事務所があいにくの休館日だったため、何の資料もなく城内を回ることになり、
普通とは順路が逆になってしまったようである。
朝早く九州を立ち、城巡りを強行したため、いささか疲れが出たようだ。
温泉にでも入って、明日に備えることにしたい。


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