ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.89 佐賀城

2011年05月11日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月11日(水)


かみさんと二人で大分県臼杵市から日帰りで佐賀方面に出かけた。
行く先は、佐賀城と吉野ヶ里である。高速を使っても片道2時間半はかかる距離だ。


佐賀城は、佐賀藩祖鍋島直茂が慶長七年(1602)から築城を始め、慶長十六年(1611)に完成した。
写真は鯱の門の外側の石垣
苔むして、歴史を感じさせてくれる。


鯱の門続櫓
鯱の門とともに重要文化財に指定されている。


鯱の門正面
屋根の両端に青銅製の鯱が載ることから「鯱の門」と呼ばれている。
明治七年(1874)の佐賀の乱による弾痕が、今も門の扉に残されていた。


内側から見た鯱の門


本丸御殿(佐賀城本丸歴史館)
佐賀城本丸歴史館は、平成十六年(2004)に佐賀城の本丸跡に復元されたもの。
今年(2011)は、佐賀藩祖鍋島直茂が佐賀城を築城し、本丸御殿に入ってから400年の節目となる年だそうだ。


御玄関
本丸御殿の正面玄関で、藩主や幕府の使者などの特別な人が利用する玄関だった。


ここからは、地元の展示解説ボランティアの方に案内して貰った。
外御書院北廊下


本丸御殿の北御書院付近から本丸跡天守台を望む。


明治時代の本丸御殿の写真
当時の資料や写真を元に復元されている。


本丸御殿では、藩政を行っていたことから、復元された建物以外にも必要な建物がびっしりと建っていたそうである。
現在、復元されているのは、その一部に過ぎない。
本丸内で藩政を行っていた城は全国でも珍しいとのこと。


外御書院
一之間、二之間、三之間、四之間を合せると320畳の大広間となる。
お世継ぎのお披露目、幕府からの贈答品のお披露目など佐賀藩の公式行事が行われていた。
天保九年(1838)の本丸完成披露の時にはこの場所に1,000人の家臣が集まった、そうである。


御座間
天保九年(1838)に十代藩主直正により建設され、藩主の住居として利用された。
現存する天保期の建物として、佐賀市の重要文化財に指定されている。


藩主直正が暮らしていたところ(御座間・堪忍所)で、内部は質素に造られていた。


御料理間では、藩主や佐賀賢人たちの書などが多数展示されている。


明治政府の外務卿として対中国外交やマリア・ルス号事件の解決に当り、外交官として高い評価を受けた
副島種臣の書「長寿無涯


10代藩主鍋島直正の書
座右の銘は「先憂後楽」”天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ
大規模な行財政改革を断行し、藩校教育を推進した。
大砲・蒸気船製造や西洋医学研究など当時の日本で最先端といわれる近代化を推進して、
藩としても、個人としても幕末維新期に大きな存在感を見せた。


天然痘の予防のために当時あまり行われていなかった種痘を嫡子淳一郎(直大)に接種し、藩内に広めたりもした。


さらに佐賀藩は国内で初めて反射炉を製造したことでも知られている。
反射炉は、銑鉄を溶解して優良な鉄を生産するための炉で、幕末には全国各地で反射炉が造られ、
より安価に大量の大砲を製造した。
佐賀藩で造られた大砲はペリー来襲に備えて東京お台場にも据え付けられた。
戊辰戦争ではアームストロング砲を用いて、新政府軍を勝利に導いた、そうである。


また佐賀藩は、洋式の軍隊を組織し慶応元年(1865)に蒸気船凌風丸を建造するなど近代化を進めた。
幕末の佐賀藩の活躍を説明するボランティアの方の解説にも熱が入る。


佐賀の七賢人
前述の外務卿副島種臣・藩主鍋島直正に続き、
廃藩置県を行った江藤新平や東京専門学校(現早稲田大学)を開校した大隈重信が著名であるが、
この他には、東京府知事の大木喬任・日本赤十字社の創始者佐野常民・北海道開拓の父(開拓の神)と呼ばれた島義勇の7人だ。


本丸天守台の石垣


天守台へ通じる石垣


天守台跡
天守閣は享保十一年(1726)に焼失し、以後再建はされていない。


天守台から西側土塁石垣を見る。
土塁・石垣の突き当りに「亀甲乱積」といわれる手法で石が積まれている南西隅櫓台が見える。


天守台から見た鯱の門


佐賀城を囲む堀は、幅40間(約70m)もあり、通常の城の倍以上の広さがある。
左端に「亀甲乱積」といわれる手法で石が積まれている南西隅櫓台が見える


堀端南通りから県立美術館方面をみたところ。
平城のために堀を大きく造った、とのこと。


佐賀城見学の後は、解説ボランティアの方の奨めでお城近くの「佐賀レトロ館」で昼食を摂ることにした。
明治20年に警察部庁舎として建築されたものだが、なかなか洒落た建物である。
佐賀県の食材を使用した洋風懐石は、落ちついた雰囲気で愉しめた。
もちろん料理も美味しかった。


解説ボランティアの方からの熱い説明を受け、佐賀県・佐賀県人を見直すきっかけとなったことは確かである。
昼食を済ませた後、この日のもう一つの訪問地吉野ヶ里に向かった。


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