2010年10月10日(日)
日本100名城のひとつ「長篠城」を訪れた。
長篠城跡に到着すると、先ず目に付くのが、「長篠城史跡保存館」だ。
史跡保存館は、後でゆっくりと見学することにして、本丸跡地に向かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/9c/79f75c035930134564ad6613c08b673a.jpg)
本丸跡地入口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/86/2e36206e9e6beb418638d7d65d26e05e.jpg)
本丸跡地前の長篠城縄張り概図
本丸後ろは左を三輪川(現宇連川)、右側を寒狭川(現豊川)が
流れており、天然の要害となっているのが分かる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/5c/60dd0f0204ce8a31c3bad5a495f27a77.jpg)
本丸入口の左側に本丸を囲む土塁が保存されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/cd/c9583aec3cc93933647f7fdd02cd611a.jpg)
土塁を上がると、長篠城址の碑が建てられていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/49/5e11828b86f7ee1a4834e89dd985649b.jpg)
さらに進むと稲荷神社の鳥居があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/5c/30e8367045ae9e76e836ceb5e03a90d6.jpg)
土塁の突き当たりに稲荷神社跡があった。
長篠城が文化財に指定されたことから、稲荷神社を
別の場所に移設した、とある。
つい最近までここに稲荷神社があったのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/a2/e776b4b6ab2c9154dc81201c6e3484b7.jpg)
土塁のすぐ脇をJR飯田線が通っていて、ちょうど電車が
通過するところであった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/83/397bc9f4beb2ad26f7f853f47f42dfed.jpg)
本丸跡は広い公園のようになっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/80/eb432a0759bbe299f5572e8b471bfbe3.jpg)
JR飯田線の後方の山には、武田軍の5つの砦があり、武田軍本隊が設楽原へ進出した後、
長篠城の押さえとして、部隊が陣を敷いて残っていた。
しかし、徳川軍の酒井忠次が東三河の軍勢を率いて裏山に回り、夜明けを待って砦を奇襲しが。
武田軍も激しく応戦したが、多数が討ち死にした。
背後の砦から火の手が上がるのを見た武田勝頼は、冷静さを失い、本隊に総攻撃を指令し、
無謀にも設楽原で馬防柵を組んで鉄砲を構える織田・徳川軍に突入していったのである。
史跡保存館に寄ってみた。
史跡保存館入口でいきなり写真のようなものが目に入った。
鳥居強右衛門(すねえもん)は、長篠城が武田軍に取り囲まれた際、
城を抜け出し、織田・徳川に援軍派遣要請の使者を申し出た人物で、
長篠の合戦では欠かせない烈士である。
城を抜け出た強右衛門は、家康・信長援軍の約束を得て城に戻る途中に、
武田軍に捕らえられてしまう。
武田軍から、城に向かって「援軍は来ないから降伏せよ」と呼ぶことを
強いられたが、強右衛門は「援軍既に本野ケ原に到着」と叫び、武田軍を
激怒させ、磔にされ殺されてしまった、という絵物語である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/ef/87d0349eff468dedf222b51c3ae59a52.jpg)
保存館の入口はあまり広くはない。
右側の窓口で入館料210円を払って中に入る。
100名城のスタンプもここの窓口に置いてある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/e7/d33b67521f74107b49fe013dc0002c71.jpg)
正面長椅子の右側で織田・徳川軍の鉄砲隊の射撃を再現した様子が
VTRで放映されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/42/83f074cafdfa44417a856c4c5f1223ee.jpg)
30人ほどが一つの隊を組み、馬防柵を挟んで3班に分かれて交代で射撃した。
これでは、最強と言われた武田騎馬武者もたまったものではない。
内部には長篠の合戦にまつわる資料等が陳列されている。
鳥居強右衛門の磔の様子
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/fb/eb198ed302a58e4ff176e39f4da674df.jpg)
長篠篭城のときに使った血染めの陣太鼓
奥平家の第一の家宝であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/2d/833009fa2ff6131191e787163c337f23.jpg)
長篠の合戦で使われた鉄砲
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/60/40167ccc0e181a9e5dcce205039b17fe.jpg)
設楽原決戦の織田・徳川軍と武田軍の布陣
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/5f/36e936e01bedb8e502e08b26861990d7.jpg)
鎧兜甲冑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/c0/2d7b3b7ea322d12042824063730e2941.jpg)
武田軍の5つの砦が、徳川軍東三河の軍勢に夜明けに急襲され、多数の武将が討ち死にしたのに始まり、
当時敵なしと言われた武田軍騎馬武者が、設楽原における織田・徳川軍との決戦で敗れるという結果に至る
までには、時間にして半日程度であった。
武田軍の油断と過信の結果だと思われる。
この戦さによって、その後、武田家は衰退・没落していき、織田・徳川の世の中になっていった。
日本の歴史上重大な意味を持つ戦いであった。
もし違った結果になっていれば・・・・そんなことを考えながら次の目的地、岡崎城へ向かった。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。
日本100名城のひとつ「長篠城」を訪れた。
長篠城跡に到着すると、先ず目に付くのが、「長篠城史跡保存館」だ。
史跡保存館は、後でゆっくりと見学することにして、本丸跡地に向かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/9c/79f75c035930134564ad6613c08b673a.jpg)
本丸跡地入口
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/86/2e36206e9e6beb418638d7d65d26e05e.jpg)
本丸跡地前の長篠城縄張り概図
本丸後ろは左を三輪川(現宇連川)、右側を寒狭川(現豊川)が
流れており、天然の要害となっているのが分かる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/5c/60dd0f0204ce8a31c3bad5a495f27a77.jpg)
本丸入口の左側に本丸を囲む土塁が保存されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/cd/c9583aec3cc93933647f7fdd02cd611a.jpg)
土塁を上がると、長篠城址の碑が建てられていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/49/5e11828b86f7ee1a4834e89dd985649b.jpg)
さらに進むと稲荷神社の鳥居があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/5c/30e8367045ae9e76e836ceb5e03a90d6.jpg)
土塁の突き当たりに稲荷神社跡があった。
長篠城が文化財に指定されたことから、稲荷神社を
別の場所に移設した、とある。
つい最近までここに稲荷神社があったのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/a2/e776b4b6ab2c9154dc81201c6e3484b7.jpg)
土塁のすぐ脇をJR飯田線が通っていて、ちょうど電車が
通過するところであった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/83/397bc9f4beb2ad26f7f853f47f42dfed.jpg)
本丸跡は広い公園のようになっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/80/eb432a0759bbe299f5572e8b471bfbe3.jpg)
JR飯田線の後方の山には、武田軍の5つの砦があり、武田軍本隊が設楽原へ進出した後、
長篠城の押さえとして、部隊が陣を敷いて残っていた。
しかし、徳川軍の酒井忠次が東三河の軍勢を率いて裏山に回り、夜明けを待って砦を奇襲しが。
武田軍も激しく応戦したが、多数が討ち死にした。
背後の砦から火の手が上がるのを見た武田勝頼は、冷静さを失い、本隊に総攻撃を指令し、
無謀にも設楽原で馬防柵を組んで鉄砲を構える織田・徳川軍に突入していったのである。
史跡保存館に寄ってみた。
史跡保存館入口でいきなり写真のようなものが目に入った。
鳥居強右衛門(すねえもん)は、長篠城が武田軍に取り囲まれた際、
城を抜け出し、織田・徳川に援軍派遣要請の使者を申し出た人物で、
長篠の合戦では欠かせない烈士である。
城を抜け出た強右衛門は、家康・信長援軍の約束を得て城に戻る途中に、
武田軍に捕らえられてしまう。
武田軍から、城に向かって「援軍は来ないから降伏せよ」と呼ぶことを
強いられたが、強右衛門は「援軍既に本野ケ原に到着」と叫び、武田軍を
激怒させ、磔にされ殺されてしまった、という絵物語である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/ef/87d0349eff468dedf222b51c3ae59a52.jpg)
保存館の入口はあまり広くはない。
右側の窓口で入館料210円を払って中に入る。
100名城のスタンプもここの窓口に置いてある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/e7/d33b67521f74107b49fe013dc0002c71.jpg)
正面長椅子の右側で織田・徳川軍の鉄砲隊の射撃を再現した様子が
VTRで放映されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/42/83f074cafdfa44417a856c4c5f1223ee.jpg)
30人ほどが一つの隊を組み、馬防柵を挟んで3班に分かれて交代で射撃した。
これでは、最強と言われた武田騎馬武者もたまったものではない。
内部には長篠の合戦にまつわる資料等が陳列されている。
鳥居強右衛門の磔の様子
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/fb/eb198ed302a58e4ff176e39f4da674df.jpg)
長篠篭城のときに使った血染めの陣太鼓
奥平家の第一の家宝であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/2d/833009fa2ff6131191e787163c337f23.jpg)
長篠の合戦で使われた鉄砲
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/60/40167ccc0e181a9e5dcce205039b17fe.jpg)
設楽原決戦の織田・徳川軍と武田軍の布陣
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/5f/36e936e01bedb8e502e08b26861990d7.jpg)
鎧兜甲冑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/c0/2d7b3b7ea322d12042824063730e2941.jpg)
武田軍の5つの砦が、徳川軍東三河の軍勢に夜明けに急襲され、多数の武将が討ち死にしたのに始まり、
当時敵なしと言われた武田軍騎馬武者が、設楽原における織田・徳川軍との決戦で敗れるという結果に至る
までには、時間にして半日程度であった。
武田軍の油断と過信の結果だと思われる。
この戦さによって、その後、武田家は衰退・没落していき、織田・徳川の世の中になっていった。
日本の歴史上重大な意味を持つ戦いであった。
もし違った結果になっていれば・・・・そんなことを考えながら次の目的地、岡崎城へ向かった。
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