ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.95 岡城

2011年05月10日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月10日(火)


この日は、親戚がわざわざ休みを取って観光案内をしてくれるという。
好きなところを言って欲しいというので、せっかくなので、岡城の観光案内をお願いした。

これまでは、岡城といえば滝廉太郎の「荒城の月」と”石垣が美しい”という程度の知識しかなかった。
”百聞は一見にしかず”ということで、案内してもらった次第である。

調べてみると、
岡城は城の外観が牛の臥せたる如きにより、別名「臥牛城」(がぎゅうじょう)という、そうだ。
昭和十一年(1936)、国指定史跡となっている名城なのである。

岡城は、中世には志賀氏の居城であったが、文禄三年(1594)中川氏の入部によって岡藩の城となっている。
現在残されている城郭は中川氏築城のものだ。
明治に至るまで岡藩を統治した中川氏によって築城された岡城は、本丸・二の丸・三の丸・西の丸・廟所
などの主な曲輪からなる、と紹介されている。
明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治四年(1871)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、
現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみとなっている。

岡城駐車場から見えるのは、西の丸御殿跡地のようだ。


登城料500円を払い、登城手形を受け取って城内に入る。


数百m進むと、左側には崖が城壁のようにそびえている。まるで天然の要塞である。
難攻不落と云われただけのことはある。
天正十四年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城を襲ったが、わずか18歳の志賀親次は城を守り、
岡城が堅城としての名声を天下に示すとともに、よく戦ったとして豊臣秀吉から感状を与えられている。
前を行くのは、2歳10カ月になる孫だ。


岡城城址の上り口


坂道を上って行くと、石垣の先に大手門跡が見えてきた。
ここは絶好の撮影ポイントらしい。
本当に石垣が素晴らしい。


結構な上りの石段が続くが、美しい石垣を見ながら進むので気にならない。


最後の急な坂道を進むと大手門が見えてきた。


大手門
大手門は、城の正面に位置する門で、本来追手門という。
追手とは、敵を追い詰める方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追い詰めて
戦闘を集中させるのが目的である、とのこと。


これは、内側から見たところ。
岡城内の主な門には、大手門近戸門下原門太鼓櫓門などがあったが、これらの門には
それぞれ門番として役職の侍番が置かれ、厳重な出入りの監視が行われた。


岡城の大手門は、文禄三年(1594)中川氏入城後、大手・近戸・下原の三口を切り開かれ、
慶長十八年(1613)に朝日がまぶしいため、古大手門から現在の位置に移された。
さらに宝永三年(1706)に立て直しを行っている、と紹介されている。


朱印倉跡の碑


朱印倉跡


本丸へ通じる通り。本丸跡まで350mとある。
岡城の城郭は、ほぼ東西に延びる台地上に展開する山城であるが、その建築形態は、
山城的殿舎で構成された曲輪(廟所)、平山城的殿舎で構成された曲輪(本丸・二の丸・三の丸)、
そして平城的殿舎で構成された曲輪(西の丸)からなっている。


本丸への途中から見た景色。


本丸手前の三の丸から見た高石垣。
岡城を代表する景色の一つとなっている。
よくもこのような高い石垣を築いたものだと感心させられる。


西中仕切り跡付近


鐘櫓跡


太鼓門櫓跡
太鼓門櫓は、城の中枢である本丸・二の丸・三の丸への関門として重要であり、
その出入りについては、特に入念に管理されていた。
太鼓櫓では時を知らせるために太鼓を打ち、城中の出火には太鼓と鐘を打ち交え、
城内の山火事や城下道筋の出火には鐘を撞き鳴らすという重要な役目を担っていた。


太鼓門櫓登り口


太鼓門櫓から三重櫓跡・本丸方向を見た景色


三の丸跡に建つ碑
三の丸は、使者の間、小姓の詰所などと三十畳の広間などの存在から、
藩主の執務が中心的に行われた曲輪であったと考えられる、と紹介されている。


三の丸武具庫跡


本丸への最後の石段


空井戸
井戸の深さは四十八尋(73m)もあるそうだ。
底には水はなく平たい石が敷き詰められていて、底から四尺のところに穴がある、とのこと。
抜け穴だったのではないかとの説もある。


本丸跡
本丸は、天守にあたる三重櫓や御金倉のほか、藩主の居住を中心とした殿舎で構成されていたそうだ。
岡城は、東西2,500m、南北362m、実面積は1,000,000㎡に及ぶという。
東京ドームの22個分にあたるというから広い。ここが山上とは思えない。


本丸跡に建つ岡城天満神社


神社の裏に御金倉跡がある。
金庫だったのであろうか?


御金倉跡からの眺望


本丸跡に土井晩翠の荒城の月の歌碑が建てられている。


本丸跡からの眺望


本丸を少し下ると二の丸跡があり、そこには、滝廉太郎の銅像が建てられていた。
名曲”荒城の月”を作曲した作曲家としてあまりにも有名である。
二の丸は、数奇屋や月見櫓などがあったことから遊興的な曲輪であったと伝えられている。
そのような背景から滝廉太郎像はここに建てられたものであろう。


二の丸からの眺望


家老中川覚左衛門屋敷跡へ通じる道
左側は家老(但見)屋敷跡、右側は城代屋敷跡


途中にあった賄方跡の石垣
城内いたるところにこのような素晴らしい石垣が見ることができる。


家老中川覚左衛門屋敷跡へ通じる道


復元された、家老中川覚左衛門屋敷跡の間取り。


随分大きな屋敷である。
二千三百石取りの家老屋敷跡に相応しい。
まるで本丸御殿のような間取りを思わせる。


家老(覚左衛門)屋敷跡から、谷の向かい側の三の丸跡を望む。


普請方跡


江戸門跡の石垣
ここを下ると七曲りを経て駐車場に行けるが、西の丸跡へ行くためここで引き返す。


別の家老(民部)邸跡。こちらも敷地が広い。


家老邸跡と西の丸御殿の境にある石垣


井戸跡
城内にはいくつかの井戸跡があるようだが、これもその一つ。


西の丸跡
西の丸は、当初三代藩主(中川久清)によって普請され、隠居後の居住地として用いられた。
元禄二年(1685)以後には、公式行事などが行われるようになり、藩主の居住所または藩政の執務などにも使われるようになった。
江戸後期には、西の丸が藩政の中心的場所となった。


西の丸跡への階段



岡城を初めて訪問してみて、岡城の石垣の素晴らしさに感動した。
これまで見たお城の中でも最高クラスの石垣と言っても過言ではないだろう。
このような素晴らしいお城が故郷に残されていることに誇りを持ちたい。

この後、竹田市街を散策した帰りに、親戚の者が是非見せたい物がある、というので連れて行ってもらった。
見た瞬間、思わず『おお~っ』と声を挙げてしまった。


何と、竹田市役所庁舎だそうだ。
まるで城郭のような庁舎を造った竹田市も、それを受け入れた竹田市民も粋なことをするものだ。拍手を送りたい。
良い土産話が出来た。

全国の自治体も、もう少し独自の色を出しても良いのではないか、と思いながら帰路についた。


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