ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.26 松代城

2010年09月25日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2010年9月25日(土)


小諸城を後にし、次は日本100名城のひとつ、「松代城」を訪れた。

駐車場から回りが田んぼの中を歩いていくと、こんもりとした林が見えてきた。
こんなところに城があるのか? と一瞬思ったが・・・

       塀に囲まれた真新しい城郭があった。
       ひときわ高い屋根のある建物は櫓(北不明門一の門)のようだ。
       平成7年度から、後で紹介する太鼓門・北不明門の復元、石垣の修復、土塁・堀等
       の整備を実施しており、江戸末期の城郭空間を甦らせている、とのことである。
       
              小さな門(北不明門)本丸二ノ門の高麗門がある。
              案内板には、松代城本丸としか書かれていない。
              (後から気がついたことだが、裏門から入ってしまった)
              





本丸北不明門
本丸の裏口(搦手)に位置する櫓門(一の門)

       本丸内から見た北不明門(一の門)
       石垣に渡らず独立した門となっている。
       
              北不明門の横に「海津城址之碑」が建てられている。
              海津城は、永禄三年(1560年)北信濃に進出した武田信玄が、
              きたるべき上杉謙信との決戦に備えて築城したとされる。
              また、天文二十二年(1553年)に山本勘助の縄張りにより
              築城したとされるが真偽の程は定かでない。
              
                     本丸戌亥櫓台から城内裏手が一望できる。
                     

本丸を挟んで北不明門の反対側に本丸太鼓門(櫓門)がある。
こちらが松代城の正門で、やはり堂々たる構えである。
太鼓門は石垣の上に建てられている。

       太鼓門をくぐると枡形になっている。
       太鼓門を橋詰門側から見たところ。
       
              枡形の先に橋詰門がある。
              

前橋を渡り、正面(二の丸)から橋詰門、太鼓門を見たところ。






内堀から前橋方向を望む。

       内堀から本丸戌亥櫓台方向を望む。
       石垣と松の木の調和がとれていて美しい。
       
              二の丸南門付近に今でも残る丸馬出し土塁
              



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天守閣げ行きつくところは (六助)
2011-09-03 19:16:30
   古城
    
 ♪松風さわぐ丘の上
  古城よ独り何偲ぶ
  栄華の夢を胸に追い
  ああ 仰げばわびし天守閣…

説によるとこの歌の主人公は上杉謙信で舞台の城は春日山城だそうだ。天守閣は春日山城も松代城も無かった。春日山城は山城で、松代城は地形が要塞で大きなものを作る必要が無かった。作詞家が思いをはせたのでしょう。
天守閣は城の威厳をあらわす象徴でそれだけ権勢があった。

むむ!時にNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」が放送中ではないか。
江は二代将軍徳川秀忠の継室で三代将軍家光の母。 浄光院は秀忠の愛人で会津藩祖・保科正之の生母。保科正之は三代将軍家光とは異母兄弟。
四代将軍家綱は叔父の保科正之や大老、老中ら名臣の補佐により、更に春日局の孫も加わり、この危難を乗り越え29年間にわたる安定政権が…と

保科正之の幕政
家光の死後、遺命により甥の4代将軍家綱の補佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。末期養子の禁を緩和し各藩のお家断絶を緩和。会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とした。大名証人制度の廃止を政策として打ち出した。

玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。

明暦3年(1657年)の明暦の大火後、焼け出された庶民を救済した。主要道の道幅を6間10.9m)から9間(16.4m)に拡幅した。火除け空き地として上野に広小路を設置し、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させた。また、焼け落ちた江戸城天守の再建について、天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、無駄な出費は避けるべきと主張した。そのため江戸城天守は再建されず、以後、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった。

この時代の幕閣(正之の他、酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋など)全般に言えることではあるが、幕政において400万両超の蓄財を背景にして福祉政策・災害救済対策・都市整備などに多くの支出を差し向けたが、貨幣の改鋳などの経済政策の欠落もあり幕府は急速に財政難へと陥っていった。正之の死後、第5代将軍となった綱吉により荻原重秀の登用など財政の再建策が講じられた。


時に大河ドラマ「江」の放送中であり、東日本大震災復興の現情勢に似ておるではないか。 うっう~む!
          六助
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