ウマさんの気ままな行動日記(その2)

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日本100名城巡り No.65 月山富田城

2011年05月19日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月19日(木)



月山富田城は、安来市広瀬町富田に位置し、飯梨川(富田川)右手の月山(標高189m)を中心に築かれた、
複郭式の山城である。
中国地方における中世城郭の代表的な城跡として、昭和九年(1934)に国の史跡に指定されている。


富田城跡案内板によると、
東西約1,200m、南北約1,200mの範囲に縄張りされた、総面積約140万㎡の日本でも最大級の規模をもつ城跡である。


月山富田城は、かつては、山陰・山陽十一カ国に号令した、戦国の覇者尼子氏の居城である。
尼子経久が富田城乗っ取りに成功し、その後近隣諸国を次々に幕下に加え、勢力を拡大した。
その勢力は安芸・備後・備中・備前・美作・播磨・因旛・伯・出雲・石見・隠岐など十一カ国に及ぶ。
しかし、永禄九年(1566)11月に毛利の軍門に下り滅ぼされてしまう。

尼子氏滅亡の後は、毛利氏・吉川氏が在城し、慶長五年(1600)に入城した堀尾氏が松江城に
居城を移す慶長十六年(1611)までこの地は山陰の主要都市として繁栄した。


月山の麓の道の駅「広瀬・富田城」に車を停め、安来市立歴史資料館横の
御子守口の登り口から歩いて本丸を目指すことにした。

千畳平太鼓檀への石段を上る。


あまり訪問者はこの道を通らないのだろうか、人の気配が感じられない。


石段を上ると千畳平太鼓檀が広がる。
千畳平は、広場の意味で、尼子時代の「勢揃い場」である。
かつては、この辺りには数か所の櫓があり、厳重に城を守っていた、と案内されている。


千畳平からの眺望
飯梨川沿いの家並みが見える。


太鼓檀は、尼子経久の頃、この丘に太鼓を吊るした建物を建て、時刻を知らせたり、
また攻め太鼓として、士気を鼓舞した太鼓のあった壇ということからこのように云われている。
今は草が生え放題となっている。


太鼓壇の隅に尼子氏を祀った小さな尼子神社があった。


尼子再興のために尽力した山中鹿介幸盛が手を合わせている銅像が建てられている。
主君尼子義久が永禄九年(1566)11月に毛利に敗れた後、尼子勝久を擁して富田城を奪回、
尼子再興を期して孤軍奮闘の活躍をした。
しかし、天正六年(1578)備中甲部川阿井の渡しにおいて、毛利の家臣に討たれてしまうのである。
この像は、山中鹿介幸盛没後400年を記念して建立されたものである。


太鼓壇を進むと大手道と搦手道との間、太鼓壇と山中御殿平の間に位置する奥書院に出る。


現在は戦没者慰霊碑が建っている。


奥書院から花の壇に進むと発掘調査をもとに復元された主屋と侍所が見えてきた。
花の壇は、昔は花がたくさん植えられていたことからその名が付けられた。
後ろの小高い山が月山の本丸跡のようだ。


当時の侍たちが過ごした家、郭を復元したものである。
あいにく中には入れなかった。


花の壇は敵の侵入を監視できることや、山中御殿(さんちゅうごてん)との連絡が容易なことから、
指導力のある武将が暮らしていたと考えられている。


通路跡
花ノ壇と山中御殿平との間の虎口で、版築された往時の通路跡の断面が屋根付きで復元保存されている。
当時は、この通路が雨などで崩れないように、版築工法で約2mの高さで真砂土と粘土を突き固めて頑丈にしていた。


山中御殿(さんちゅうごてん)
大手門を上がったところの月山中腹にある3,000㎡にも及ぶ曲輪跡。


山中御殿といわれた建物があったところで、近世期の富田城の最も重要な心臓部であった。
ここを御殿平という。


菅谷口に至る石垣


菅谷口の虎口近くにある雑用井戸


三の丸・二の丸・本丸への登城口の石垣


山中御殿の石垣


三の丸・二の丸・本丸へ続く山中御殿のもう一つの石段
かみさんは、登らないでここで待ってるというので、一人で本丸を目指した。


山中御殿から本丸(山頂)への軍用道七曲り
くねくねとつづら折りの石段が続く。


親子観音(しんしかんのん)
山中御殿平から月山山腹部に向かう登山道脇にある宝筺印塔。
慶長十二年(1607)に城内で起こった堀尾家のお家騒動の元となった
堀尾河内守とその子掃部の霊を祀ったものである


山吹井戸
山の中から吹き出す井戸ということから、この名がある。
年中枯れることはないそうだ。


しばらくは細い石段を上る。


山中御殿から12-13分ほどで、三の丸虎口に出た。わざと屈折させて攻め難くくしてある。
階段を上ると三の丸である。
月山の山頂部には、最後の砦として、三の丸、二の丸、本丸という曲輪が造られた。
三の丸はその入口にあたる重要な曲輪であった。


三の丸石垣
右手の小さな坂道を進んでも二の丸、本丸へ通じるようだが、こちらの階段を進んでみよう。


二の丸に残る神社の鳥居


二の丸からの眺望
太鼓壇より、一段と見晴しが良く、中海・島根半島が見える。


本丸と二の丸の間には高さ10mほどの空堀(堀切)があり、最後の砦である本丸を厳重に守っている。
二の丸側から本丸側を見たところ。


二の丸から空堀を進み、坂道を上ると本丸である。


本丸跡
ここは、行きつめたところにあるので、別名甲の丸(つめのまる)とも云う。


本丸跡から空堀(堀切)を挟んで二の丸を見たところ。
二の丸に見える建物は、休憩所である。


本丸跡に勝日高守神社が建てられている。
尼子時代は代々城内の守り神であった、大国主命(おおくにぬしのみこと)が祀ってある。


保元平治(1156-1159)の頃、平家の武将平景清が出雲に入り、月山に築城するに当って、
お社があっては畏れ多いと里宮を移したのが富田八幡宮で、勝日高守神社は富田八幡宮の奥宮にあたる。


本丸からの眺望
中海や島根半島、大根島、月浜半島などが一望できる、絶好の場所に位置する。


山中鹿介幸盛記念碑
月山山頂本丸跡地に建てられている。


かみさんが待っている山中御殿へとって返し、大手門跡方面を経由して駐車場へ戻ることにした。
大手門跡辺りから山中御殿を望む。


大手門跡
ここは、大手門(表門)跡で上方が山中御殿である。
門の左右の石垣の上にはかつては櫓があった。


城安寺
臨済宗南禅寺派の古刹で、正和年間(1312-1317)に古遇和尚によって創建された。
江戸時代に広瀬藩松平家の菩提寺となっている。



月山下山後、安来市立歴史資料館で100名城のスタンプを押し、松江城に向かった。


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