よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

10月8日(土)の聖言

2016年10月08日 | Weblog

「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」ローマ12:12

 悩み、苦しみ、困難など、患難といわれるものに取り囲まれるとき、何によって望みと耐え忍ぶ力を得ることが出来るでしょうか。それはただ「祈り」以外にありません。祈ることができるのは大きな力であり、望みです。苦しんでいるなら祈るがよいとも勧められています。また、祈りは私たちに与えられた特権です。天地創造の全能者なる神様にお話しすることだから。こんな大きな恵みはほかにありません。(KE)


10月7日(金)の聖言

2016年10月08日 | Weblog

「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」ガラテヤ4:6

 いろんな人間関係のなかでも、親子関係は特別な意味を持つ関係です。他人との関係ならばきっぱり処理できることでも、親子であるゆえに切るに切られぬものがあります。そのように、神様と私達は他人事ではなく、イエス様の血によって結ばれた親子なのです。だから、私たちの心に神様の霊を与えて、神様の家族に加えられているのです。(KE)


10月6日(木)の聖言

2016年10月08日 | Weblog

「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。」ガラテヤ1:10ab

  人の業には必ず動機があります。自分の欲であったり、家族、友人、恋人のためだったり、さまざまな動機によって、行動やわざが行われます。考えると、「神によろこばれよう」という動機はあまりにも少ないのでは?人に喜ばれることが神に喜ばれることだと言うのは、的外れです。常に、今自分はなんのために生きているかを自覚してください。(KE)


10月5日(水)の聖言

2016年10月08日 | Weblog

「あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、あなたの大庭に住む人はさいわいである。われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の恵みによって飽くことができる。」詩篇65:4

 人が「さいわい」といえる条件はさまざまです。ここでは神様のそばにあり、共に住んで神様からの恵みをうけることが「さいわい」だと言われます。「さいわい」の条件がうつろいゆくものであれば、さいわいな境遇もひと時のことで消えてしまいます。変わらない「さいわい」は神様と共にあってその恵みに生きることです。(KE)


10月4日(火)の聖言

2016年10月08日 | Weblog

「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。」第一ペテロ1:15

 イエス様の救いとは私たちを神の家族にしてくださることです。それゆえ、「神の家族」にふさわしく「聖なる者」とならねばなりません。神様のようになるなんて大変なことに思われます。自分の力では無理ですが、神様はそのように変えてくださいます。神の霊、聖霊に導かれて生きるとき、力が与えられ、あなたの内側も外側もまったく変えられます。(KE)


10月3日(月)の聖言

2016年10月08日 | Weblog

「もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。」第一コリント15:13

 死者の復活、これほど信じがたいことはありません。しかし、それを信じなければキリストの救いとは無縁です。まずイエス様が十字架に死んで墓に葬られ、三日目によみがえられたことを信じるとき、どのような困難や苦しみにあっても希望をもって生きることができます。なぜなら、主をよみがえらせた神様はまた私たちをもよみがえらせることが出来ると信じられるはずです。(KE)


十字架のイエス・キリスト

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