よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

8月31日(木)の聖言

2017年08月31日 | Weblog

「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。」第二コリント2:14

 バラやクチナシ、木犀など、香り豊かな花があります。これからの季節、初秋になるとどこからともなく金木犀などの香りが漂ってきます。そのとき心は温められ、優しくなります。そのような香り、殊にキリストのかおりを放つものとして、あなたを選んでくださったのです。(KE)


8月29日(火)の聖言

2017年08月29日 | Weblog

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」詩篇8:4

 表題には「ダビデの歌」と記されています。羊飼いの子であったダビデが一国の王になるという想像を超えた事態を体験しました。自分の不思議な運命を握る神様を思う時、「なぜ私が」という素朴な疑問にぶつかります。それと同様に、今日、生かされている私に神様は目をとめ、生きる力、必要の全てを満たして思いがけない人生を歩ませてくださいます。主のご愛と恵みに感謝するほかありません。(KE)


8月28日(月)の聖言

2017年08月28日 | Weblog

「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。」詩篇139:1

 神様の御性質の一つは「全知」です。全てのことを知り尽くしています。自分以外に誰も知らないと思うなら、それは大間違い。神様は全てお見通しです。そう言われると、なんだか怖い感じがします。咎められることがあるのではないかと不安になります。しかし、主は咎めるため、罰するために知り尽くしたと言うのではなく、私たちの欠けを補い、不足を満たして、神様の愛と恵みを悟らせるためです。感謝、感謝!(KE)


8月27日(日)の聖言

2017年08月27日 | Weblog

「だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。」第二コリント1:7

 わたしたちはどれだけ人を信じて裏切られ、失望したことでしょう。そのたびに、心傷つき、二度と信用するものかと、人間不信に駆られます。ところが、パウロはコリントの人々に希望を持ち続けると語っているのです。実は、彼らにパウロは深く失望させられたのです。しかし、キリストのゆえに、失望の闇を十字架の死に置き換え、よみがえりの光を受けて望み続けるのです。(KE)


8月26日(土)の聖言

2017年08月26日 | Weblog

「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。」詩篇121:1

 日常生活のなかで、様々な問題に没頭して自分の行く手が見えず、袋小路にはまってしまう時、あなたはどこに助けを求めるでしょうか。詩篇の記者は「山」に向かって目をあげると語っています。天地の創造者に思いを向ける。全能者である神様の助けがあることに心をとめるとき、行き詰った状況から抜け出すことができます。また、「山」は主の臨在である「シオンの山」でしょう。主を礼拝するとき、助けを受けることが出来ます。(KE)
 


8月25日(金)の聖言

2017年08月25日 | Weblog

「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」第二テモテ4:7

 自らの終りを自覚した聖徒パウロの言葉です。信仰のゆえに迫害を受け、暴虐な力によって命を奪われようとしていながら、冷静に自分の生涯を受け止める姿勢は厳粛な思いを喚起させます。いろんな意味で、道半ばと思われる状況だったのでしょうが、これが自分に与えられた人生のすべてであることを認め、余すところなく生きぬいた満足、喜びを語っています。私たちも彼に倣って、悔いのない一日を生きようではありませんか。(KE)


8月24日(木)の聖言

2017年08月24日 | Weblog

「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。」詩篇19:7-8

 「おきて」「あかし」「さとし」と言われていますが、これらは聖書の言葉と理解してよいでしょう。みことばは神様の力、命、霊を私たちの魂に注いでくれる管です。ただし、正しく受け止めなければきちんと届きません。器である心を空っぽにして、低くする時、水のように溢れる恵みを頂くことが出来ます。(KE)


8月23日(水)の聖言

2017年08月23日 | Weblog

「主の使は彼女に言った、『あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい』。」創世記16:9

 サライのつかえめハガルはアブラムによって身ごもりました。ところが、そのためにサライとハガルの間に反目が生じ、ハガルは苦しめられ、居たたまれず家を飛び出して荒野へ逃げます。時に、神様の使いはハガルに目を留め、この言葉をかけます。過酷な、厳しいことです。現実を逃避するのは簡単です。しかし、神様の言葉を信じて踏み出すのは覚悟がいりますが、神様はその結果を導き、受ける恵みは絶大です。(KE)


8月22日(火)の聖言

2017年08月22日 | Weblog

「わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」エゼキエル36:27

 ペンテコステの日に神様の霊、聖霊が弟子たちに注がれ、それによってすべての人々も霊を受けることができるようになりました。それはみ言葉にもあるように、神様の約束です。聖霊によらなければ正しい道を知ることも、みこころを悟ることも、それを行うこともできません。あなたが神様を信じるのも、イエス様をキリスト、救い主と告白することも、全て御霊の働きによるのです。(KE)


8月20日(日)の聖言

2017年08月20日 | Weblog

「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」ローマ6:16

 人は自分の力で歩むことができません。たえず何かに服従する存在です。神様がそのように造られたのですから。あなたは何に服従しているのでしょうか。自分に従うなら、あなたを占領しているサタンの僕です。イエス様に服従するなら、永遠の命を約束された義の僕となります。(KE)


8月19日(土)の聖言

2017年08月19日 | Weblog

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、」エペソ3:16

 人の存在は二つの側面から成立しています。生活を営むための外的諸条件、すなわち「外なる人」と、心、精神、霊魂などで表す「内なる人」です。どんなに外的条件が整っていても、その人の「内なる人」が萎えていると生きることができません。「内なる人」を強くする方法は神様から力を受ける以外にないのです。今日も、祈って、神様の力、御霊を求め、満たされて生きてください。(KE)


8月18日(金)の聖言

2017年08月18日 | Weblog

「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」ピリピ3:20

 この前半はクリスチャンの墓碑銘として好まれます。確かに、死後、人が帰るべきところを示し、希望を与えてくれます。しかし、同時に現在の立場、状況をも明らかにしています。すなわち、この世は旅先であり、わたし達はそれぞれの持ち場・立場に派遣されているのです。やがて故郷へ連れ帰るためにイエス様が来られるまで、与えられた使命を果たすよう求められているのです。(KE)


8月17日(木)の聖言

2017年08月17日 | Weblog

「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』。」黙示1:8

 世間ではことの始まり、原因は人の力やわざにあると思いがちです。不幸な目に会うと、誰々のせいだとか、あのこと、このことが原因だと言います。しかし、すべてのことの始まりは神様によるのです。また、終わらせるのも神様です。あなたの存在も、その終焉も、全てが神様によることを認めると、謙遜になることができ、肩から力を抜いて生きることが出来ます。(KE)


8月13日(日)の聖言

2017年08月13日 | Weblog

「わたしは心をつくして主に感謝し、あなたのくすしきみわざをことごとく宣べ伝えます。」詩篇9:1

 神様が私たちに求めておられることは、まず「感謝」することです。ただ、その感謝は人に対してではなく、また事情・境遇に対してでもなく、神様に感謝するのです。次は「あかし」することです。神様のわざを語ることです。日々の生活の隅から隅まで、主がどんなことをしてくださったか、事の大小を問わず、語ろうではありませんか。神様をもっと身近に感じることが出来ます。(KE)


8月12日(土)の聖言

2017年08月12日 | Weblog

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について…」第一ヨハネ1:1

 天下の名刀と言われても実際に使ってみなければ真価がわかりません。信仰についても同様です。知識として聖書を知り、みことばを諳んじていても、実際に「目で見て」「手でさわって」、体験して値打ちが分かるのです。主は弟子達と生活しながらご自分を体験させました。今も、主は共に生活しながら、ご自身を手でさわらせてくださるのです。(KE)


十字架のイエス・キリスト

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