よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

7月31日(日)の聖言

2011年07月31日 | Weblog
「昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。」出エジプト13:22 

神の民がエジプトでの奴隷状態から救い出され、約束の地カナンを目指して荒野の旅をしました。その間、神様は彼らと常に共にいまして、導き守り進み行かせました。その証しとして、「雲の柱」「火の柱」を置かれたのです。私たちも約束の地、み国を目あてにこの世と言う荒野を旅しています。今は目に見える証しはありませんが、聖霊は常に私たちと共にいまして、守り助け導いておられます。主の臨在を感じつつ旅を続けましょう。(KE)

7月30日(土)の聖言

2011年07月30日 | Weblog
「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。」マタイ12:34

“心にもないことを申しまして”というのが、一つの決まり文句です。しかし、これはまっかな嘘です。イエス様の言われるように、心にあるから出てくるのです。口を慎めと言われますが、慎むべきは「こころ」です。まず、心を清くすることが先決ではないでしょうか。そのために、こころの支配をイエス様に委ねる以外にありません。自分で清くしようとしても、到底無理です。心にキリストの霊が常に満ちているように祈り求めてください。(KE)

7月29日(金)の聖言

2011年07月29日 | Weblog
「ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。」マルコ12:42

おんなの人が献金を奉げた話です。この時代の貨幣価値がどのくらいであるか、分かりませんが、あとの記事に「あらゆる持ち物、その生活費全部」を入れたとあります。私たちは神様への感謝をどれほどしているでしょうか。受けた恵みの大きさは感謝の捧げものに比例します。口先だけの感謝で終わらず、具体的に文字通り力いっぱいの感謝を表す時、神様も喜んでそれに答えてくださいます。(KE)

7月28日(木)の聖言

2011年07月28日 | Weblog
「わたしは命のパンである。」ヨハネ6:48 

健康であり、生活が豊かになり、快適で安楽に生きることが“いのち”だと思っています。そのために額に汗して働いた結果、得られたものが現代の社会です。確かに寿命は延びて、高齢化社会を迎えるほどに“いのち”があふれているように見えますが、現実はむしろ“いのち”が乏しくなり、消えかけているのではないでしょうか。車のガス欠を避けるために、ガソリンを満タンにします。私たちの“いのち”はイエス様を食べること、みことばを信じ受け入れることです。(KE)

7月27日(水)の聖言

2011年07月27日 | Weblog
「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。」ヘブル3:14 

何事でも中途半端ほど使いものにならないものはありません。信仰もまた同様です。信仰生活の最終目的は永遠の命を具体的にいただくことです。最後まで信じ続けなければ得られません。実績に応じてとはならないのです。信仰の破船に会って消え去ることのないように、天にある報いを望み見つつ、与えられた地上の馳せ場を最後まで走りぬこうではありませんか。(KE)

7月26日(火)の聖言

2011年07月26日 | Weblog
「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。」マルコ5:33

 12年間も病に苦しんだ女の人が群衆にまぎれてイエス様の衣に触ったところ、瞬時に病は癒されました。イエス様は誰が触ったか探しました。その時、彼女は隠せなくて告白しました。主は彼女の信仰を認めて癒しの確信を与えてくださいました。私たちも主から受けた恵みを感謝して、主に栄光を帰し、「かくなりました」と信仰を言い表しましょう。(KE) by 輝子さん

7月25日(月)の聖言

2011年07月25日 | Weblog
「ノアはすべて神の命じられたようにした。」創世記6:22 

ノアの時代は世に悪がはびこり、暴虐に満ち、乱れていた。神様は人を地の表から一掃しようと決めたのです。ただ、ノアは正しく、かつ全き人だったから、神様は彼を恵み箱舟を作らせました。完成まで月日もかかり、費用もかかったでしょう。また誰も手伝う人もいません。しかし、彼は神様の言葉を信じて作りました。やがて大洪水が起こりましたが、彼と家族は救われました。それは神の言葉に従ったからです。(KE)

7月24日(日)の聖言

2011年07月24日 | Weblog
「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。」詩篇50:15 

神様は私たちに良きことをして喜ばせ、楽しませたいと願っておられます。なぜなら、喜び楽しんでいることが神様の栄光を現すことだからです。暗い顔をして、憂鬱な様子を好まれません。だから、「悩みの日に」呼べといわれるのです。助けたくて待っておられます。しかし、私たちは神様以外のものを頼み、浅はかな人の知恵でことを計ろうとするものだから、ますます泥沼にはまるのです。神様の本意をくみ取ってください。(KE)

7月23日(土)の聖言

2011年07月23日 | Weblog
「ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。」出エジプト3:2 

モーセが神の民をエジプトから導き出して、約束の地カナンへ移住する壮大なドラマに引き込まれたきっかけとなる出来事です。神様は薪にしかならない柴を“燃え尽きない柴”となして、尊いわざに用いられるのです。私たちも小さく、弱いものですが、神様の霊に満たされて、炎のように燃え続けるなら、見る者の人生を変えてしまうことになります。(KE)   by輝子さん

7月22日(金)の聖言

2011年07月22日 | Weblog
「モーセは彼らに言った、『しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう』。」民数9:8

 私たちは案外とせっかちで、すぐにやろうとします。そこには神様のみ心を伺うひますらありません。そのために失敗するのです。神様の祝福にあずかるには御旨を知り、従うことです。それにはまず神様に聞かなければなりません。必要なのは「しばらく待て」です。そして聞くのです。その後、聞いたところに従い、動き始めます。すると、神様はそのわざを祝福してくださいます。(KE)

7月21日(木)の聖言

2011年07月21日 | Weblog
「アサはその神、主の目に良しと見え、また正しと見えることを行った。」歴代下14:2 

アサは父の後を継いで王位に就きました。まずしたのがこのことでした。偶像、祭壇、石柱などを破壊して、神様の前に姿勢を整えたのです。その結果、神様は彼の治世の間、平安を与え、敵に勝利させてくださったのです。しかし、彼の晩年は気の毒でした。「病の時にも、主を求めないで医者を求めた」と語られています。神様から心が離れたのです。私たちもアサ王様の失敗を教訓にして、どんなときにも、神様を第一にしましょう。(KE)  by輝子さん

7月20日(水)の聖言

2011年07月20日 | Weblog
「神のみわざを考えみよ。神の曲げられたものを、だれがまっすぐにすることができるか。」伝道7:13 

人はあくまでも被造物です。神様は絶対者であり、創造者です。だから、人は神様のなされるままを受け入れる以外にありません。神様を尊ぶ、畏れるとはこのことを認めることです。神様にもてあそばれるかのように思われますが、決してそうではなく、神様のみわざこそ最善にして最高の道です。神様が曲げられたなら、それがベストであって、それを受け入れることこそ幸いなことです。(KE) by 輝子さん

7月19日(火)の聖言

2011年07月19日 | Weblog
「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」黙示2:4

 悲しい事ですが、私たちは弱くて新鮮な思いを持ち続けることができません。時間や日にちがたつと、初めの思いが薄らいで、感動もなくなり、陳腐な日常的事態となってしまいます。神様と私たちの関係はイエス様の十字架にあらわされた「愛」に感動した結果です。利害関係や義理・人情的関係ではないので、初めの「愛」が薄らぐと神様との関係も消えてしまいます。常に、思いを新しくして、主のご愛を深く感じようではありませんか。(KE)

7月18日(月)の聖言

2011年07月18日 | Weblog
「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」ローマ3:24 

人は神様に罪を犯して滅びの道を進んでいました。人はどんなにしても罪を償うことができません。しかし、造り主なる神様は人を愛してくださって、罪の代償として御子を十字架につけたのです。それによって、人は無代価で、ただ信じることによって罪を許され、義なる者としていただけるのです。これをして福音と言わずにおれましょうか。今日も主の赦しによって生かされているのです。感謝。(KE)
by 輝子さん

7月17日(日)の聖言

2011年07月17日 | Weblog
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」ガラテヤ2:20

 パウロが信仰を告白した力強い一節ですが、キリストの救いはまさにこれです。自分の人生をキリストのものとして生きることです。そこには「わたし」は無い。あるのは「キリストのため」だけです。そうなるために、常時、そのことを意識していなければなりません。そこに徹底して生きるなら、主が私たちの全責任を負ってくださいます。自分に死に切って、キリストに生かされようではありませんか。(KE)
by 輝子さん

十字架のイエス・キリスト

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