よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

3月31日(木)の聖言

2011年03月31日 | Weblog
「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12 

祭司サムエルはペリシテ人との戦いに勝利したとき、それを記念して石塚を建てました。その名は「エベネゼル」。神様の恵みによってここまで助けられてきたことを忘れないように記憶し、感謝を表したのです。今年もはや三か月の月日が過ぎますが、その間に思いがけない大災害に見舞われました。神様の憐みで私たちは「今に至るまで」生かされているのです。感謝です。(KE)

3月30日(水)の聖言

2011年03月30日 | Weblog
「しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。」イザヤ65:18 

神様の創造の目的はそれによってご自分が楽しみ、喜ぶためです。誰でも、自分の喜びを分かち合いたいと願うものです。神様も同じで、わたしたちにも神様の創造を共に楽しみ、喜んでもらいたいのです。ところが、わたしたちは喜べない、楽しめないでおります。善なる神様の意図を信じられない、不信の罪があるからです。主の愛に触れるなら、事態は変わります。(KE)

3月29日(火)の聖言

2011年03月29日 | Weblog
「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするのもであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ29:11

 神様のわざを終わりまで見極めることはできません。今、目の前の事態がどうゆう結果につながっているか分からないゆえに、不安と恐れを抱きますが、神様は「わたしが知っている」と言われます。神様の本意は常に「愛」なのです。平安、将来、希望につながる今であることを信じてください。(KE)

3月28日(月)の聖言

2011年03月28日 | Weblog
「わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。」ヨハネ14:21

 イエス様を愛する者を父なる神様が愛してくださるとの約束です。神様に愛されたいなら、イエス様を愛すればいいのです。そればかりか、イエス様も神様に愛される者を愛してくださるというのですから、こんなうれしいことはありません。神様と御子イエス様とに愛され、御子との密接な交わりを通して、主を深く知ることができるのです。その第一歩が主のことばを信じることです。(KE)

3月27日(日)の聖言

2011年03月27日 | Weblog
「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。」ヨハネ14:21

 イエス様を愛するとはどうすることか。それは実に簡単なことです。イエス様のことばを心に受け入れ、素直に従うだけです。人を愛する場合も同じです。愛する人のことばを最大限に信じ、それに従います。ことばはその人の分身のようなものです。イエス様のことばもイエス様の心を表していますから、これを自分の心におくとき、主と一つになります。まず、イエス様を愛する者となろうではありませんか。(KE)

3月26日(土)の聖言

2011年03月26日 | Weblog
「彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。」伝道5:15 

例外なく、人は生まれた時、裸です。何も持たずにこの世に生まれ、成長しつつ労苦によって、有形無形、いろんな物を獲得し、積み蓄えますが、やがてすべてを世に残して、まさに裸になって帰って行くのです。ただこの世にいる間、ほんの僅かな歳月ですが、その間、神様が備えて使わせて下さるのです。物質的な物に執着すると道を間違えますから、ご用心。(KE)

3月25日(金)の聖言

2011年03月25日 | Weblog
「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」ルカ11:13

 聖霊をいただくこと、これはよみがえられたイエス様を体験することであり、神様を知り、信じ、信頼できるようにしてくださる恵みです。どんなものより、聖霊を求めることほど素晴らしいことはありません。“天の父”なる神様は「与える」との約束ですから、信じて祈り求めようではありませんか。(KE)

by すずらんさん

3月24日(木)の聖言

2011年03月24日 | Weblog
「しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』と言われた。」マタイ14:27

 人が悩み、苦しみに会うと、自分だけがこのような惨めな目にあっていると思いやすいものです。そのため、倍して苦しく、つらいのです。イエス様はいつでも、どこでも、私たちと共に居てくださるために、よみがえられました。主のよみがえりを信じるとは、そのように主は今も私と一緒に居てくださると信じることです。あなたにも主は声をかけておられます。心を静めて、主の声を聴いて下さい。(KE)

3月23日(水)の聖言

2011年03月23日 | Weblog
「われらのなお滅びざるは、エホバの仁愛(いつくしみ)により、その憐憫(あわれみ)の尽きざるによる。」哀歌3:22(文語訳)

 震災で多くの方々の命が失われました。なぜ彼らが死なねばならなかったのか、それは分かりません。そのことよりも、今、私たちにとって大切なのは、彼が死んで、私が生きているのはなぜであろうかと言うことです。神様はあなたに願うことがあり、期待することがあればこそ、生かしておられるのです。神様の慈愛と憐みのゆえに、神様と共に生きる恵みを感謝しましょう。(KE)

3月22日(火)の聖言

2011年03月22日 | Weblog
「このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にもその身に及ぶことはない。」詩篇32:6 

このたびの大震災で怖かったのは、巨大地震はもちろんですが、なんと言って津波の威力です。一瞬にして大波は怒涛のごとく押し寄せ、一気にすべてのものを覆い尽くしてしまいます。目に見える津波ではありませんが、私たちにも「悩み」が津波のごとく心を支配します。それに抵抗するすべがありません。ただ一つ、祈ることが悩みの大波を逃れる道です。悩みに襲われるとき、躊躇せず祈ろうではありませんか。(KE)

3月21日(月)の聖言

2011年03月21日 | Weblog
「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。」イザヤ2:22 

“あの人に裏切られた”などと言う言葉を聞きますが、決して言われている人が悪いのではありません。そもそも、人を頼りにした人が愚かなだけです。“失望した”などと言う人は自分の愚かさを吹聴しているにすぎません。立場をかえて、自分が頼られたならば、相手の望むように答えることができるでしょうか。自分ができないのに、他人ができると期待するほど間の抜けた話はありません。自分ができない事は他人も出来ないのです。(KE)

3月20日(日)の聖言

2011年03月20日 | Weblog
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」マタイ7:24 

このたびの地震でもあちこちで液状化現象が見られました。埋立地のような地盤の弱いところでは激しい振動によって、地面に含まれている水が分離して湧き出るのです。沼地のようになり、上にあるものを地中に引き込んでしまいます。私たちの心も不安や恐れ、心配や思い煩いに揺さぶられると、まさに液状化現象を起こします。自分を見失わないように、心を据える場所をしっかりしておきましょう。(KE)

3月19日(土)の聖言

2011年03月19日 | Weblog
「聖者は言われる、『それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか』。」イザヤ40:25 

「聖者」とは神様のことです。この問いかけは繰り返し自らに向けるべきものです。なぜなら、私たちは神様を信じると言いながら、心が高ぶり、高慢になって、神様を忘れ、神様が無能無力な方であるかのようにふるまうことになります。このことはまた、人がどれほど小さく、弱い者であるかを忘れるからです。常に、自分がどんな者であり、神様がどんなに大きく、力ある方であるかを覚えておいてください。(KE)

十字架のイエス・キリスト

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