よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

5月31日(木)の聖言

2018年05月31日 | Weblog

「そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」マタイ26:56b

 イエス様は捕らわれ、大祭司カヤパの屋敷へ連れて行かれましたが、弟子たちは皆逃げてしまい、イエス様だけになりました。しかし、イエス様はそのことを嘆かず、それどころか意に介しません。弟子たちに囲まれようと、群衆に賞賛されようと、常にイエス様は一人であり、父なる神様との交わりだけを頼みとしていました。どんなに親しい友であれ、家族であれ、結局はあなたから「去って」いくものです。あなたを助ける方は神様以外にないのです。(KE)


5月30日(水)の聖言

2018年05月30日 | Weblog

「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。」ヘブル4:14

 イエス様はよみがえられたのち、天にかえられました。それは私たちの「主」となり、祭司として父なる神様に仕え、わたしたちのためにとりなしをしてくださるためです。主は「もろもろの天」、すなわち裏切られ、捨てられ、十字架上での霊肉の苦しみを受け、死の闇などを通って天に凱旋しました。今日も、この主が大祭司となり、あなたの祈りを取次いでくださいます。(KE)


5月29日(火)の聖言

2018年05月29日 | Weblog

「するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。」使徒9:18

 クリスチャンを迫害したサウロ(のちのパウロ)はダマスコへの途中で、甦られたイエス様に出会い、人生が180度変りました。そのとき、彼は一時的な失明を体験します。これはそれまで見ていた世界とは違った新しい世界へ入ったことを証しした事態です。「目からうろこ」とはこのことです。聖霊によって、心の目が開かれ、見えないものが見える者となって、パウロのように主に仕える生涯を全うしましょう。(KE)


5月28日(月)の聖言

2018年05月28日 | Weblog

「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。」ヨハネ8:7

 姦淫の現場で捕らえられた女の人をイエス様に訴えて来たときの言葉です。人の罪を糾弾するのは痛快なことで、私たちは「裁く」側に立とうとします。しかし、ここでイエス様は裁く者達に自分自身を吟味するように求めました。人はとかく他者に厳しく、自分に甘くなりがちです。私たちも、常に自分に向かって「罪のない者が投げつけるがよい」と語るべきです。あなたはいかがですか。(KE)


5月27日(日)の聖言

2018年05月27日 | Weblog

「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」ルカ6:31

 イエス様が求められる行動基準です。第一は先ず初めにあなたが事を始めることです。相手の動きに対応しようとしますが、相手の動きがどうであれ、まずあなたが主導権をとって、するべきことをする。第二は「自分」を抜きにしてはならない。自分がしたくないことを人に要求してはなりません。また自分にされたら嫌なことを他者にしてはなりません。いずれにしても、相手の立場に自分を置くこと。これらを欠いた行動は偽善です。(KE)


5月25日(金)の聖言

2018年05月25日 | Weblog

「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。」哀歌3:37-38

  神様は万物を支配しておられる方です。人にとってさいわいも災いも神様が備えられたことですから、良し悪しを言うことはできません。しかし、それらは神様がなさることですから、すべてが私たちにとって良いことであって、そこには神様の意図、意思が必ずあります。神様の深いみこころを汲み取ることが不可欠です。今日出会う出来事にも、神様の大切なみこころがあります。(KE)


5月24日(木)の聖言

2018年05月24日 | Weblog

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、…」伝道12:1

 「造り主」を覚えるとは、自分の力や努力、知恵や計画で生きているのではなく、造り主である「神様によって今日がある」と認めることです。そうなると、日々の生き方、考え方がガラリと変ります。思い通りにならないこと、予定と違うことを嘆いたり、失望したりすることはいりません。そのようにしている「造り主」が居られるのですから。(KE)


5月23日(水)の聖言

2018年05月23日 | Weblog

「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」マタイ6:13

 「主の祈り」の一節です。確かに、試み、試練と言われるものは好ましいものではありません。しかし、私たちは頑固で、鈍く、不従順な者ですから、苦しみや困難に遭わなければ砕かれた心、謙った者となれません。どうぞ、試みに会う前に、はやく神様のみこころを悟って、主に従おうではありませんか。神様は私たちに試練を与えたいとは思っておらず、むしろ、痛い目に会わないようにと願っています。(KE)


5月22日(火)の聖言

2018年05月22日 | Weblog

「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。」第一コリント9:26

 スポーツ選手は日ごろ激しいトレーニングを繰り返して、生活を自制し、全国大会だとか国際試合に優秀な成績を残そうと目標を目指します。明確な目標や目的があると、どんな困難にも耐えることが出来ます。それはスポーツだけでなく、どんなことにも言えます。人生の目標がはっきりしていれば、今日の生き方も自ずから決まってきます。その目標は天の御国へ帰り、神様の報いを頂くことです。(KE)


5月21日(月)の聖言

2018年05月22日 | Weblog

「かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」ローマ9:23

 陶器師は自由自在に自分の思い通りの器を造ります。神様もご自分を陶器師に譬えておられますが、捨てられるべき私たちを「あわれみの器」として選んでくださったのです。その器を通して、神様は豊かな栄光をあらわそうとしておられます。それはイエス様が神様の備えられた栄光の生涯を生きたように、私たちも生きるためです。(KE)


5月20日(日)の聖言

2018年05月20日 | Weblog

「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。」詩篇103:1-2

 神様をほめたたえ、感謝することは私たちの力であり、喜びです。命も健康も、日々の生活も仕事も家族も、どれをとっても神様によらないものはありません。しかし、人は自分勝手に事の良し悪しを決めて、神様を忘れ、感謝なく、不平不満、つぶやき憤りに心奪われて過ごしています。小さなことから大きな事まで、神様のめぐみばかりです。「主よ、感謝します」と叫んでください。(KE)


5月19日(土)の聖言

2018年05月19日 | Weblog

「神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。」ダニエル2:21 

 神様は万物を力ある腕で支配し、生殺与奪の権をもつ全能者です。神様にできないことはありません。私たちもこの方のみ手によって生かされているのです。必要に応じて、神様は自在に事を備え、持ち運び、結末を決められます。思い悩む時、無力を感じる時、当惑する時、失望することはいりません。神様は間髪を入れず救ってくださいます。神様のわざを待ち望みましょう。(KE)


5月18日(金)の聖言

2018年05月18日 | Weblog

「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』。」イザヤ40:3

 「荒野」、「さばく」などは、人の住まない地、慰めも潤いも喜びも無い地です。時に、そのような索漠とした事態や状況におかれます。そこには絶望しかないでしょう。しかし、そのような中で、まず神様に対する姿勢を整えること、これが求められていることです。今、荒野やさばくのような中にあるなら、絶望して投げ出す前に、神様をどのように信頼し、どこに置いているか、点検しようではありませんか。(KE)


5月17日(木)の聖言

2018年05月17日 | Weblog

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71

 苦しみに遭うのは不幸だとか、人生を無駄にしたと嘆きます。だから、だれでも苦しみに遭いたくないと願っています。しかし、人生を考えると、その大半は苦しみの中で過ごしているように思われます。それは神様が備えたことであり、苦しみを通してしか味わえないもの、得られないものがあるからです。このみことばのように、神様のこころを知ることが出来ればどんなに幸いでしょうか。(KE)


5月16日(水)の聖言

2018年05月17日 | Weblog

「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。」第一テモテ6:12a
 
 信仰生活には困難や苦しみは無いと思われがちですが、むしろ逆です。信仰のゆえに戦いや困難があります。また、その戦いを勝利しなければ信仰の結果なる永遠のいのちに至る救を得ることができません。ただし、戦いの場は事情や境遇など外的環境ではなく、自分のうちに働くサタンの力との戦いです。信仰に立とうとすると、同時に神様から引き離そうとする力が働くのです。この戦いは生涯続きます。今日も永遠のいのちを目指してサタンに勝利してください。(KE)


十字架のイエス・キリスト

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