よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

12月31日(土)の聖言

2011年12月31日 | Weblog
「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』。」黙示1:8 

2011年もいよいよ今日で終わります。年始より年末まで、今年も公私にわたって事の多い日々でした。しかし、一年を通して、全てのわざを備え、導き、全うされた方は「主なる神」です。人の力、知恵、計画などを無意味にされた方が一年を締めくくってくださるのです。あなたの身に起こったすべてについて、栄光を主に帰して、喜びと感謝をもって神様を褒め称えましょう。(KE)
by 輝子さん

12月30日(金)の聖言

2011年12月30日 | Weblog
「もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。」Ⅱコリント11:30 

世間は弱肉強食の競走場です。少しでも弱みをみせるとつぶされますから、張子の虎のごとく虚勢を張っていますが、自分の弱さを知っているのは自分自身です。だから、人知れない不安を感じているのが私たちの姿です。しかし、イエス様の力は弱いところに完全にあらわれると言われます。弱さ、不足、欠けたところなど、隠すことは要りません。神様はすべてご存じで、求める者に答えて、必要なものをすべて満たすことができます。(KE)
by 輝子さん

12月29日(木)の聖言

2011年12月29日 | Weblog
「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。」ハバクク2:3 

すべての事に「時」があると聖書は語っています。それは人の計画する「時」と違って、神様の定めた「時」です。人は神様の時を待つことができずに焦りますが、神様は決して忘れているのではありません。神様を信じて、待っているなら、必ず、事態や事柄が動き出すときがきます。焦ったり、あわてたりせず、じっくりと腰を据えて、主の時を待ちましょう。(KE)
by 輝子さん

12月28日(水)の聖言

2011年12月28日 | Weblog
「わたしは主であって、あなたをいやすものである。」出エジプト15:26

 病気になると早く良くなろうとして、医者や薬を求めて奔走します。原因や治療法を調べて最善な処置を願いますが、なかなか思うようにいきません。その結果、医者の悪口を言ったり、薬に不信感を抱いたりします。しかし、それはお門違いで、病を与えられるのは神様であって、また癒されるのも神様です。医者も薬も神様の手に握られた道具にすぎません。ですから、主の許しがなければ病気にならないし、また癒しもありません。(KE)

12月27日(火)の聖言

2011年12月27日 | Weblog
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71 

だれも苦しみに遭うことを好む人はいません。なんとか避けようとします。しかし、苦しみのない人生などはありません。それもまた神様の備えられた恵みだからです。順境にあるときより、逆境にあるときのほうが人生をより深く味わうことができます。殊に、神様のご愛、力、慰めなど、苦しみを通らなければ知り得ない宝に出会います。苦しみを恐れず、大胆に受けて立とうではありませんか。(KE)

12月26日(月)の聖言

2011年12月26日 | Weblog
「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。その名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。」ルカ1:49-50 

マリヤの身に起こった出来事は決してうれしいことではありません。命すらも危うい出来事です。そうでありながら、彼女は喜びにあふれています。なぜでしょうか。それはただ一つ、全能の神様がなさる業であり、神様は憐み豊かな愛に満ちた方であると信じたからです。神様を信じて、全面的に委ね切るとき、あなたもこの喜びを体験できます。(KE)

12月25日(日)の聖言

2011年12月25日 | Weblog
「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」ヨハネ1:4-5 

クリスマスおめでとうございます。イエス様のご降誕なくしては闇に生きるしかありません。闇を追い払い、光を照らして喜びと望みと平和をもたらす方が世に来て下さったのです。今も主は私たちのうちに宿っておられます。もはや闇は消え去ったのです。まだ暗闇にあるなら、それは光を遮るものがあるからです。十字架を仰いで、主の赦しを信じるとき、光が輝きます。(KE)

12月24日(土)の聖言

2011年12月24日 | Weblog
「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」ガラテヤ6:7 

神様は目が見えないのでもなく、耳が聞こえないのでもありません。神様が見えないゆえ、勝手気ままに高慢不遜な生活をするとき、有形無形であれことごとく知っておられて、信賞必罰、必ず報われます。罰せられると、神様は厳しい非情無慈悲な方とつぶやきますが、実は自業自得であって、自分がまかなければ刈り取ることもないのです。神様をいつも意識して、御心に従うよう努めましょう。(KE)

12月22日(木)の聖言

2011年12月22日 | Weblog
「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」マタイ6:31

 イエス様は繰り返しこのことを語っています。つまりは生活のこと、体のこと、命(肉体の)のことで思いわずらうなと言うのです。神様は私たちが思いわずらうことを嫌われます。なぜなら、神様を信頼しないがゆえに思いわずらうからです。神様は私たちの「お父さん」ですから、子供になりきって信頼することが幸いです。人の親ですら、わが子に最善をしようとするではありませんか。(KE)

12月21日(水)の聖言

2011年12月21日 | Weblog
「イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」エレミヤ18:6

 神様は全能者であり、万物の創造者であります。今日の私たち、その生活のすべてが神様の定められた道筋に従って動いています。それによって、神様はみこころを行っているのです。私たちにとって幸いと言えることも、不幸なことも、それもこれも神様のみこころによるのです。陶器師はそれぞれの目的にかなう器を造ります。同様に、私たちを神様の目的にかなうようにと、日々、わざを進めているのです。(KE)

12月20日(火)の聖言

2011年12月20日 | Weblog
「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす』。」イザヤ57:15

神様は聖なる方、高き所におられるゆえ、私たち人間とはまったく次元が違ったものです。共に住むなど到底不可能なことです。しかし、ただ一つ、「心砕け、へりくだる」者と共に住んでくださるのです。ヨセフ・マリヤの謙遜のゆえに神様は共に居て下さったのです。(KE)

12月19日(月)の聖言

2011年12月19日 | Weblog
「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」マルコ14:50 

イエス様が捕らえられたとき、それまで寝食を共にしてきた弟子たちは皆離れてしまい、イエス様は一人になりました。弟子たちを忘恩無情だと非難するのは簡単ですが、自分の身に置き換えると、容易に非難できません。今でも、イエス様を信じると言いながら、少し困難にあたると主を忘れています。まず自分自身の弱さ、狡猾さをしっかり知り、認めて、真実な者にしていただこうではありませんか。死に至るまで、忠実にイエス様に従いましょう。(KE)

12月18日(日)の聖言

2011年12月18日 | Weblog
「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』。」イザヤ40:3 

「荒野」「さばく」がどんなところか、実感がわきませんが、索漠として潤いのない不毛の地を想像します。それは私たちの心の風景でもあります。荒涼とした望みのない生活を送る私たちに、神様に対する姿勢、態度を整えるようにと呼びかけておられます。荒野やさばくを変えて緑豊かな輝いたオアシスにするのは神様のわざです。神様に働いていただくように、まず私たちの心と思いを神様へ向けましょう。(KE)

12月17日(土)の聖言

2011年12月17日 | Weblog
「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『…わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう』。」列王下20:5

 病気になって死にかかっていたヒゼキヤ王は激しく泣いて主に祈りました。その時、神様は心を変えて、預言者イザヤにこの言葉を語らせたのです。神様は「涙を見た」と言われます。神様は憐みに豊かな方です。涙ながらの祈りに答えずにおれません。私たちも主の慈愛と憐みを信じて、涙を流し祈ろうではありませんか。(KE)

12月16日(金)の聖言

2011年12月16日 | Weblog
「彼は拝して言った、『あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか』。」サムエル下9:8

 ダビデ王は親友ヨナタンの遺族を恵もうと、彼の子メピボセテを探して王宮に住まわせ、王の食卓で食事をさせました。彼は自分を「死んだ犬」と譬えていますが、足が不自由で歩けませんでした。ダビデ王の破格の厚遇に彼は何も応える術がありません。ただ、一方的な恵みに感謝するほかないのです。神様の恵みもまたしかりです。神の子とされた私たちはどれほど感謝しているでしょうか。(KE)

十字架のイエス・キリスト

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